太陽と傀儡のマドンナ

水城ひさぎ

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彼女は氷のように冷たい

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 三時間目の終了を知らせるチャイムが鳴ると共に深いため息が出た。
 実のところ、朝からずっとだ。気づけばため息をついている。

『喜び』なんて嘘じゃないか。

 ひどく傷ついた那波の表情が頭から離れない。
 いつも無表情の彼女が、ショックを隠せない顔をするとは思ってもいなかった。しかもそんな顔をしたのは、俺の軽率な発言によるものだ。自責の念が俺にため息をつかせる。

 那波だって十分に可愛い。
 芽依と比べる必要なんてない。そう言ってあげたら良かった。今更だが、そんな風に思う。

 2-Bの教室がざわつきだす。
 四時間目は体育だ。A組と合同のため、B組にA組の男子生徒がなだれ込んでくる。
 同時に、女子生徒はA組へと移動するから、あっという間にクラス内は男臭い匂いに満たされた。

 頭をスッキリさせたい。外の空気を吸おう。俺は那波から借りた心理学の本を片手に廊下へと出た。

 付箋紙の貼られたページを開く。
 昨日、那波が俺に見せたページだ。そこには、感情の色彩立体図がある。プルチックの感情の輪というものだそうだ。様々な感情が色分けして表されている。

 俺は心理学を語れるほど精通していないし、興味だってほとんどない。心理学研究部に入部したのは、本当にひょんなことからだ。

 那波だって、本格的な勉強をしているわけではないだろう。お茶を飲みながら、感情について書かれている本を読む毎日を過ごしているだけだ。

 だから、この図式から読み取れるものなんて俺には皆無だ。けれど、やけにjoyという文字が目につく。
 喜びという感情が自分の中にあるんだと知って、那波は喜んでいた。

 那波はきっと、この図に書かれている感情のすべてが、自分の中に存在しているのか知りたがっている。そんな気がしてならない。

「おー、木梨、勉強熱心だなー」
「え……」

 廊下の壁に寄りかかる俺の前に、体操着に着替えたA組の男子生徒が立ち塞がる。それも三人だ。
 まずい。三方を塞がれている。にやにやと不気味に笑う面識のない彼らに声をかけられてもいい予感はしない。

 心理学の本を脇に抱えると、正面に立つ阿部あべの視線がその本を追う。
 彼が阿部だとわかったのは、体操着にその名が刺繍されていたからだ。右側に立つのは長谷部はせべで、左側は渡辺わたなべのようだ。

「部活は楽しいか?」

 阿部が問う。彼らのリーダー的存在のようだ。

「あ、えっと……」
「そりゃ楽しいよなぁ。あの、飛流那波と二人きりだもんな。なぁ、おまえらもそう思うよなぁ」

 三人に下品な笑みが浮かぶから、居心地が悪い。この手の話は苦手だ。

「なにしてんの? いつも二人で、密室でさ」

 会話の主導権は阿部が握っている。
 長谷部と渡辺はにやにやして俺が逃げ出さないように立つだけだ。

「な、なにって……」

 彼らが期待する答えなんて何もない。いつも紅茶を飲んで話をするだけだ。

「飛流那波ってそういう時、どんな顔すんの? あの無表情でどうやって誘ってくるわけ?」
「し、知らないよっ」

 渡辺を押しのけようとすると、足を踏まれた。思わずつんのめる俺の肩をつかんだ阿部によって、背中は壁に押し付けられる。
 この不愉快極まりない会話から逃れることは出来ないようだ。

「下心あんだろ?」
「悪いけどないよ」
「本当かぁ? だったらいいけどさー」

 だったらいい?

 阿部は那波に気があるのだろうか。だから、理不尽な嫉妬で俺をからかうのだろうか。

 廊下に出てくる体操着に着替えた男子生徒は、困り果てる俺に気づいても見て見ぬふりだ。
 阿部は彼らにとって災厄をもたらす存在なんだろう。どうやらとんでもない男に目をつけられたらしい。

 それもこれも心理学研究部に入部したからだろうが、那波も俺が迷惑することが起きるかもと案じてくれていた。
 それでもいいから入部したいと言ったのは俺だから、こういった嫉妬は素通りするしかない。

「じゃあ、もういいかな。俺も着替えるから」
「まだ話は終わってないぜ。おまえがとんでもない目に遭う前にこうして来てやったんだからさ」

 恩着せがましい言い方をする。俺を不愉快にさせて楽しんでいるだけだろうに。

「俺は困ってないよ」

 めげずに三人を押しのけようとした時だ。
 A組から那波が出てくる。いつもの制服姿だ。俺と目が合ったが、何の感情も浮かばない。いや、むしろ冷たいと感じるような眼差しは緩むことなく、俺を素通りする。

 那波はそのまま俺に背を向けて、階段の方へ向かって歩いていく。

「那波ー、待ってー」

 ついで、体操着に着替えた芽依が教室を飛び出してくる。辺りをきょろきょろと見回し、那波の背中を見つけるとすぐに追いかけていった。

 こんな状況でも思わず苦笑いする。飛流姉妹にとって俺の存在はあまりにちっぽけだ。

「もう、いいかな。阿部くんがからかうようなことは何もないよ。やましい気持ちもない。こういうことは迷惑だよ」

 はっきり言うと、阿部はおかしそうに笑い、大げさに両手を広げて、周囲に聞かせるように大声を出した。

「聞いたか? 迷惑だとよ! 俺は何も知らない転校生の木梨くんに忠告してやってるんだよなー、なぁ!」
「忠告?」

 眉を寄せる。他の男子生徒はこちらを不穏な眼差しで見ているが、一切口を開かない。
 楽しげに廊下へ出てきた女子生徒もまた、ただならぬ気配を感じてそそくさと逃げ出していく。
 まるで彼らは、何か口に出してはいけないような秘密を抱えているみたいだ。

「ああ、そうだよ、忠告だ。おまえも飛流那波に触ってみればわかるさ。まあ、そんなことしたら、この学園にはいられなくなるけどな」

 阿部は俺を見下したまま、せせら笑う。

「意味がわからない」
「おまえ、頭悪いな。まあ、そうじゃなきゃ、あんな部活には入らないよな。気の毒だよ」
「俺を馬鹿にするのはかまわないけど、部活のことまでいうのはどうかと思う」

 少なくとも、心理学研究部は那波と芽依、安藤先生が守ってきたものだ。

「おまえは何も知らないから変な正義心掲げるんだよ。ここにいる全員、みんな知ってるんだぜ。飛流那波に触った女が退学させられたこと」

 阿部の言葉は聞き捨てならなくて、目を見張る。

「……まさか。触っただけで?」

 信じられない。
 俺は理解できないとそう言ったが、俺の反応を楽しみ、さげすむように阿部の唇は奇妙に歪む。

「それこそまさかさ。その退学した女は叫んだんだよ。バケモノ! ってな。飛流那波の手を触って、みんなの前でバケモノってさ!」
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