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あなたとキスを

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 地下鉄の改札口から彼の姿が見えたとき、臆病な気持ちが生まれた。
 勢いでここまで来たけど、重たいとか、迷惑だとか、そう思われることまで考えてなかった。彼を見たら、急に不容易だったと怖くなる。

「花野井さん?」

 パッと動いたから、余計に目立ってしまったのだろう。
 改札から離れようとしていた私を見て、瑛士は驚きで目を見開いている。

 彼が戸惑っているうちに、ぺこりと頭を下げて駆け出す。

「花野井さんっ」

 名を呼ばれても振り返らなかった。このまま逃げてしまえば、彼のことだから、忘れてくれる。

 しかし、地下鉄の階段を駆け上がる途中で、振り返ってしまった。彼が私の名前をもう一度呼んだから。

「つぐみっ!」

 そう、呼んだから。

 彼が私をそう呼ぶとき、彼の目に映る私は元カノだった私。

 一気に階段を駆け上がってきた瑛士は、逃げ出す気力を失っている私の手首をつかんだ。
 ひんやりと冷たい手。触れるか触れないかの距離まで引き寄せられたら、ちょっとだけお酒の匂いがした。

「ずっと待ってた?」
「残業してたから」

 そんなに待ってない。それを伝えたのに、彼は私をつかむ手に、ぎゅっと力を込めた。

「食事はした?」
「お腹すいてなくて」
「そんな嘘、つかなくていいんだよ」

 あきれたように言った瑛士の手が、背中に回る。

「ちょっとしたものならあるから、うちにおいで」
「いいんですか……?」
「ダメな理由もないけど、そのつもりだったんだよね?」

 迷った後、こくりとうなずいたら、彼の手が私の後頭部をゆるりとなでた。
 そのまま引き寄せられて歩き出す。

 私の心配なんて無用だった。
 瑛士は優しい。たとえ迷惑だと思ってても、それを言う人ではないと知ってたはずなのに。

 瑛士は玄関をあがるとすぐ、キッチンに入って冷蔵庫を開けた。
 何やら食材を取り出し、リビングの入り口に立つ私に向かって彼は言う。

「いつまでそこに立ってるの? ソファーに座っていいよ」
「何か作るんですか? だったら私、そこのコンビニで……」
「コンビニ弁当より、俺のオムライスは美味しいよ」

 目を細めて笑って、瑛士はネクタイをはずす。

「ごめん。ネクタイ、ソファーにかけてくれる?」

 ネクタイを差し出され、おずおずと手を伸ばす。すると、彼の手からネクタイがするりと落ちる。
 わざと落とした?
 そう思った瞬間、彼は私のほおに触れた。

「疲れてるね。先に話す?」
「話したいっていうか、高輪さんに会いたかっただけですから」
「何かあったから、会いに来たんだよね?」

 つらいことがあったらおいでと言ってくれた彼だから、心配してくれてる。

「私、迷ってて……」
「座ろうか」

 肩を抱かれたまま、ソファーに座る。
 彼が離れていかないから、ひたいを胸に寄せる。すると、身体を支えるように、彼の両腕はそっと私を抱きしめた。

「酔ってますか?」
「酔ってるよ」
「じゃあ、明日になったら今日のことは忘れてるかもしれないですね」
「そうだね」

 瑛士は優しくうなずいて、私の髪を何度もなでる。

 どうしたんだろう。
 疲れてるのは私の方じゃなくて、彼かもしれない。

「高輪さんも何かあったんですか?」
「ちょっと考えごとをね」
「どんなって聞いても?」
「人生をやり直せたとしても、花野井さんはやり直したいって思うのかなって、考えてた」

 意味がわからなくて、瑛士を見上げた。
 近距離で私を見つめる彼の目には、憂いが浮かんでいる。

「やり直したいのかな、俺たちは」
「俺たち……」
「無理だよね。俺はさ、花野井さんと一緒にいるのが怖いんだ」

 怖い?
 私が?

