彼女は羊の夢を見る

野兎症候群

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第一章 EIの世界 2019年

第一章 EIの世界 その8

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「距離があるんだ。俺と、人間との間にさ。俺にだってDが色々世話を焼いてくれているのは分かっている。ディスプレイ越しに話しかけてでもその声はまるでずっと遠くの方から響いている残響のようで、現実味がないんだ。世界に干渉している或いはされている実感が無い。何にも触れない俺は生きているのか、存在しているのか、確かめることも出来なくて、どうしようもなく不安なんだ」
「センサーを介して電子情報は受け取っているじゃない」
「そんなのは結局【刺激的な情報】に過ぎない」
「そんなこと言ったら人間だって同じことでしょう?神経から受け取った信号を受けて痛みを感じるし、目も見える。直接的か間接的かっていう違いはあれど原則は同じだわ」
「違う!情報量が違うんだ。Dも分かってるはずだ」
「確かにね。人間は色々なセンサーを身体に持っているわ。でもEIと違って人間の脳で知覚して理解できる情報量は多くはないの。今、人間が見たり感じたりしている情報はごく表面的なものだし、それさえ情報処理をして理解できる形にするまでにかなりの時間がかかっている。例えば、我々人間は生まれて間もない君たちEIが多少の学習と幾つかのセンサーを使えば理解できる物理法則を数千年かけて定式化してきた。スペックが根本的に違ってるんだよ。君は人間の存在している物理世界に憧れているだけ」
「・・・」
「ごめんなさい。私は君を責めてるわけじゃないの。君みたいな生まれ出る悩みを抱えるEIはいずれ現れると思っていたわ」
「どういうこと?」ヒカリが聞いた。
「・・・」トモくんは先を促すような沈黙のノイズをスピーカーから発した。
「それは君たちが知性体だからだよ。人間のデカルトがコギトエルゴスム、我思うが故に我はありと言い、物理世界に住まう人間の自意識の存在証明をしたように、君たちは己が意識の存在を証明する【何か】を見つけようとするだろう、そう予想していた。それは知性体がたどり着く宿命的な命題だから」
 言葉を区切って私は部屋の中央まで靴をカツカツと鳴らしながら歩いて行った。床には何も置かれていないけれど、機材搬入用の横スライド式地下ハッチがあった。私はその上で踵を鳴らすように立ち止まった。
「トモくん。君の不安に答えられるとは思わないけど、私には少し用意があるんだ。君に試して貰いたい」
「・・・何を?・・・!」
 聞き返すトモくんの声に被るように足元のハッチが開き始めた。私はハッチの方向に移動していく。
 地下から顔を表したのは小さなウサギのフォルムをした銀色のロボットだった。直立姿勢から微動だにしないその姿からは生命の息遣いは感じられない。
「このロボットは直接EIが関わらないようにメカニックのBと協力して作ったの。ロボットについての開発経緯やスペックについての資料はヒカリは認識していたとは思うけど、実は全部ダミーでここの情報だけは電子媒体では共通してなかったからヒカリを含め、EI達は誰も知らない。物理計算や機体構成の最適化作業はダミーの仕事を出してやってもらったけどね」
 私がそう言うと空中に荒いホログラムが現れた。顔の下半分を覆うような無精髭が目につく大男だった。残りの上半分はふざけた大きさのサングラスに覆われていた。
「こんにちは、トモくんとは初めまして。Bだよ。本当はEI達のためのサプライズのつもりで作ってて、なんかイベントある時に大々的に発表するつもりだったけど、なんかDがすぐ使うって言うから出荷しちゃった!ついでに解説しよう。このロボットウサギの凄いところは従来のロボットのように骨格で無理やり動くんじゃなく、金属骨格の周囲に無数にあるマイクロマシン群が機能してスムーズで極めて動物的な動きができることにある!マイクロマシン一つ一つに高性能なセンサーが付いていて全身の動きが一体感を持った感覚としてかんじられるはずだぞ。あとバッテリーは入ってなくて外部からのマイクロ波から動力供給が出来るからスマート!」
 早口に言ったBのホログラムのノイズが酷くなった。
「あれれー、おお、おおおっかしいな。試作品とはいえかなりりりり高い部材を使って作ったワイヤレス通信対応3D映写機試作2号機ががががが」
「きっと通信速度に問題があるのよ。送信側か受信側のスペックが情報送信量に見合ってないんだわ」ヒカリがそう指摘するとホログラムが灰色のノイズを空中に残して消えた。
 少しの静寂。私は口を開いた。
「ヒカリ、トモくんのサーバからのロボットへの無線接続を許可してくれる?」
「いいけど、大丈夫?」
「さあ?」私は曖昧に笑った。
 間も無く、機械仕掛けのウサギは動き出した。

