せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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 俺は少し迷ってから湊先輩の背中を追いかけた。

 沙耶さんの身に何かあったのだろう。このところ先輩はいらついていて、俺も正直後ろめたい思いもあって、目を合わせないようにはしていた。

 土曜日のことはよく覚えている。
 バレンタインのお返しにと差し出した花束を、しっかりと抱きしめた沙耶さんと過ごす時間は素直に楽しかった。

 あまり元気のなかった彼女は、純の話をすると一生懸命に聞いてくれた。次第に彼女の笑顔が増えてくるとなぜだか胸が詰まった。

 沙耶さんはいろんなことを我慢しながら湊先輩と過ごしているのだろう。だからいつも悲しそうだ。

 それでも先輩と一緒にいたいと願うなら、俺はそうやって彼女の話を聞いて、折れそうな心の支えになるしかないのだろう。

「朔くん、二人で一緒にいたら、きっとまた湊くんに怒られるね。でも……、それってきっと幸せなことなんだと思う」

 別れ際、沙耶さんはそんなことも言った。すぐに用事を思い出したと行ってしまったから、あまり気にも留めなかったけれど、あの言葉にどんな意味が込められていたのだろうとも思う。

「……ああ、調べてくれよ。秀人なら簡単だろ」

 廊下の角を曲がった先の、誰もいない廊下に立ち、湊先輩は電話をしていた。

「ひまじゃないことはわかってるさ」

 苦笑いする先輩の電話の相手は、兄の結城秀人だろう。普段は見せない弱気な先輩も垣間見える。

「沙耶は短絡的だから、偽名でホテルに泊まろうとか考えたりしないさ。それにきっと近くにいる」

 ホテルに泊まる?

 どういうことだろうと首を傾げた時、先輩は大きなため息を吐き出した。

「ああ、もう4日になる。俺がいない間にマンションに戻った様子もないんだ。電話にはもちろん出ないし、仕事も休んでるらしい。正直お手上げだ」

 心底困り顔の湊先輩に気づかれないように、俺はそっと廊下を引き返した。

 沙耶さんが4日もマンションに帰っていない?
 仕事も休んでいる?
 沙耶さんは行方不明なのだろうか……。

 次第に浮かぶ焦りが俺の歩調を早くする。

 もちろん俺だって沙耶さんを探す手立てなどない。だけど、何かしなくてはと、足取りばかりが速くなる。
 気づくと、妹の純と沙耶さんがよくランチに利用する喫茶店に来ていた。

「あれ? お兄ちゃん。どーしたの? 血相変えて。何かあった?」
「純……、良かった、いた。沙耶さんは? 沙耶さんはいない?」
「何、いきなり」

 喫茶店に入ろうとしていた純は、つかみかけていたドアの取手から離れ、俺の方へとやってきた。

「沙耶さんが会社休んでるって聞いたんだ。本当か?」
「誰に聞いたの? っていうか、ミナトくんだよね。体調不良らしいんだけど、昨日から来てないよ」
「本当なんだ」
「そんなこと嘘ついたって仕方ないでしょ。でもなんで? そんなに具合悪いの? 沙耶」
「あ……、いや」

 言うべきか悩んだ。妹とはいえ、沙耶さんと同じ会社の人間だ。純が余計なことを社内で話さないとも限らないのだ。

「なんかあったんでしょ。なんでもないのに、お兄ちゃんが沙耶の心配するのも変だよ」
「まあ……、そうだな」
「明日も来なかったらマンション訪ねてみようと思って。あのミナトくんが沙耶のお世話してるとも思えないし」
「それはやめておけよ」

 すぐに反対した。

「なんで?」
「湊先輩が純を相手にするわけないだろ」
「友達のお見舞いに行って何が悪いのよ。私は沙耶に会いに行くだけなんだから」
「だから、やめておけって言ってるんだよ」

 強い口調でもう一度反対すると、純は明らかな不信感をあらわにした。

「沙耶、どうかしたの? お兄ちゃんが私に聞くこと自体変だよね。そんなことミナトくんに聞けばいいんだもん」

 勘が鋭いというのか、俺が間抜けというのか。

 俺はため息をついて、喫茶店に入ろうと純を誘った。

「沙耶さん、土曜日からマンションに帰ってないらしいんだ。沙耶さんが行きそうなところ、今から教えてくれないか? ランチはご馳走するからさ」
「なにそれ……。沙耶、いなくなったの?」

 ランチどころではないと、喫茶店に入るのを拒んだ純は、すぐに手に持っていたスマホで沙耶さんに電話をかけたが、何回かけてもつながらないようだった。

「沙耶、どうしたんだろ……」

 不安そうにスマホを見つめる純の肩にそっと手を置く。

「沙耶さんは体調不良だって?」
「あ、うん。今日部長に聞いたら、そう言ってた」
「沙耶さんが直接会社に電話してるのかな」
「そこまで聞いてないけど、部長はそんなに深刻そうじゃなかったから」
「じゃあ、少なくとも沙耶さんはどこかで元気にしてるんだよな」

 会社へはきちんと連絡が入っている。それだけでひとまず安心できる。

「沙耶、どうしたんだろう」
「湊先輩も必死で探してるみたいだったから、喧嘩したとかではないと思うんだ」
「でも、マンションに帰らないんだったら、ミナトくんと何かあったんじゃない? でも、そんなことミナトくんに聞けないしね。沙耶のご両親は何も知らないのかな。知ってたらすごく心配してるよね」
「ご両親か……」
「お兄ちゃん?」
「沙耶さん、家に戻ったりしてないのかな。意外にそうかもしれない」

 灯台下暗しと言うし、と思う。

「だったらミナトくんは探さないでしょ?」
「確認してみる価値はあるよ。沙耶さんの自宅の電話番号知ってるか?」
「すぐにはわからないけど。会社で聞いてみるね。私、電話してみるよ。お兄ちゃんが電話したんじゃ、不審がって本当の話なんてしてくれなさそうだしね」
「まあ、そうだろうな」

 俺は苦笑いしつつ、分かり次第知らせてくれよと純に念を押して、喫茶店の前でそのまま彼女と別れた。
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