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寝室までの距離
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仕事を終えるとすぐ、湊くんのマンションへと向かった。お母さんに電話したら、荷物は結城の使いの者という青年に渡したという。
荷物はトランクに入る程度のもので、週末にまた本格的な引越しをすることになるというのだから、週末まで待ってくれたって良かったのにと思う。
だいたい、一緒に暮らさなくてもいいと言ったのは湊くんだ。私の意思なんて無関係に事を運ぶことに、文句の一つでも言わなければと思う。きっと彼を前にしたら、思っていることの半分も言えないのだろうけど。
会社から歩いていける場所にあるマンションには、すぐに到着した。エレベーターに乗り込み、閉のボタンを押そうとした時、エントランスに入ってくる湊くんに気づいて、開のボタンに指をスライドさせた。
軽い足取りでエレベーターに近づいてきた彼は、「沙耶の後ろ姿が見えたから、ちょっと走ってきたよ」と言う。わずかに呼吸を乱しながら、およそ似つかわしくないビニール袋を持ち上げて見せる。
「買い物?」
「夜ごはん買ってきた。今夜は弁当でも一緒に食べよう」
「お弁当買ってきたの?」
「ああ、駅近くの手作り弁当屋。結構うまいんだよ」
「よく食べるの?」
「作ってくれる人がいたら食べないよ。沙耶次第だけどね」
そう湊くんが言った時、エレベーターは上昇する。そしてすぐに到着したエレベーターを降り、先に歩く彼についていく。
「湊くんに食べてもらえるような料理は上手に作れないよ」
「別に特別なものは食べてないよ。あ、そうだ。それなら母さんに習うといい。意外に家庭料理を上手に作る人だから」
湊くんは振り返り、穏やかに笑う。
「そうなんだね。包丁も上手に持てないのかって怒られちゃいそう」
「ははっ、大丈夫だろう。あの人も散々苦労したみたいだからね。お手伝いより上手に作れないのは、プライドが許さないからって猛特訓したらしいよ。今じゃ、あの人しか料理はしないよ」
「湊くんはお母さんの手料理で育ったんだね」
少しだけ親近感がわく。
「意外? 普通だよ、うちは。まあ、手伝いの者はいるが、基本的にはあの人がなんでもやるよ。だから俺も手伝いを雇う気もない。家事は沙耶次第だけど、まあ普通には俺もやるよ」
「本当に普通なんだね」
「よく誤解されるよ。で、安心した?」
「うん。お手伝いさんがたくさんいたら大変かなとは思ってた」
「じゃあ、今日から一緒に暮らそうな」
さらっと湊くんは言うと、マンションの扉を開き、先に入るようにと私を促す。
「今日から一緒に暮らすなんて決めたわけじゃないよ」
そんなことを言いながら玄関に入るけれど、結局私は湊くんに逆らえないだろう。
後ろで閉まる鍵の音にも慣れていかなきゃいけない。それ以上に戸惑うことなんて、いくらでもこれから起きるのだろうから。
「君の家に結婚報告の電話したら、一緒に暮らす心づもりはあると言われたよ」
リビングに置かれた長方形のガラステーブルの上にお弁当を置いた湊くんは、キッチンに向かいながらそう言った。
「お母さんがそう言ったの?」
「そう。だから荷造りを頼んだんだ。気が変わらないうちにと思ってね」
食器棚から湯のみを二つ取り出して、緑茶を入れる湊くんとカウンターをはさんで向かい合う。
「どうしていつも考える時間をくれないの?」
「それは俺のせいじゃないよ。俺だって今朝入籍したことは聞いたんだ。前からこうなることはわかってたんだし、今更目くじら立てることもないだろう」
「それはそうだけど……」
「だったらこの話はもういいだろ?」
「そ、そうじゃなくて。私たちの気持ちの問題の話をしてるの」
いつものようにはぐらかされてしまいそうになって慌てる。湊くんはお茶を持ってキッチンから出てくると、悠然とソファーに腰掛けた。
「私たちじゃなくて、君の気持ちの問題だろ? 俺は念願叶って喜んでるだけさ」
「そうかな。こんな風に結婚したら、いつか後悔する日が来るかもしれないよ?」
「しない」
「どうしてそんなに簡単にいつも言うの?」
「現状を考えると、君との結婚がベストだと思うからさ」
湊くんは「お茶が冷めるよ」と言いながらも、ソファーの背に腕を乗せて頬杖をついた。
「俺は君に一度ふられたんだ」
「え……、それは……」
「ムリだとはっきり言われた」
「湊くん、それはね……」
それは誤解だったのだ。もちろん、誤解がなかったとしても、即答で良い返事ができたかはわからないけれど。
どう伝えたらいいのかわからなくて黙ると、湊くんはため息をつく。
「俺の元カノは彼女だけじゃないよ」
「え……」
「だから、彼女だけを特別視していることはないし、君が気にすることでもない」
「それは……」
知野先輩のことを言うの?と思ったけれど、その名を口に出すことは出来なくて。
「今だって、遊び相手ならいくらでも見つかる。向こうに好意があるなら、俺は受け入れるだけだ」
「湊くん……」
「でもそれじゃ、むなしいだけだ」
「むなしい?」
「俺のブランドに惚れた女が、俺の心を乱すことはないんだ。でも君は違う。君に好きな男がいると知って、あきらめようとも思った。だけど、俺とは無関係なところで話が進んでしまったんだ。あきらめるのは簡単だったが、君が苦しむことになろうが、俺は自らの幸せを選んだ。君の気持ちがどうであろうが、俺はもう引き返すつもりはない」