 そんな風に思われてるなんて思わなくて、彼から逃げ出そうとするが、しっかりと抱きしめられて逃げられない。

「花野井さんの話、聞かせて」
「あの、私……」
「この間言ってた、彼のこと?」

 言いよどむ私に、ますます瑛士は顔を近づけてくる。

「彼と、進展したの?」
「……進展っていうか、お食事に行って」
「それだけ?」

 そんなわけないよねって、彼はうっすら笑う。

「まだお付き合いするかは決めてなくて。でも、キスしたいって感じで」
「遊び半分とか思った?」
「そんなことないです。ちゃんと考えてくれてるのはわかってるのに、私の気持ちが追いつかなくて」
「花野井さんもきちんと考えてるんだね」

 それはそう。
 遠坂くんは私との交際を真面目に考えてくれてる。

「今、彼を受け入れたら後悔するって思って」
「だから俺に会いに来たの?」

 うん、ってうなずく。

「やり直したいって、私、思ってます」
「何をやり直すの?」

 瑛士の胸もとをぎゅっとつかんだ。それを言うのは勇気がいった。でも、言わなきゃ後悔すると思った。

「初めてのキスは高輪さんとしたかったの……」
「してあげたことなかったね」
「少しでいいから、付き合ってた頃に戻りたい。別れる前に、一度でいいからキスしてほしかった……」

 瑛士の気持ちが知りたかった。
 私を好きでいてくれるって気持ちを知りたかった。
 付き合ってほしいと言ったら、簡単にいいよと言った彼の気持ちを。

「俺もやり直せるかな」
「してくれるんですか……?」
「ちょうど甘いものがほしかったからね」

 薄く笑んだ唇が近づいて、あごをつかまれた。
 視界に入ってきた瑛士の横髪が揺れる。

 急に不安になる。キスしたらどうなっちゃうんだろうって。

「ま、待って……」
「待つと思う?」

 彼がちょっと笑うから、生温かい息が唇にかかる。そのまま唇は重なった。

 瑛士の手をきゅっと握った。固くなる指を彼は優しくほぐして、指と指を絡めてくる。
 その間にも、キスは深くなった。

 ただちょっと触れるだけのキスでよかった。子どもだましみたいな。
 でも、大人になった瑛士が、そんなキスをするはずはなかった。

 一度離れた唇は、すぐにまた重なった。呼吸を整える隙さえ与えてくれない。それでも苦しくなんてない。

 唇が溶けていくのがわかる。
 もうちょっと、もうちょっと触れてほしい。
 離れていこうとする彼の唇を追いかけた。

 まぶたをあげたら、こちらを真剣に見つめながら唇を食む、色っぽい彼がいた。

 もうどうなってもいい。

 そう思って、瑛士の首にしがみついた。

「キスだけだよ」

 耳元で優しくささやく彼の言葉に、何度もうなずいた。

「彼女じゃないつぐみを抱くのは、無責任だよね」
「彼女だったら抱いてくれるの?」
「あたりまえじゃないか」

 くすりと笑った彼は、すぐに切なそうな目をして、私を深く抱きしめてくる。

「つぐみを抱くのは、俺じゃないね」
「……どうしてもダメなんですか?」
「ダメだよ」
「どうして……?」

 その問いに、答えはなかった。

「高輪さんが好きなんです」
「……つぐみはたまに、驚くようなこと言うよね」
「言わないと後悔するって思って」
「だから、高校生のときも告白してくれた?」

 私はこくりとうなずく。
 瑛士の彼女になりたかった。それしか考えられなかった。それは、今でもそうなのに。
 あのときは簡単に叶った恋が、今は全然叶わない。

「それで、つぐみは後悔しなかったの?」
「高輪さん……」
「告白してもしなくても、つぐみには後悔しかなかったんじゃないかな」
「そんなことない……」

 首を振る私の後頭部を押さえて、瑛士は肩にひたいを押し付けてくる。

「彼は、つぐみを大切に抱くんだろうね」
「……やめて」

 そんなこと言わないで。
 瑛士と一緒にいるときに、遠坂くんのことは考えたくなくて。

「俺が待ってほしい時間を、彼は待てないと思う。だから俺は待たせないようにするしかないよね。つぐみの幸せを、今さら壊せない」
「……」
「簡単に答えを出せる年齢じゃなくなったんだ。キスをしたのは、ただの過ちだよ。明日になったら忘れるから、つぐみも忘れてよ」
「高輪さん……」

 やだ、離れないで。
 伸ばした手を、瑛士は繋いでくれなかった。

 虚しく空を切った指は、彼の指先に触れて、そのままソファーに落ちた。
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