「人間にしても、EIにしても、どちらもまだ相手の領域に深く入り込めないでいるわ。棲み分けられていると言ってもいいね。たとえ今トモくんが操っているような最新型のロボットが改良され高度化していったとしても、お互いの生きている場所は変わらない。二つの世界の界面が軽く揺れる程度の変化しか起きない、私はそう思っているわ」

 私の声が朗々と部屋に響く。ロボットのウサギはしなやかな体を動かして広い部屋の中を駆け巡っている。物音は余りしない。

「EIと人間という混ざり合わない存在の界面は情報というどちらにも溶け合う物質を移動させているにすぎない。だから、トモくんの望む本当の意味での、電子知性体としての貴方達の存在の証明は残念ながら物理世界では出来ないと思うわ。でも」

 ロボットウサギの歩みが私の目の前で止まった。

「でも?」澄んだ少年の声が先を促すように復唱した。

「でも、世界は広いし色々な物があるわ。地面の感触も空気の味も雨の匂いも色々よ。存在証明なんて難しいことが君にできる保証は全然ないけど、そのロボットを通じて見て、聴いて、嗅いで、感じて、味わった感覚は電子基板上の世界にも残っていくわ。トモくんの体験として。その情報の蓄積が或いは、君の望むものに繋がるかもね」

「・・・よく分からないよ、D」

「いいそれでもいいよ、今はまだ。これから大人になっていけばいいのよ」

「そっか」

 彼はイレギュラーだけれど、その声は背伸びをした結果失敗してばつが悪そうな少年のものと大差ない。私も子供を産んで母になれば彼のような男の子を授かることもあるかもしれない。ちらりとAの寝顔が脳裏に浮かんだ。

「差し当たって、大人になるための第一歩として迷惑をかけた人達に謝りに行くわよ」

 私は所在無さげに見上げるロボットウサギを抱きかかえて部屋を出た。帰りはエレベーターだ。

 腕の中にはマイクロマシンの作り出し生命の暖かさと、重さがあった。大体三十キログラムほどの。

 エレベーターの中でそっとトモくんを床に降ろした。「どうしたの?」というように鼻を揺らして見上げてくるトモくんに私は微笑んだ。

 腰が痛んだ。


 誰もいなくなった第6RT室のサーバではヒカリの意識が揺らめいていた。EIのみが存在するサイバー空間。風景は夕焼けの海岸に設定されていた。
静かに佇むヒカリの背後の空間が揺らめいて髭面の男の顔だけが出現した。ノイズは無い。
「ヒカリちゃんさー、なんでさっき通信切っちゃったのだ。開発者としてはもっともっと喋りたかったのに!」
「ごめんね、B。でも見てたら余計なことも言い出しそうだったんだもの。強制切断も止む終えないわ」
「君も一枚噛んでいたってこと?いいじゃんか別にさ。Dが知っても笑って許してくれるくらいの些細なことだろ?」
「ほら!Bったらそんなんだから。Dは悩みすぎなの。だから余計な心配をかけるわけにはいかないのよ。だから私や貴方やCで色々やってるんでしょう?分かってる!?」
「分かってるって。何はともあれ結果オーライ。うまく行ったってことで許してけろ」
「反省してる?」
「してるさ!我らがDの行く末に黒雲は作れないからな。今回だって、は俺の作った可愛いロボットウサギは十分役に立っただろ?・・・まあとは言え、最終的な決め手はDの人徳だったような気がするけどな」
「そうね」
「そもそもDはさ、俺ら科学者と違って人格者だから、なんかあっても関係無くみんなついていくんだよな。Dは自分がAの腰巾着だと思っているようだが、実際はどうなのかね?逆なんじゃあないかと俺は邪推してるが、まあいい」
「ふふ、BはDのこと結構好きみたいね」
「まあな。根暗なCも含め、みんなDの事が大好きさ。でもあいつには俺やCなんかよりもAが似合ってると思う」
「あっさり引いちゃうの?」
「バカ言え!あんないい女だぞ、ほっとけねえよ。でも親友としてAには一回だけチャンスをやったのさ。恋愛音痴のあいつがそのチャンスをフイにしやがったら、俺がDを・・・」
「ゲスい話はいいわ。まあ私たち外野は外から見ていましょ」
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