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愛されてなくても
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綾斗さんの運転する車に乗るのは久しぶりだった。助手席に乗ったら、懐かしい感覚が戻ってくる。
5年前、私たちは確かに平凡で幸せな恋人同士だった。あの頃のように戻れるなら、綾斗さんと結婚してもいいと思ってる。その思いを再確認しながら、運転席の彼へと視線を移すと、彼もこちらを見ていた。
「なに?」
ちょっと気まずくて、ぶっきらぼうに言ってしまう。
「いえ。紗由理さんは変わらないなと考えていただけです」
「綾斗さんは変わってしまったものね」
そう言うと、彼はわずかに眉をあげたが、何も言わずに車を発進させた。
マンションへ到着しても、彼はずっと無言だった。何も語らない背中を見つめながら、後をついていく。
揺れる腕を眺めていると、手をつなぎたくなった。彼に触れたい。その衝動がいつか抑えきれなくなるような気がしてしまう。
日野谷さんは久遠が七海を乗っ取ろうとしてるなんて言っていたけれど、それはただのうわさで、現実的じゃない。それは綾斗さんもわかっているから、うわさを放置してるだけだろうと思う。
「綾斗さん、聞きたいことがあるの」
エレベーターに乗り込む綾斗さんに、そう声をかけた。
「どうぞ」
開くドアに手を添えて、彼は私を促した。
質問していいと言ったのか、エレベーターに乗るよう促されたのかわからなかったけれど、乗り込むなり尋ねた。
「結婚しても、私を苦しめたりしない?」
「浮気の心配ですか?」
彼はくすりと笑い、最上階になる20階のボタンを押す。
「心配はたくさんあるの。浮気じゃないことも」
「そうですか。何もかも話す必要はないと考えていますが」
「私と、私の家族も大切にしてくれる?」
「結婚を承諾してくれたら、ご挨拶にうかがいたいですね」
穏やかにそう答える彼に、私の問いかけを深刻に受け止めている様子はない。
乗っ取り計画なんて嘘だろう。少しでも私が疑ってると気付いたなら、彼はもっと強引に問いただそうとするだろう。私と日野谷さんの関係を知りたがったように。
「綾斗さんと結婚していいのか、まだ迷ってるの」
「今日はお返事いただけない?」
「もう少し、考えさせてほしいと思ってます」
「そうですか」
綾斗さんは冷静にうなずくと、エレベーターから漆黒のじゅうたんが敷かれた通路に足を踏み込んだ。
彼は何度もここへ足を運んでいるのだろう。慣れた様子で先へと進んでいく。
重厚感のある焦茶色のドアに、彼が鍵を差し込む。ゆっくりと押し開かれたドアの中へと視線を移す。玄関のすぐその先に、大きなリビングが広がっている。
そこには、すでに家具がそろっていた。海外の有名ブランドのソファーやテーブルだとすぐに気付いたのは、私が好むブランドの商品だったからだ。
思わず息を飲んだ私を見て、綾斗さんは満足そうな笑みを浮かべた。
彼はすべて覚えてるのだろう。私への愛情以外、私が好きだったもの、苦手だったものを。
「お気に召しましたか?」
得意げな表情をする彼を見たら、素直になれない気持ちになった。
彼が優しいのは、七海と縁を持ちたいからだ。内心は私のことはどうでもよく思ってる彼に優しさを感じるなんてどうかしてる。
「私が欲しいのは、こういうものじゃないの」
かわいげなく言って、窓辺へと足を運ぶ。
想像以上に美しい夜景が眼下に広がっている。周囲に高層のビルはなく、夜景をひとりじめしてるような気分になる。
真新しいマンション。高級な調度品。幻想的な夜景。彼が与えてくれるものは素晴らしいのに、素直に受け入れられない自分が情けなくなる。
うつむいたとき、肩に手が乗せられた。顔をあげると、綾斗さんの指がほおに触れる。まるで、泣かないで、というように。
「こういう優しさもいらないの」
「何が欲しいんですか?」
「決まってるじゃない。綾斗さんに愛してもらいたいの。昔みたいに……」
「そう」
「なんでそんな冷静な目で私を見るの? 私たち、すごく愛し合ってたじゃない」
綾斗さんはため息をつく。わずらわしいとでも思ってるんだろう。
「紗由理さん、さっき、あなたが言ったんですよ、俺は変わったと」
「言ったわ」
「変わった人間に、何を期待するんですか」
「また変わって欲しいって願うのは、そんなにいけないこと?」
「紗由理さん」
さとすような口調で彼は名前を呼んで、両手を伸ばしてきた。そして、ほおを包み込んでくる。
「綾斗さん……」
「変わった変わったと紗由理さんは言うが、俺の本質は何も変わらないんですよ」
「え……」
「今、あなたの目の前にいる俺は、昔の俺とさほど変わらない」
「どういう意味……?」
昔から、綾斗さんは冷徹な人だったって言うの?
