せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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寝室までの距離

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「沙耶、先に風呂入るか?」

 食事を終えるとすぐ、湊くんはそう尋ねてきた。リビングの大きなテレビをつけたから、見たい番組でもあるのかもしれない。

「後でいいよ。湊くんは好きな時間に入っていいよ。いつもその後で入るから」
「風呂の掃除ぐらいはするから、先に入れよ」
「あ、……うん」

 見透かされたと思ったが、湊くんは浮かない表情の私に気づいて、にやりとした。

「君が一緒に入りたいというなら……」
「そ、それはないよっ」
「そうも嫌がることはないよ。いずれそうなる」
「……ならないよ」
「まあ、そう思うならそう思っていればいい。沙耶はコーヒー飲む?」
「あ、ありがとう。食器洗ってから飲むね」

 湊くんはいつもそうしているのだろうか。手慣れた様子でキッチンの脇にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れると、ソファーに腰かけてテレビを見始めた。

 足を組んでソファーに寄りかかり、時折薄く笑う湊くんの横顔は、何度見ても綺麗だ。
 彼の周囲を四角に切り取れば、雑誌の一ページになりそうで。彼に似合う女性は私ではないと自信を失いそうになる。

 でも、隣にいることが許されているなら、私は精一杯彼に尽くすだけなのだろう。その決意をしたはずなのに、彼と様々なことを理解し合える関係になりたいと望むことは、多くを求めすぎているのだろうかと不安にもなる。

「湊くん、コーヒーできたよ。ブラックで良かった?」

 お揃いのコーヒーカップに注いだコーヒーを差し出して、彼の隣に座る。

「悪いな。今日はブラックでいいよ。気分で時々変えるから、その時は自分でやるさ」
「湊くんはなんでも自分でやってきたの?」
「ん? まあ、普通だろ」
「私、湊くんのことなんにも知らないなぁって思って」
「そのうちわかっていくだろ」

 細かいことは気にするなよ、とばかりの口調で湊くんはそう言った。

「本当に?」
「結婚なんてしたことないからな。絶対とは言わないけど。そんなに頭で考えることでもないよ」
「湊くんは私を信用してるの?」
「信用? あんまり考えたことないけどさ、どうして?」

 湊くんは不思議そうに私の顔を覗き込む。

「だって、寝室に鍵かけてないから」
「は? なんだよ、それ」
「何するかわからないでしょ?」

 上目遣いで湊くんを見つめると、彼はおかしそうに笑う。

「つまり君は、俺が何をするかわからないから寝室に鍵をかけてるんだ? 俺としては何かあって欲しいね。いつでも部屋に来ていいんだよ。ただじゃ帰さないけどな」
「そ、そういう何かじゃなくて……」
「君もわからない女だね。君の情報を結城が調べないわけないじゃないか。何もかも調査した上で、俺の婚約者候補になってるんだ。君が結城に害をなす行為をしない女だってことはわかってるよ」

 そうか、と思う。自分が知らないだけで、様々なことが調査されているのだろう。

「私も、湊くんに見られて困るようなものはないよ」
「いつでも君の寝室に入っていいって誘ってくれてるのか?」
「だから……、そうじゃないよ……」

 彼のからかいには困り果ててしまう。

「まあ、用心のために鍵をかけておけばいいさ。俺もいつまで自制していられるかわからないしな。鍵がかかっていれば諦めもつく」
「私が言いたいのは、湊くんに隠し事したりしないよってこと」
「隠し事してもすぐにバレるからな、しない方が身のためだ」

 どうも私の伝えたいことが伝わってないようで、もどかしい。

「だからね、湊くんも隠し事しないでなんでも話してくれていいんだよ」
「俺はきっと話さないだろうな。君みたいにお人好しじゃないから」
「でももし、別に好きな人が出来たら……」

 愉快げに私を見ていた湊くんの表情は、そのひとことで感情が消える。

「君以外の女を好きになったりはしないよ」
「でもほら、やっぱり……、もしもってことがあるかもしれないし」
「それは君にも言えることだろう? 君はそんなことを考えて俺と一緒にいるのか? 他に好きな男が出来るかもしれないなんて思ってるのか?」
「……違うよ」

 怖い顔をする彼から目をそらすと、彼の手が私の手に重なる。

「俺たちはまず何が足りない? 何が君を不安にさせる?」

 彼に視線を戻す。いつになく真剣な目をする彼に、私が不安を感じる必要なんてないのだとは思うけれど。

「湊くんが私を好きになる理由がわからないよ。湊くんだったら、もっと綺麗で頭のいい人と結婚できるだろうし」
「綺麗で賢い女に興味がないだけだ」
「あんまり答えになってないよ……」
「君がいい理由か……。そうだな。君といると落ち着く。それだけかな」

 思いがけない理由を聞いた気がして、力が抜ける。

「落ち着く?」
「大事なことだろう?」
「うん……」
「安心したか?」
「少しだけね」

 そう言うと、ちょっとだけ彼は目尻を下げる。

「少しか。まあいいさ。君が俺に不似合いだと思ってるんじゃないかってことは前からわかってたことだ。すぐに自信が持てないこともわかってるよ」
「本当に、私でいいの? 後悔しない?」
「しないよって前から言ってる」

 湊くんは優しい目をして、私の肩を抱き寄せる。肩に添えられた手も優しくて。

「毎日一緒にいよう。こうやって身を寄せ合ってるだけでわかることもあるはずだ」

 私はそっと彼の胸に頬を寄せて目を閉じた。彼の心音が私を落ち着かせてくれる。

 私はきっと彼が好きだろう。そうだと思うけど、まだ曖昧なこの気持ちをうまく言葉に出来なくて。

「そんな隙を見せたりして、君は無用心だな」

 冗談交じりに言いながらも、湊くんは優しく私を抱き寄せるだけで、緊張してしまうようなことは何一つしない。

「もうちょっとだけ、一緒にいてね」

 彼の胸元をきゅっと握ると、彼は「ああ」と短くうなずいて、私の髪を優しく撫でた。
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