非才の催眠術師

水城ひさぎ

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救えなかった少女、救えたはずの少年

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「催眠術はとけないの?」
「とけますよ、いつかは。万能なものではありませんから」
「ミカドは……リン君は嫌だって。リン君のままでいたいって、そうおびえて……」
「催眠がとけかかっているんですね?」
「もう限界だって。リン君でいられるのは私次第だって……」
「騙されたがっているんですよ、ミカドくんは」

 騙されたがる?

 私は息を飲んで真咲さんを見上げる。彼の目はとても切なげに揺れている。

「本当は気づいているんです、彼も。ミカドとして生きていく方が幸せだということに。でもまだ彼の中にある悠紀さんへの思いがくすぶっていて元に戻れない。問題は彼の中にあるんです。催眠術はとけかけている。それは彼がかかりたくない気持ちを持つからです」
「私が……強く望んだら?」

 そう問う。声が震える。ミカドの人生を左右するのは私ではないかと怖くなる。

「彼は意に反してリンとして生きる道を選ぶかもしれない。しかしそれは不幸なことです。彼は人ではないのだから」
「やっぱり……」

 吐息を落とす。

 彼を不幸にするのは私だ。私はただ、ミカドと過ごす日々に癒しを感じていただけなのに、彼は頼りない私を励ますために自らを苦しめてまで側にいてくれようとしている。

 リン君が触れた唇に指を当てる。彼が私を思う気持ちを、どう受け止めたらいいのだろう。

「今日あったのはそれだけですか?」
「え……」

 真咲さんは私の手首をつかむ。唇から離された指を見つめる彼は、何を思ったかその指に口づける。

「先生……っ」

 慌てて腕を引こうとしたがかなわなかった。彼は鋭い眼差しで私を見つめ、それを問う。

「リン君が触れましたか? 唇に」
「……」

 言葉を詰まらせた私の態度は肯定だ。

「おかしいな。……猫に嫉妬するなんて」

 彼はふっと笑って、私の髪に指を通す。

「まだ間に合いませんか? 悠紀さんのことを忘れてはいません」
「でも古谷先生は……」
「医師だからという理由では納得できません」
「それだけじゃ……。先生は救いたい女性がいるのでしょう?」

 彼と目を合わせたら、私の言葉なんてただのざれごとに思えた。それほど彼の思いは真剣に見える。

「先生……」
「後悔はしたくありません。二度も……、同じ後悔はしたくない」

 真咲さんは苦しげに吐き出し、私を抱き寄せる。背中に回る腕が力強くて、私は安心する。

 彼を拒む理由すら、子供だましの陳腐なものに思える。彼もそれを思うのだ。

「どんな苦難が待っていても、悠紀さんを守り通します。少しでも希望があるなら、恋人になってくれませんか?」

 リン君はとけない魔法をかけてと言った。私もそれを望んでもいいだろうか。永遠に続く彼との愛情を求めても、いいだろうか。

「なれませんか……?」

 真咲さんは頼りなく眉を下げてそれを懇願する。

「二度と後悔したくないって、どういう意味ですか?」

 すぐにはうなずけなくて、そう問う。彼に他に好きな女性がいるのかどうか、真実は彼の真摯な眼差しから見えるのに。

「悠紀さんは幸せに暮らしていると思っていた。俺は知らないことが多すぎて、大切な人が不幸になっていることすら気付けなかった」

 彼は苦渋をにじませた言葉を吐き出す。

「出会う前の話なら先生が気に病むことなんて……」
「出会う前ではないですよ。彼と幸せそうにする悠紀さんから目をそらしたのは俺です」
「……彼って、敬太?」

 真咲さんは顔をしかめる。その表情が物語る。

 敬太に会ったことがあるのだ。その時きっと私も一緒にいた。

 その頃から私を?
 違う。そんなことあるわけないと思いながらも、それ以上を問う必要はない気がした。

「敬太のことはもう、忘れました……」
「本当に?」
「先生が気にするようなことは何も。私はただ……、いつか別れることになるなら、最初から恋人になんてならない方がいいと思って」
「なぜ別れることばかり考えるんですか。それは俺を信用してない、そう言っているんですよ」
「先生の気持ちだけではどうにもならないことがあるでしょう? 私には両親がいないの。普通の家の子じゃないから……」
「それが原因ですか? 家柄を気にする必要はないです」
「先生は何も知らないから……」

 敬太が選んだ選択を責めることはできない。だけど、あの時の苦しみをまた味わうのはつらい。

 真咲さんは苦悶したまま、私のほおをそっとなでる。諦めきれない思いを抱えるのはお互いに同じだと伝わってくる。

「俺は信じてくれとしか言えない。信じてくれる気になったなら、悠紀さんに触れることを許してほしい」

 私は震える手で彼の胸元をつかむ。信じてみたいと思う気持ちがそうさせた。

「私も……先生が好きです。でも……」

 その先の言葉を口にすることは出来なかった。重なった唇に、言葉は無用だと塞がれた。

 私はまぶたを落とす。指からするりと抜けたお弁当が足元に落下していく。それもいとわないまま、唇を重ね続けた。
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