上 下
10 / 30
愛されてなくても

3

しおりを挟む
 綾斗さんの運転する車に乗るのは久しぶりだった。助手席に乗ったら、懐かしい感覚が戻ってくる。

 5年前、私たちは確かに平凡で幸せな恋人同士だった。あの頃のように戻れるなら、綾斗さんと結婚してもいいと思ってる。その思いを再確認しながら、運転席の彼へと視線を移すと、彼もこちらを見ていた。

「なに?」

 ちょっと気まずくて、ぶっきらぼうに言ってしまう。

「いえ。紗由理さんは変わらないなと考えていただけです」
「綾斗さんは変わってしまったものね」

 そう言うと、彼はわずかに眉をあげたが、何も言わずに車を発進させた。

 マンションへ到着しても、彼はずっと無言だった。何も語らない背中を見つめながら、後をついていく。

 揺れる腕を眺めていると、手をつなぎたくなった。彼に触れたい。その衝動がいつか抑えきれなくなるような気がしてしまう。

 日野谷さんは久遠が七海を乗っ取ろうとしてるなんて言っていたけれど、それはただのうわさで、現実的じゃない。それは綾斗さんもわかっているから、うわさを放置してるだけだろうと思う。

「綾斗さん、聞きたいことがあるの」

 エレベーターに乗り込む綾斗さんに、そう声をかけた。

「どうぞ」

 開くドアに手を添えて、彼は私を促した。

 質問していいと言ったのか、エレベーターに乗るよう促されたのかわからなかったけれど、乗り込むなり尋ねた。

「結婚しても、私を苦しめたりしない?」
「浮気の心配ですか?」

 彼はくすりと笑い、最上階になる20階のボタンを押す。

「心配はたくさんあるの。浮気じゃないことも」
「そうですか。何もかも話す必要はないと考えていますが」
「私と、私の家族も大切にしてくれる?」
「結婚を承諾してくれたら、ご挨拶にうかがいたいですね」

 穏やかにそう答える彼に、私の問いかけを深刻に受け止めている様子はない。

 乗っ取り計画なんて嘘だろう。少しでも私が疑ってると気付いたなら、彼はもっと強引に問いただそうとするだろう。私と日野谷さんの関係を知りたがったように。

「綾斗さんと結婚していいのか、まだ迷ってるの」
「今日はお返事いただけない?」
「もう少し、考えさせてほしいと思ってます」
「そうですか」

 綾斗さんは冷静にうなずくと、エレベーターから漆黒のじゅうたんが敷かれた通路に足を踏み込んだ。

 彼は何度もここへ足を運んでいるのだろう。慣れた様子で先へと進んでいく。

 重厚感のある焦茶色のドアに、彼が鍵を差し込む。ゆっくりと押し開かれたドアの中へと視線を移す。玄関のすぐその先に、大きなリビングが広がっている。

 そこには、すでに家具がそろっていた。海外の有名ブランドのソファーやテーブルだとすぐに気付いたのは、私が好むブランドの商品だったからだ。

 思わず息を飲んだ私を見て、綾斗さんは満足そうな笑みを浮かべた。

 彼はすべて覚えてるのだろう。私への愛情以外、私が好きだったもの、苦手だったものを。

「お気に召しましたか?」

 得意げな表情をする彼を見たら、素直になれない気持ちになった。

 彼が優しいのは、七海と縁を持ちたいからだ。内心は私のことはどうでもよく思ってる彼に優しさを感じるなんてどうかしてる。

「私が欲しいのは、こういうものじゃないの」

 かわいげなく言って、窓辺へと足を運ぶ。

 想像以上に美しい夜景が眼下に広がっている。周囲に高層のビルはなく、夜景をひとりじめしてるような気分になる。

 真新しいマンション。高級な調度品。幻想的な夜景。彼が与えてくれるものは素晴らしいのに、素直に受け入れられない自分が情けなくなる。

 うつむいたとき、肩に手が乗せられた。顔をあげると、綾斗さんの指がほおに触れる。まるで、泣かないで、というように。

「こういう優しさもいらないの」
「何が欲しいんですか?」
「決まってるじゃない。綾斗さんに愛してもらいたいの。昔みたいに……」
「そう」
「なんでそんな冷静な目で私を見るの? 私たち、すごく愛し合ってたじゃない」

 綾斗さんはため息をつく。わずらわしいとでも思ってるんだろう。

「紗由理さん、さっき、あなたが言ったんですよ、俺は変わったと」
「言ったわ」
「変わった人間に、何を期待するんですか」
「また変わって欲しいって願うのは、そんなにいけないこと?」
「紗由理さん」

 さとすような口調で彼は名前を呼んで、両手を伸ばしてきた。そして、ほおを包み込んでくる。

「綾斗さん……」
「変わった変わったと紗由理さんは言うが、俺の本質は何も変わらないんですよ」
「え……」
「今、あなたの目の前にいる俺は、昔の俺とさほど変わらない」
「どういう意味……?」

 昔から、綾斗さんは冷徹な人だったって言うの?

 綾斗さんは私の耳に視線を落とし、イヤリングに触れた。

 気づいただろうか。彼が初めて私にプレゼントした、サファイアのイヤリングだということに。

 9月生まれの私に、誕生石のサファイアを選んでくれた。18だった私には、もったいないぐらいの気品あるデザインで、ほんの少しむずがゆい気持ちになったものだった。

 今なら、サファイアの輝きに負けない気品を身につけられたと思ってる。ようやく、彼がプレゼントしてくれたイヤリングに追いつけたと思えてる。

「よくお似合いです」

 綾斗さんはそう言って、イヤリングに唇を寄せてきた。生温かい息が耳たぶに触れて、ゾクッと体が震えた。

 まだ触れられてもないのに、体の内側をなでられたような錯覚に襲われた。

「あ……」

 たまらず、小さな息をもらしたら、彼が目をのぞき込んでくる。

「ただあなたは俺を愛していればいい」
「愛してくれないのに……?」
「俺と結婚したことは後悔させない。それだけで充分でしょう」
「本当に、後悔させない……?」

 問うと、約束する代わりとばかりに唇を合わせてきた。

 何度か優しくついばむように触れてくる。柔らかな唇を楽しむように、そして、私の心を開かせるようにしっとりと重ねてくる。

 吐息を混じらせながらキスをする彼に、どんどんと胸は高鳴った。恍惚とした目で私を見つめる彼を見つめ返し、どちらからともなくふたたび重ねる。

「ん……っ」

 口内へ入り込んでくる舌を受け入れ、荒々しく息を吐きながら喰らい尽くすようなキスをしてくる彼の肩をつかむ。

 この間よりも深く重なる唇は情熱的で、腰に力が入らなくなりそうになって、つま先をあげて背伸びした。

 腰を抱いてくる彼の首に手を回し、ますます深くなるキスを受け止める。

 お互いに、夢中になって唇を重ねた。過去に重ねたどんなキスよりも貪欲に求め合った。

「綾斗さん……」

 ようやく唇が離れたとき、我に返って身を引いた。しかし、彼は私の手を引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれた。

「結婚しましょう、紗由理さん」

 決して、無機質ではないその声に胸が締めつけられた。

 綾斗さんに愛されてないのに、それを承諾するのはお人好しすぎる。わかっているけれど、愛されていると錯覚するようなキスをくれる彼から離れたくない思いは強かった。

 彼の胸もとを握りしめる。そこに鼻をうずめるようにして、わかるかわからないかぐらい小さくうなずいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...