綾斗さんは私の耳に視線を落とし、イヤリングに触れた。
気づいただろうか。彼が初めて私にプレゼントした、サファイアのイヤリングだということに。
9月生まれの私に、誕生石のサファイアを選んでくれた。18だった私には、もったいないぐらいの気品あるデザインで、ほんの少しむずがゆい気持ちになったものだった。
今なら、サファイアの輝きに負けない気品を身につけられたと思ってる。ようやく、彼がプレゼントしてくれたイヤリングに追いつけたと思えてる。
「よくお似合いです」
綾斗さんはそう言って、イヤリングに唇を寄せてきた。生温かい息が耳たぶに触れて、ゾクッと体が震えた。
まだ触れられてもないのに、体の内側をなでられたような錯覚に襲われた。
「あ……」
たまらず、小さな息をもらしたら、彼が目をのぞき込んでくる。
「ただあなたは俺を愛していればいい」
「愛してくれないのに……?」
「俺と結婚したことは後悔させない。それだけで充分でしょう」
「本当に、後悔させない……?」
問うと、約束する代わりとばかりに唇を合わせてきた。
何度か優しくついばむように触れてくる。柔らかな唇を楽しむように、そして、私の心を開かせるようにしっとりと重ねてくる。
吐息を混じらせながらキスをする彼に、どんどんと胸は高鳴った。恍惚とした目で私を見つめる彼を見つめ返し、どちらからともなくふたたび重ねる。
「ん……っ」
口内へ入り込んでくる舌を受け入れ、荒々しく息を吐きながら喰らい尽くすようなキスをしてくる彼の肩をつかむ。
この間よりも深く重なる唇は情熱的で、腰に力が入らなくなりそうになって、つま先をあげて背伸びした。
腰を抱いてくる彼の首に手を回し、ますます深くなるキスを受け止める。
お互いに、夢中になって唇を重ねた。過去に重ねたどんなキスよりも貪欲に求め合った。
「綾斗さん……」
ようやく唇が離れたとき、我に返って身を引いた。しかし、彼は私の手を引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれた。
「結婚しましょう、紗由理さん」
決して、無機質ではないその声に胸が締めつけられた。
綾斗さんに愛されてないのに、それを承諾するのはお人好しすぎる。わかっているけれど、愛されていると錯覚するようなキスをくれる彼から離れたくない思いは強かった。
彼の胸もとを握りしめる。そこに鼻をうずめるようにして、わかるかわからないかぐらい小さくうなずいた。
5年前、私たちは確かに平凡で幸せな恋人同士だった。あの頃のように戻れるなら、綾斗さんと結婚してもいいと思ってる。その思いを再確認しながら、運転席の彼へと視線を移すと、彼もこちらを見ていた。
「なに?」
ちょっと気まずくて、ぶっきらぼうに言ってしまう。
「いえ。紗由理さんは変わらないなと考えていただけです」
「綾斗さんは変わってしまったものね」
そう言うと、彼はわずかに眉をあげたが、何も言わずに車を発進させた。
マンションへ到着しても、彼はずっと無言だった。何も語らない背中を見つめながら、後をついていく。
揺れる腕を眺めていると、手をつなぎたくなった。彼に触れたい。その衝動がいつか抑えきれなくなるような気がしてしまう。
日野谷さんは久遠が七海を乗っ取ろうとしてるなんて言っていたけれど、それはただのうわさで、現実的じゃない。それは綾斗さんもわかっているから、うわさを放置してるだけだろうと思う。
「綾斗さん、聞きたいことがあるの」
エレベーターに乗り込む綾斗さんに、そう声をかけた。
「どうぞ」
開くドアに手を添えて、彼は私を促した。
質問していいと言ったのか、エレベーターに乗るよう促されたのかわからなかったけれど、乗り込むなり尋ねた。
「結婚しても、私を苦しめたりしない?」
「浮気の心配ですか?」
彼はくすりと笑い、最上階になる20階のボタンを押す。
「心配はたくさんあるの。浮気じゃないことも」
「そうですか。何もかも話す必要はないと考えていますが」
「私と、私の家族も大切にしてくれる?」
「結婚を承諾してくれたら、ご挨拶にうかがいたいですね」
穏やかにそう答える彼に、私の問いかけを深刻に受け止めている様子はない。
乗っ取り計画なんて嘘だろう。少しでも私が疑ってると気付いたなら、彼はもっと強引に問いただそうとするだろう。私と日野谷さんの関係を知りたがったように。
「綾斗さんと結婚していいのか、まだ迷ってるの」
「今日はお返事いただけない?」
「もう少し、考えさせてほしいと思ってます」
「そうですか」
綾斗さんは冷静にうなずくと、エレベーターから漆黒のじゅうたんが敷かれた通路に足を踏み込んだ。
彼は何度もここへ足を運んでいるのだろう。慣れた様子で先へと進んでいく。
