非才の催眠術師

水城ひさぎ

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まわり始める運命の時計

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 翌朝、真咲さんはベージュのニット、黒のパンツにグレーのブルゾンを羽織り、喫茶店SIZUKUの入り口に現れた。

 私は先日購入したコートに、あり合わせのトレーナーとジーンズの普段着だ。シンプルだけどおしゃれな彼の隣を歩くのは気が引けてしまう。

「おはようございます。ミカドくんはすっかり首輪も慣れたようですね」

 リードを握る私を見て、真咲さんは上機嫌な笑顔を見せる。あまりに無邪気に笑うから、気後れする。

 つい挨拶も忘れて歩き始める私を追って、彼も軽やかな足取りで歩を進める。ミカドに歩調を合わせるからとてもゆっくりだ。

 私とミカド、真咲さんの三人が歩く姿は商店街に溶け込んでいる。彼は越してきたばかりなのに、やけにこの地に馴染んでいる。

 街全体に催眠術をかけているのかもしれないなんてバカげたことを考えていると、真咲さんが不意に口を開く。

「考えてくれましたか? 仕事のこと」
「え……?」
「年明けには開院予定です。一人、手伝いの子を雇うつもりなので、出来たら悠紀さんにお願いしたいんですよ」
「でも私は……」
「無理にとは言いません。ですが、そろそろ求人広告を出そうと思っているので」
「……それはやっぱり、女の人ですよね?」

 妙な気持ちになっていらない質問をしてしまう。真咲さんの一番の信頼を得て、なおかつずっと一緒にいる女性が、私の部屋の真下で勤務するのだと思ったら、胸がざわつく。

「受付をお願いするつもりなので女性をと考えてます。店舗と住まいの境界も曖昧ですから、女性の方が悠紀さんも安心でしょう。もちろん、住居の方には立ち入らないよう対策します」
「あの、何日?」
「週に2日ですが、その他の雑務もお願いしようと思っています」
「週2日……、来てくれる方はすぐに見つかりそうですね」
「信頼できる人が見つからなければ一人でやろうとは思ってます」
「見つかりますよ、きっと。見つかります……」
「そうだといいですが」

 真咲さんは少し困り顔をする。私が思うようにならないとこんな表情をするのだ。だからつい私は負けてしまうけれど、働くとなると自信がなくて、すぐには頷けない。

 沈黙する私に、真咲さんはそれ以上何も言わなかった。

 肩を並べて歩く静かで穏やかな時間が、永遠と続く長い時間のように感じる。それは決して嫌な気分になるものではない。だけど、永遠に続くものなんてどこにもないのだと私は知っている。

 ミカドが急に足を止める。鼻をくんくんとさせている。

「ああ、かつおぶしの匂いですね。あのかつおぶし屋、無料で提供してる味噌汁が美味しいんですよ」

 真咲さんの足がかつおぶし屋に向かうと、ミカドも少しばかり早足になって彼を追いかけていく。

 かつおぶし屋は商店街の中でも老舗の店だ。もちろん店主は私のことを知っている。味噌汁をタダ飲みに来る真咲さんのことだって知らないはずはないだろう。二人でいることを知られたら、変な噂が立つかもしれない、なんて今更に不安になる。

 真咲さんは躊躇なくかつおぶし屋の中へと入っていく。ミカドは私の足元でちょこんと行儀よく待ち、彼の背中を見つめている。美味しいかつおぶしでも食べられると思ってるのかもしれない。

「ミカド、ミカドはかつおぶし食べられないよ」

 そう言うと、まるで言葉を理解したかのようにミカドは驚いた表情で私を見上げる。

「食べれないの」

 もう一度言うと、ミカドはがっくりと肩を落とす。仕方なく彼を抱き上げようとした時、店から真咲さんが出てきた。

「お味噌汁と刺身を頂きました」
「刺身?」
「店主、今から昼食だそうで、ミカドくんにおすそわけしてくれました。ミカドくんは商店街のアイドルだとか」
「アイドルだなんて、そんな、全然……」
「外折さんが看板猫だと言い回ってるそうですよ。そう言いながら、なかなかミカドくんには会えないので、幻のアイドルだそうです」
「だからって刺身なんて」
「商店街の方のご好意は素直に受け入れましょう。さあ、味噌汁をどうぞ。体が温まりますよ」

 そう言って、真咲さんは私に味噌汁の入った紙コップを差し出し、ミカドの前にマグロの刺身がふた切れ乗った紙皿を置く。

 かつおぶし屋の前で真咲さんと二人、味噌汁を飲んでいるなんて妙な気分だ。彼は今まで私が経験したことのない体験を与えてくれる。

「味噌も美味しいんですよ。外折さんの作る味噌汁に似ているから、もしかすると同じ味噌を使っているかもしれませんね」
「それだったら、商店街の味噌かも」
「味噌屋がありますか?」
「味噌屋っていうか、お漬物とかお醤油とか置いてあるお店です」
「そうでしたか。それは知らなかった。今から行きますか?」
「え、今から?」
「散歩の目的は公園まで行くことではありませんから。楽しみながら行きましょう」

 そうと決まったら真咲さんの行動は素早い。味噌汁を飲み干し、ゴミの片付けをする。私も慌てて味噌汁を飲もうとした時、背後から声が飛んできた。

「古谷さんっ! 古谷……、古谷先生じゃありません?」

 声の主は振り返るより先に、私の目の前に現れた。背の高い綺麗な女性だ。その横顔がまっすぐ見つめるのは真咲さんで。彼は少し困惑した様子で眉を下げている。

 知り合いなのだろう。職業柄、記憶にない人から声をかけられることはあるだろうが、真咲さんの表情を見ると、女性のことは知っているように見える。

「お久しぶりです、古谷先生。近くで開業されるって聞いて、もしかしたらお会いできるかもって思ってたんです」
「ああ……、君は近くに住んでるって言ってたね」

 真咲さんは困り顔のまま、思い出したように言う。やはり知り合いのようだ。

「同じ小学校出身だって話したこと覚えてくれてたんですね」

 彼女は嬉しそうに跳ねる。長い黒髪の毛先が揺れる。スタイルのいい人で、あか抜けているから地元の人ではないのかと思ったが、そうではないようだ。

「それで、今日はどうしたのかな?」

 真咲さんは居心地悪そうに尋ねるが、彼女の方は彼に夢中という体で、さらに間を詰める。

「デパートへショッピングに。そうしたら先生に会えたから」
「そう。足止めしても悪いから、ショッピング楽しんできて」

 真咲さんは一歩身を引き、彼女を帰そうとする。しかし彼女の方は彼に会えたことで舞い上がっているようで、話を聞いていない。
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