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第二話 婚約者と牛鍋丼

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 ずっしりと重たい弁当箱を抱えて、しきよみ亭へと向かう。

 どうしてお弁当なんてつくってしまったのだろうと後悔しつつも、天幻神社のある通りに入ると足取りは軽くなる。

 いつも掃き掃除ばかりだし、口数の少ない清人さんと過ごすのは退屈だけど、時折やってくる小天から天幻神社にまつわる話を聞くのは楽しいし、修太郎もひまがあると顔を出してくれる。あいかわらず客は来ないけれど、それでもなんだかんだと楽しく過ごしていた。

 清人さんは牛めしが好きだろうか。藤城屋の牛めしは美味しいって有名だから、彼の口に合うといい。

 天幻神社のはす向かいにあるしきよみ亭は、あいかわらずひっそりとしていた。

 そっと戸を開けて、中へ進み入る。ひと気のない座敷へあがり、お弁当を置きに行こうと台所へつながる廊下に出る。

 そのとき、あっ、と声にならない声をあげていた。

 清人さんが柱にもたれるようにして、縁側で眠っていた。珍しい。彼がうたたねをするなんて。それもこんなに朝早くから。

 もう季節は秋も終わりで、冷たい風が吹いている。こんなところで寝ていては、具合が悪くなってしまうかもしれない。

「清人さん、起きてください」

 お弁当を床に置き、彼の横にひざをついて、肩を揺らす。すると、彼の体がゆっくりと私の方へ傾いてくる。あわてて抱きとめると、胸に頭を寄せてくるから戸惑ってしまう。まるで、赤子のよう。

「起きてください」

 もう一度、声をかけつつ、清人さんの髪に目をとめる。珍しい灰茶色の髪をじっと見つめていると、わずかな好奇心が芽生えた。

 彼は白狐の子孫。人の死期が詠める以外は普通の人間と変わらないと言っていたけれど、この髪の中に、小天と同じようなけものの耳が隠れているのだろうか。

 誰もいないと分かりきっているのに、やましい気持ちがそうさせたのか、辺りをきょろきょろ見回したあと、清人さんの髪に触れる。

 指先で揺れる髪はさらさらとして綺麗だった。細い髪は、彼の心を映すようにとても繊細。その中に、いびつな何かがないかと、さらに指をうずめていく。頭皮を指先でさぐっているうちに、彼の髪に触れた女性はいるのだろうかと、また別の好奇心がわいて出る。

 清人さんは絵に描いたようにとても美しい。健康優良児の私とは対極的で、もっと清楚な人との縁談もあるだろうにと思う。

 たしかに変人とうわさされるだけの人だけど、結婚相手として申し分ない優しさもあるし、なにより、この見目麗しい男を側に置きたい女性はいるだろう。

 もし、縁談に恵まれなかったのだとしたら、彼がたぐいまれなる料亭の亭主だから結婚を拒んだだけで、過去にひとりやふたり、好きな女性がいたとしてもふしぎじゃない。だとしたら、私と結婚したいと言い続ける彼の好意をどう受け止めたらいいのだろうと困惑してしまうのだけど。

 そう考えだしたら、けものの耳どころではなくなる。あわてて手を離したら、唐突に突きあがってきた指に手首をつかまれた。

 息を飲む。清人さんが私を凝視していた。驚いて目を覚ましたみたい。

 彼はゆっくりと視線を左右に動かし、「ああ」と息をつく。

「香代さんでしたか」
「あ、……はい。居眠りされてたから」

 胸にもたげていた頭をあげつつ、私の手を引いた彼は、もう片方の手で私の髪に触れた。ついさっきまで私がそうしていたように、真顔のまま私の髪をさぐっていく。

「あの……」
「髪はおろさないのですか? よくお似合いですよ」
「似合うって……ご存知ないのに」

 普段はおろしたりもするけれど、仕事のときは髪を結っている。

「以前、天幻神社で」
「あ、そうでした」

 清人さんは出会う前から私をひそかに知っていたのだった。小天がけがをしたとき、手当てをしにあしげく神社へ通う私を見ていたと告白した。あの頃の私はよく髪をおろしていた。

「どんな香代さんもお美しいですが」

 彼の指がかんざしを引き抜き、しゅるりと髪がほどける。それは一瞬のできごとだった。私の後ろ頭を優しく引き寄せた彼と、ゆっくりと唇が重なる。

 驚いて、まばたきしたけれど、やわらかく重なり続ける唇を受け止めるようにまぶたを落とした。

 清人さんと夫婦になってもいいかもしれない。ほんの少しだけそう思ってる私の心をのぞく優しい口づけが、いじっぱりな私を甘やかすようだった。

「はやく、妻になりませんか」

 色っぽい目をして彼が言う。美しい人の中に雄々しさを見つけてしまった気がして戸惑う。

「はやくって……」
「今すぐにでも」

 ちらりと、清人さんの目が寝間へと向けられる。瞬間的に、ふとんの上で重なる私たちを想像してしまって、心臓が飛び出そうになる。

「まだ朝ですっ」

 邪念を振り払うように叫んでしまうと、彼はククッとおかしそうに笑った。

「いつでも良いのですよ。常にあなたに触れていたいのですから」
「かっ、からかわないでください。そ……そういうものは、日が暮れたら殿方が自然とお運びくださるものと聞いています」

 ひざの上で手をぎゅっと握りしめて、真っ赤になる顔をうつむける。こんなに朝早くからけしかけてくるなんて、からかってるとしか思えない。

「ほう」
「な、なんですか……」

 赤らむ私を見て、彼は目を細める。

「いえ、あまりに純真な方なので、驚いているだけですよ。大切にせねばと、より一層感じ入っているのです」
「でしたら、いきなりこんなこと……いけません。私たちは結婚してないのですから」

 唇に指で触れて抗議するけれど、彼はまったく意に介してないみたい。

「結婚してるようなものと、ちまたではうわさですよ」
「外堀から埋めるのも感心できません」
「わかりました。内側から優しく開いていきましょう。自然と、俺を求めてくださるように」

 じっと見つめられると、どこにも逃げ出せない気がして落ち着かない。

「なんだか怖いです」
「最初は誰しもがそう思うのですよ」

 くすりと笑う彼の目が、依然と熱っぽいから、そっと目をそらす。その視線の先には、お弁当の包みがあった。

「あっ、清人さん、今日は小天来るかしら? 清人さんにお弁当を持ってきたのですけど」
「さあどうでしょうか。小天は気まぐれですから。しかし、お弁当とはうれしいですね。ひと寝入りしたらいただきます」

 ひと寝入り?

「まだお休みになるの?」
「先ほどまで起きていたものですから。うっかり眠っていたようです。今日は客も来ないでしょうし」

 今日も、の間違いではないだろうか。

「起きていたって、何かあったの?」
「夜中に客がやってきました。あしたの昼下がりにまた来るでしょう」

 そう言うと、清人さんは静かに立ち上がり、寝間へと入っていった。
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