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そこに息づくものたちの行方
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幼い頃、私はキャストドールの黒い髪を櫛で梳かしながら、誰にも話せない悲しみや、誰かと共有したい喜びを、その人形に語り聞かせていた。
彼女はいつも無表情で私を見つめていたが、その美しく凛とした眼差しに心惹かれていた。
そんなナミに、私はなりたいと思っていただろうか。
もしナミのようになりたいと思っていたのだとしても、それはたわいもない幼少期の私の思いで、本気で彼女になりたいなんて思っていたわけではなかったはずだ。
だから、ナミになった自分を目の当たりにした時、夢じゃないかと疑ったのだ。
あの時、喜びを感じることができなかったことが何よりの証拠だろう。
影見神社の御神体である鏡に映るナミの顔を目にした時には、すでに私の罪は始まっていた。
自由に生きる人生を奪われ、人形として生まれ変わったナミは、私の話をどんな思いで聞いていただろう。
生きているだけで幸せだった私のわがままを、どんな思いで……。
目尻から流れ落ちていく生ぬるい感触を懐かしく思いながらまぶたをあげる。
ぼんやりとした視界の中に、誰かが私の顔を覗き込んでいる様子が見える。
「木梨くん……」
すぐにはっきりとする視界に彼を認める。
凪は今にも泣き出しそうに口元を震わせて、彼に触れようと伸ばす私の手をつかむ。
その時、彼はひどく驚いたように一瞬手を離したが、すぐにまた優しく包み込んでくれた。
「那波……、良かった……」
「那波……? 私は、まだナミなの?」
もう片手で髪を梳きながら目の前にかざす。黒い髪だ。これは闇のように黒い那波の髪。失望だろうか。複雑な思いが胸を苦しくする。
「那波だよ。何も変わってない。違うな……、複雑だけど、これで良かったって俺は思ってる」
そう言って、凪は強く私の手を握る。
「私にとっても良かったのかしら……」
「それは俺にはわからないよ。でもさ、芽依の話だと、これが那波の望んだ結果だって」
「芽依と話したの? あの子はそんな風にあなたに話したのね」
これが私の望んだ結果?
そんなの嘘だ。
私は芽依の体に戻りたいとずっと望んでいたのに。
「ああ。芽依も気を失ってたけど、すぐに気がついて、今は自分の部屋にいるみたいだ。樋野先輩は念のためって、病院に行ってる」
「自分の部屋……」
そう聞いて、私はようやく自分が寝室にいることに気づいた。凪はベッドに寝かされた私の側にずっといてくれたのだろう。
「芽依に変わりはない?」
「変わってはないかな。那波の心配してるよ」
「心配……? あの子が、私を?」
「いつも心配してるよ。誰よりも那波のこと心配してる」
凪が芽依をそんな風に言うのを見ると、心が痛い。凪の知る芽依は作り物なのだ。私に体を返してくれなかったあの子が、本当の芽依なのに。
そう思ったら胸はもやもやして、思いがけない言葉が口から出る。
「それはあの子が良く思われたいからでしょう? あの子の話にはいつも嘘があるの。自分の都合のいいように嘘をついてるのよ……」
凪は驚くように目を見開いた後、眉をひそめた。私をとがめている。そう思っても、胸のもやもやはおさまらない。
「そんなこと言ったらダメだよ。那波は純粋だから知らないだけで、誰だってそうなんだよ。誰だって良く思われたいし、思い通りにしたくて都合のいい嘘もつくんだ」
私のことを世間知らずだと凪は言う。言われても仕方ないと思いながらも、凪を責めてしまう。
「木梨くんも? あなたも私に都合のいい嘘をつくの?」
「俺は……、つかないよ。那波には絶対嘘なんて言わない」
「そんなのわからないじゃない」
「わかるよ。那波のことが好きだから、嘘をついて嫌われるようなことするわけないんだ」
凪は赤らんで私の顔を覗き込み、そのまま親指を私の目尻に滑らせた。
「もう乾いたんだ」
まるで羞恥を隠すみたいに話をそらす。
「乾いたって、何のことかしら?」
「さっき眠りながら涙を流してたんだ。つらい夢を見てるんだろうと思って苦しかったけど、なんか……、嬉しい気もして。俺って変だなって思ってた」
「泣いてた……? 私が」
