せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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___目を閉じて、沙耶……


 今でもあの言葉は耳に残る。

 亮治さんとなら幸せになれると思っていたから、全てを受け入れられると信じていた。だけど、いざ唇が触れそうになると、小さく身体は萎縮した。
 私を抱きしめる亮治さんにも不安は伝わって、結局心を通わすことはできなかったように思う。

「彼が沙耶さんを迎えに来ないと、僕の中で確信した時にはあなたを妻にしたいと思います」

 沙耶……と呼ばれたのは、あの時だけだった。もしまた亮治さんが私を「沙耶」と呼ぶ日が来たなら、それが彼の中で確信した日になるのだろう。

「沙耶……」

 亮治さんの顔がまぶたの裏に浮かぶ。
 私を、沙耶と呼ぶの?

 頬に触れる温かな手のひらに私はひどく安心する。

「沙耶」

 もう一度その声が耳に届いた時には、唇に優しく唇が重なって。

 亮治さん……。

 そう名前を呼ぼうとするのに、身体に力が入らない。

 これは夢だろう。そんなことを考えながら、私は夢に身を委ねている。
 夢から覚めたら、私は亮治さんと結婚するの?

 夢か現かわからない時の中で、私は甘美な口づけを素直に受け入れている。

 亮治さん……と、声にならない声で唇を開く。
 その時、身体が大きく揺れて、私はハッと目を見開いた。

 夢……?

 目の前には揺れるカーテンとベビーベッド。見慣れた自室に安堵しつつも、額に手を当てる。いつの間にかうたた寝をしてしまっていたよう。

 寝椅子に半分横たえていた身体を起こすと、部屋のドアが開いて、一人の男性が姿を見せた。

 とくん、と胸が音を立てる。
 唇に触れられた感触がよみがえり、思わず指を当てる。

 彼が私に口づけをしたのだろうか。
 夢だったのか、それとも……。

「先ほども様子を見に来たのですが……、よく眠っていらしたので。七海ちゃんもすっかり眠っているようですよ」

 亮治さんは穏やかに微笑んで、私の身体にかけられていたブランケットをたたむ。私が用意したものではないから、亮治さんがかけてくれたのだろう。

「さっきも、来たの?」
「ええ。もう仕事に戻らないといけないのでご挨拶をと思いまして」
「そんな、わざわざ良かったのに。亮治さんも忙しいのに……」
「忙しくても、会いたい人には会いに来ますよ。もっとも、仕事中に会社を抜け出すなんて、とても褒められたものではありませんが」

 亮治さんは苦笑いして、揺れるカーテンに近づく。

「もうすぐ春とはいえ、まだまだ冷えます。窓は閉めておきますね」
「え、窓? あ、本当。閉めておいたはずだったのに」
「どこかのノラ猫がいたずらしたのかもしれない」
「ノラ猫? やだ、猫だなんて」
「冗談ですよ。では、僕は失礼します。社長も奥様もお出かけになりましたので、どうぞごゆっくり」
「いつもゆっくりしてるわ」

 そう言うと、亮治さんはくすりと笑う。しかし、それ以上は何も言わずに部屋を出て行こうとするから、私は慌てて寝椅子から立ち上がった。

「あの、亮治さんっ」
「なんです?」
「あの、私……、奇妙な夢を見て」
「奇妙な夢ですか?」

 亮治さんは少しばかり興味深げに、ドアノブに手をかけたまま立ち止まる。

「亮治さんが私を呼ぶの」
「呼ぶ?」
「沙耶って、呼ぶの」

 亮治さんは片方の眉をあげて、私の方へ近づくと、不意にカーテンの方へ目を向けた。

「沙耶と呼んだのは、僕じゃないんじゃないかな。それも、きっと夢ではなくて」
「亮治さん?」

 亮治さんを見上げるが、やはり彼はカーテンの方をじっと見つめている。

「ご自身の目でご覧になるといい。僕が出ていかないから、彼もきっと困っているんでしょう」
「え、彼って……」

 亮治さんの目が向けられたカーテンが大きく揺れる。窓は閉めたはず。揺れるはずのないカーテンの奥から、いるはずのない青年が現れて、私はまばたきを繰り返す。

「亮治さん、まだ私、夢を見てるみたい」
「夢じゃないさ、沙耶」

 そう答えたのは亮治さんではなく。

「湊くん……どうして」
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