仕事を終えるとすぐ、湊くんのマンションへと向かった。お母さんに電話したら、荷物は結城の使いの者という青年に渡したという。
荷物はトランクに入る程度のもので、週末にまた本格的な引越しをすることになるというのだから、週末まで待ってくれたって良かったのにと思う。
だいたい、一緒に暮らさなくてもいいと言ったのは湊くんだ。私の意思なんて無関係に事を運ぶことに、文句の一つでも言わなければと思う。きっと彼を前にしたら、思っていることの半分も言えないのだろうけど。
会社から歩いていける場所にあるマンションには、すぐに到着した。エレベーターに乗り込み、閉のボタンを押そうとした時、エントランスに入ってくる湊くんに気づいて、開のボタンに指をスライドさせた。
軽い足取りでエレベーターに近づいてきた彼は、「沙耶の後ろ姿が見えたから、ちょっと走ってきたよ」と言う。わずかに呼吸を乱しながら、およそ似つかわしくないビニール袋を持ち上げて見せる。
「買い物?」
「夜ごはん買ってきた。今夜は弁当でも一緒に食べよう」
「お弁当買ってきたの?」
「ああ、駅近くの手作り弁当屋。結構うまいんだよ」
「よく食べるの?」
「作ってくれる人がいたら食べないよ。沙耶次第だけどね」
そう湊くんが言った時、エレベーターは上昇する。そしてすぐに到着したエレベーターを降り、先に歩く彼についていく。
「湊くんに食べてもらえるような料理は上手に作れないよ」
「別に特別なものは食べてないよ。あ、そうだ。それなら母さんに習うといい。意外に家庭料理を上手に作る人だから」
湊くんは振り返り、穏やかに笑う。
「そうなんだね。包丁も上手に持てないのかって怒られちゃいそう」
「ははっ、大丈夫だろう。あの人も散々苦労したみたいだからね。お手伝いより上手に作れないのは、プライドが許さないからって猛特訓したらしいよ。今じゃ、あの人しか料理はしないよ」
「湊くんはお母さんの手料理で育ったんだね」
少しだけ親近感がわく。
「意外? 普通だよ、うちは。まあ、手伝いの者はいるが、基本的にはあの人がなんでもやるよ。だから俺も手伝いを雇う気もない。家事は沙耶次第だけど、まあ普通には俺もやるよ」
「本当に普通なんだね」
「よく誤解されるよ。で、安心した?」
「うん。お手伝いさんがたくさんいたら大変かなとは思ってた」
「じゃあ、今日から一緒に暮らそうな」
さらっと湊くんは言うと、マンションの扉を開き、先に入るようにと私を促す。
「今日から一緒に暮らすなんて決めたわけじゃないよ」
そんなことを言いながら玄関に入るけれど、結局私は湊くんに逆らえないだろう。
後ろで閉まる鍵の音にも慣れていかなきゃいけない。それ以上に戸惑うことなんて、いくらでもこれから起きるのだろうから。
「君の家に結婚報告の電話したら、一緒に暮らす心づもりはあると言われたよ」
リビングに置かれた長方形のガラステーブルの上にお弁当を置いた湊くんは、キッチンに向かいながらそう言った。
「お母さんがそう言ったの?」
「そう。だから荷造りを頼んだんだ。気が変わらないうちにと思ってね」
食器棚から湯のみを二つ取り出して、緑茶を入れる湊くんとカウンターをはさんで向かい合う。
「どうしていつも考える時間をくれないの?」
「それは俺のせいじゃないよ。俺だって今朝入籍したことは聞いたんだ。前からこうなることはわかってたんだし、今更目くじら立てることもないだろう」
「それはそうだけど……」
「だったらこの話はもういいだろ?」
「そ、そうじゃなくて。私たちの気持ちの問題の話をしてるの」
いつものようにはぐらかされてしまいそうになって慌てる。湊くんはお茶を持ってキッチンから出てくると、悠然とソファーに腰掛けた。
「私たちじゃなくて、君の気持ちの問題だろ? 俺は念願叶って喜んでるだけさ」
「そうかな。こんな風に結婚したら、いつか後悔する日が来るかもしれないよ?」
「しない」
「どうしてそんなに簡単にいつも言うの?」
「現状を考えると、君との結婚がベストだと思うからさ」
湊くんは「お茶が冷めるよ」と言いながらも、ソファーの背に腕を乗せて頬杖をついた。
「俺は君に一度ふられたんだ」
「え……、それは……」
「ムリだとはっきり言われた」
「湊くん、それはね……」
それは誤解だったのだ。もちろん、誤解がなかったとしても、即答で良い返事ができたかはわからないけれど。
どう伝えたらいいのかわからなくて黙ると、湊くんはため息をつく。
「俺の元カノは彼女だけじゃないよ」
「え……」
「だから、彼女だけを特別視していることはないし、君が気にすることでもない」
「それは……」
知野先輩のことを言うの?と思ったけれど、その名を口に出すことは出来なくて。
「今だって、遊び相手ならいくらでも見つかる。向こうに好意があるなら、俺は受け入れるだけだ」
「湊くん……」
「でもそれじゃ、むなしいだけだ」
「むなしい?」
「俺のブランドに惚れた女が、俺の心を乱すことはないんだ。でも君は違う。君に好きな男がいると知って、あきらめようとも思った。だけど、俺とは無関係なところで話が進んでしまったんだ。あきらめるのは簡単だったが、君が苦しむことになろうが、俺は自らの幸せを選んだ。君の気持ちがどうであろうが、俺はもう引き返すつもりはない」
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