「そうだよ。それにさ、那波、気づかないか?」
凪は嬉し泣きなのか、うっすら目に涙をためて私の頬に触れる。
「何を……?」
「あったかいんだ。那波の手がさっきからずっとあったかいんだよ。手だけじゃない。頬も……」
「え……」
「那波が欲しかったもの、全部戻ってきたんじゃないかって俺は思うよ」
「私は芽依になりたかったのよ。それなのにどうして」
「芽依が言ってたよ。自分には何の力もない。体を返す返さないもないんだって。那波が心から芽依の体を欲してないから、ただ戻らないだけだって」
「芽依はまたそんな嘘ばかり言ってるの? おかしいわ。それを信じるあなたもおかしいのよ」
そう言ってから、凪を傷つけたことに気づき、ハッと口を閉じるが、彼はなぜだか優しく微笑む。
「木梨くん……、私、違うの……ごめんなさい」
「那波は芽依に怒ってるんだ?」
「え、……そう、そうなのかしら」
「那波が怒ってるなんておかしいな。まるで兄弟げんかしてるみたいだ」
「兄弟げんか? 私と芽依が?」
「そうだよ。なんか微笑ましいっていうか……、芽依に振り回されてる那波が可愛いなって……」
凪はますます赤くなって、気恥ずかしそうに私から離れた。
「俺、今の那波も好きだよ。だからもう、芽依に戻りたいとか言わないで欲しいんだ」
「でも私は……」
「いいんだ。真実がどうであれ、俺は那波が好きだから、ずっと守っていきたいって思ってるから」
「私と芽依は、誰にも理解されない存在のままなのよ」
「俺だってそうだよ。那波は俺の何を知ってる? まだ全然知らないのに、それでも俺を好きになってくれたんだろ? 俺のこと、まだ好きでいてくれるなら、……そうだな、今度デートして欲しいな」
凪のあけすけな笑顔を見たら、なんだか少し呆れてしまう。芽依に対する不信感や、苛立ちのようなものがすっかり抜けていくようだ。
「木梨くん……、あなたって……」
「のうてんき?」
凪はそう言って笑う。
「違うわ、そうじゃなくて」
「じゃあ、変わってるって言うんだ?」
ますます凪が楽しそうに肩を揺らすから、私の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「そうね、本当にそう。本当に変わってるわ、あなたって」
幼い頃、私はキャストドールの黒い髪を櫛で梳かしながら、誰にも話せない悲しみや、誰かと共有したい喜びを、その人形に語り聞かせていた。
彼女はいつも無表情で私を見つめていたが、その美しく凛とした眼差しに心惹かれていた。
そんなナミに、私はなりたいと思っていただろうか。
もしナミのようになりたいと思っていたのだとしても、それはたわいもない幼少期の私の思いで、本気で彼女になりたいなんて思っていたわけではなかったはずだ。
だから、ナミになった自分を目の当たりにした時、夢じゃないかと疑ったのだ。
あの時、喜びを感じることができなかったことが何よりの証拠だろう。
影見神社の御神体である鏡に映るナミの顔を目にした時には、すでに私の罪は始まっていた。
自由に生きる人生を奪われ、人形として生まれ変わったナミは、私の話をどんな思いで聞いていただろう。
生きているだけで幸せだった私のわがままを、どんな思いで……。
目尻から流れ落ちていく生ぬるい感触を懐かしく思いながらまぶたをあげる。
ぼんやりとした視界の中に、誰かが私の顔を覗き込んでいる様子が見える。
「木梨くん……」
すぐにはっきりとする視界に彼を認める。
凪は今にも泣き出しそうに口元を震わせて、彼に触れようと伸ばす私の手をつかむ。
その時、彼はひどく驚いたように一瞬手を離したが、すぐにまた優しく包み込んでくれた。
「那波……、良かった……」
「那波……? 私は、まだナミなの?」
もう片手で髪を梳きながら目の前にかざす。黒い髪だ。これは闇のように黒い那波の髪。失望だろうか。複雑な思いが胸を苦しくする。
「那波だよ。何も変わってない。違うな……、複雑だけど、これで良かったって俺は思ってる」
そう言って、凪は強く私の手を握る。
「私にとっても良かったのかしら……」
「それは俺にはわからないよ。でもさ、芽依の話だと、これが那波の望んだ結果だって」
「芽依と話したの? あの子はそんな風にあなたに話したのね」
これが私の望んだ結果?