重厚感のある焦茶色のドアに、彼が鍵を差し込む。ゆっくりと押し開かれたドアの中へと視線を移す。玄関のすぐその先に、大きなリビングが広がっている。
そこには、すでに家具がそろっていた。海外の有名ブランドのソファーやテーブルだとすぐに気付いたのは、私が好むブランドの商品だったからだ。
思わず息を飲んだ私を見て、綾斗さんは満足そうな笑みを浮かべた。
彼はすべて覚えてるのだろう。私への愛情以外、私が好きだったもの、苦手だったものを。
「お気に召しましたか?」
得意げな表情をする彼を見たら、素直になれない気持ちになった。
彼が優しいのは、七海と縁を持ちたいからだ。内心は私のことはどうでもよく思ってる彼に優しさを感じるなんてどうかしてる。
「私が欲しいのは、こういうものじゃないの」
かわいげなく言って、窓辺へと足を運ぶ。
想像以上に美しい夜景が眼下に広がっている。周囲に高層のビルはなく、夜景をひとりじめしてるような気分になる。
真新しいマンション。高級な調度品。幻想的な夜景。彼が与えてくれるものは素晴らしいのに、素直に受け入れられない自分が情けなくなる。
うつむいたとき、肩に手が乗せられた。顔をあげると、綾斗さんの指がほおに触れる。まるで、泣かないで、というように。
「こういう優しさもいらないの」
「何が欲しいんですか?」
「決まってるじゃない。綾斗さんに愛してもらいたいの。昔みたいに……」
「そう」
「なんでそんな冷静な目で私を見るの? 私たち、すごく愛し合ってたじゃない」
綾斗さんはため息をつく。わずらわしいとでも思ってるんだろう。
「紗由理さん、さっき、あなたが言ったんですよ、俺は変わったと」
「言ったわ」
「変わった人間に、何を期待するんですか」
「また変わって欲しいって願うのは、そんなにいけないこと?」
「紗由理さん」
さとすような口調で彼は名前を呼んで、両手を伸ばしてきた。そして、ほおを包み込んでくる。
「綾斗さん……」
「変わった変わったと紗由理さんは言うが、俺の本質は何も変わらないんですよ」
「え……」
「今、あなたの目の前にいる俺は、昔の俺とさほど変わらない」
「どういう意味……?」
昔から、綾斗さんは冷徹な人だったって言うの?
綾斗さんは私の耳に視線を落とし、イヤリングに触れた。
気づいただろうか。彼が初めて私にプレゼントした、サファイアのイヤリングだということに。
9月生まれの私に、誕生石のサファイアを選んでくれた。18だった私には、もったいないぐらいの気品あるデザインで、ほんの少しむずがゆい気持ちになったものだった。
今なら、サファイアの輝きに負けない気品を身につけられたと思ってる。ようやく、彼がプレゼントしてくれたイヤリングに追いつけたと思えてる。
「よくお似合いです」
綾斗さんはそう言って、イヤリングに唇を寄せてきた。生温かい息が耳たぶに触れて、ゾクッと体が震えた。
まだ触れられてもないのに、体の内側をなでられたような錯覚に襲われた。
「あ……」
たまらず、小さな息をもらしたら、彼が目をのぞき込んでくる。
「ただあなたは俺を愛していればいい」
「愛してくれないのに……?」
「俺と結婚したことは後悔させない。それだけで充分でしょう」
「本当に、後悔させない……?」
問うと、約束する代わりとばかりに唇を合わせてきた。
何度か優しくついばむように触れてくる。柔らかな唇を楽しむように、そして、私の心を開かせるようにしっとりと重ねてくる。
吐息を混じらせながらキスをする彼に、どんどんと胸は高鳴った。恍惚とした目で私を見つめる彼を見つめ返し、どちらからともなくふたたび重ねる。
「ん……っ」
口内へ入り込んでくる舌を受け入れ、荒々しく息を吐きながら喰らい尽くすようなキスをしてくる彼の肩をつかむ。
この間よりも深く重なる唇は情熱的で、腰に力が入らなくなりそうになって、つま先をあげて背伸びした。
腰を抱いてくる彼の首に手を回し、ますます深くなるキスを受け止める。
お互いに、夢中になって唇を重ねた。過去に重ねたどんなキスよりも貪欲に求め合った。
「綾斗さん……」
ようやく唇が離れたとき、我に返って身を引いた。しかし、彼は私の手を引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれた。
「結婚しましょう、紗由理さん」
決して、無機質ではないその声に胸が締めつけられた。
綾斗さんに愛されてないのに、それを承諾するのはお人好しすぎる。わかっているけれど、愛されていると錯覚するようなキスをくれる彼から離れたくない思いは強かった。
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