そんなの嘘だ。
私は芽依の体に戻りたいとずっと望んでいたのに。
「ああ。芽依も気を失ってたけど、すぐに気がついて、今は自分の部屋にいるみたいだ。樋野先輩は念のためって、病院に行ってる」
「自分の部屋……」
そう聞いて、私はようやく自分が寝室にいることに気づいた。凪はベッドに寝かされた私の側にずっといてくれたのだろう。
「芽依に変わりはない?」
「変わってはないかな。那波の心配してるよ」
「心配……? あの子が、私を?」
「いつも心配してるよ。誰よりも那波のこと心配してる」
凪が芽依をそんな風に言うのを見ると、心が痛い。凪の知る芽依は作り物なのだ。私に体を返してくれなかったあの子が、本当の芽依なのに。
そう思ったら胸はもやもやして、思いがけない言葉が口から出る。
「それはあの子が良く思われたいからでしょう? あの子の話にはいつも嘘があるの。自分の都合のいいように嘘をついてるのよ……」
凪は驚くように目を見開いた後、眉をひそめた。私をとがめている。そう思っても、胸のもやもやはおさまらない。
「そんなこと言ったらダメだよ。那波は純粋だから知らないだけで、誰だってそうなんだよ。誰だって良く思われたいし、思い通りにしたくて都合のいい嘘もつくんだ」
私のことを世間知らずだと凪は言う。言われても仕方ないと思いながらも、凪を責めてしまう。
「木梨くんも? あなたも私に都合のいい嘘をつくの?」
「俺は……、つかないよ。那波には絶対嘘なんて言わない」
「そんなのわからないじゃない」
「わかるよ。那波のことが好きだから、嘘をついて嫌われるようなことするわけないんだ」
凪は赤らんで私の顔を覗き込み、そのまま親指を私の目尻に滑らせた。
「もう乾いたんだ」
まるで羞恥を隠すみたいに話をそらす。
「乾いたって、何のことかしら?」
「さっき眠りながら涙を流してたんだ。つらい夢を見てるんだろうと思って苦しかったけど、なんか……、嬉しい気もして。俺って変だなって思ってた」
「泣いてた……? 私が」
「そうだよ。それにさ、那波、気づかないか?」
凪は嬉し泣きなのか、うっすら目に涙をためて私の頬に触れる。
「何を……?」
「あったかいんだ。那波の手がさっきからずっとあったかいんだよ。手だけじゃない。頬も……」
「え……」
「那波が欲しかったもの、全部戻ってきたんじゃないかって俺は思うよ」
「私は芽依になりたかったのよ。それなのにどうして」
「芽依が言ってたよ。自分には何の力もない。体を返す返さないもないんだって。那波が心から芽依の体を欲してないから、ただ戻らないだけだって」
「芽依はまたそんな嘘ばかり言ってるの? おかしいわ。それを信じるあなたもおかしいのよ」
そう言ってから、凪を傷つけたことに気づき、ハッと口を閉じるが、彼はなぜだか優しく微笑む。
「木梨くん……、私、違うの……ごめんなさい」
「那波は芽依に怒ってるんだ?」
「え、……そう、そうなのかしら」
「那波が怒ってるなんておかしいな。まるで兄弟げんかしてるみたいだ」
「兄弟げんか? 私と芽依が?」
「そうだよ。なんか微笑ましいっていうか……、芽依に振り回されてる那波が可愛いなって……」
凪はますます赤くなって、気恥ずかしそうに私から離れた。
「俺、今の那波も好きだよ。だからもう、芽依に戻りたいとか言わないで欲しいんだ」
「でも私は……」
「いいんだ。真実がどうであれ、俺は那波が好きだから、ずっと守っていきたいって思ってるから」
「私と芽依は、誰にも理解されない存在のままなのよ」
「俺だってそうだよ。那波は俺の何を知ってる? まだ全然知らないのに、それでも俺を好きになってくれたんだろ? 俺のこと、まだ好きでいてくれるなら、……そうだな、今度デートして欲しいな」
凪のあけすけな笑顔を見たら、なんだか少し呆れてしまう。芽依に対する不信感や、苛立ちのようなものがすっかり抜けていくようだ。
「木梨くん……、あなたって……」
「のうてんき?」
凪はそう言って笑う。
「違うわ、そうじゃなくて」
「じゃあ、変わってるって言うんだ?」
ますます凪が楽しそうに肩を揺らすから、私の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「そうね、本当にそう。本当に変わってるわ、あなたって」
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