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どうして別れたんですか?
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***
カフェの前で足を止め、ポケットから取り出したスマホで時間を確認する。14時。帰るには早いが、一人でカフェに入っても楽しくない。
こんなときは彼女がいたらいい。
そうは思うが、ショッピングに付き合わせるだけの彼女はあいにくいない。
ひまつぶしのためだけに、俺の都合に合わせろなんていうのは、それこそ都合のいい話だ。その代わり、都合よく呼び出されるのも好まない。
それは昔からそうだ。
だから、友達以上恋人未満のような関係に甘んじている。
お互いに会いたいときが似てる。いま同じこと考えてた、って言ってくれる。つまり、波長が合う。そんな女性に出会えないまま、この年になった。
結婚願望はない方だが、結婚したいと思える女性に出会いたいと思うこともある。
スマホの上に指を滑らせた。
電話帳を開き、花野井つぐみの電話番号を眺める。
しかし、ため息をひとつついて、スマホをポケットにしまった。
「帰るか」
無意識につぶやいて顔を上げた俺は、一歩踏み出そうとした足をその場に戻した。
知った顔が目の前にあった。
カフェの入り口に立つ彼女もまた、同じように足を止めた。
花野井つぐみだった。
彼女は男と一緒にいたが、驚きで目を見開いたまま、ずっと俺を見ていた。
俺はつぐみと一緒にいる男に見覚えがあった。むしろ、忘れることのない男だ。
最初に動いたのは、その男だった。
落ち着き払った男は、俺を見ながら、
「知り合い?」
と、つぐみに尋ねた。
「あ、うん。お兄ちゃんも知ってる、高輪さん」
つぐみは俺の存在を隠そうともしなかった。それだけ、兄との間には信頼関係があるのだろう。
「ああ、彼が」
つぐみの兄は、にこやかに目尻を下げると、俺の方へやってきた。
「はじめまして」
そう声をかけてくるから、無言で頭を下げた。俺が一方的に彼を知ってただけだと再認識した。
「つぐみの兄の花野井恭市です。高輪さんには一度お会いしたいと思ってたんですよ」
意外なことを言ってくるから、戸惑いつつも、彼と同様に、にこやかな笑みを浮かべた。
「高輪瑛士と言います。お兄さんのことは、花野井さんから少しうかがってます」
「そうですか。つぐみはなかなか俺の話を外でしないようだから、よほど信頼してるんでしょう」
恭市はうれしそうにそう言って、カフェの中を指差す。
「お茶でもどうです?」
「あ、いや……」
「時間ないですか?」
どちらかといえば、時間は腐るほどある。
「お兄ちゃん、迷惑だよ。お義姉さんだってすぐ来るし」
「すぐは来ないさ。高輪さんに会えるなんて、そうそうないだろ?」
つぐみは同意を求められても、うなずかない。それはそうだろう。俺の顔など見たくもないかもしれないのだ。
「ちょっと話せません? 高輪さんとゆっくりお話したいと思ってたんですよ」
そう言われたら、俺も興味が湧いた。血のつながらないつぐみの兄が、元カレである俺にどんな話があるというのか。
高校時代の話はもう時効だ。いまさら、妹をなぜふったんだとけんか腰になられることもないだろう。
「では、少しだけなら」
「高輪さん、お兄ちゃんに合わせなくてもいいのに」
眉をひそめたまま、つぐみはそう言ったが、それ以上強く拒絶することはなかった。
円形のテーブルで、三角形を描くように俺たちは席に着いた。
「日曜日はお休みですか?」
三人分の飲み物を注文した後、恭市はそう俺に尋ねてきた。つぐみの同業他社に勤務しているということは知らないようだ。
「ええ。基本的には休みです」
「うちもそうなんです。今日はたまたま妻もつぐみも休みで、みんなで出かけようって話になりましてね」
「奥さまは?」
「子どもと一緒に博物館へ行かせました。というのは口実で、ちょうど明日、妻の誕生日なもので、つぐみとプレゼントを選んでたんです」
「仲がいいんですね」
そう言うと、恭市は目を細めて笑んだだけだった。
奥さまとつぐみ、どちらと仲がいいのか、俺が勘ぐったと感じたのかもしれない。
「よく子どもたち含めて、出かけるんですよ。妻もつぐみを可愛がってくれますから」
「そうですか」
「噂をすれば、妻からメールです」
失礼、と言って、恭市はスマホを操作する。
何度かメールのやりとりをしたのだろう。コーヒーが運ばれてきた頃に、ようやくスマホをポケットにしまった。
「つぐみ、コーヒー飲んでからで大丈夫だから、博物館の近くの公園まで行ってくれないか?」
「千花さん、何かあったの?」
つぐみが心配そうにそう尋ねる。
恭市の妻は、千花という名のようだ。
「いや。公園でちょっとした催し物をやってるから来てほしいらしい」
「じゃあ、すぐに行くね。子どもたち、一人で見るの大変だよね」
「悪いね」
つぐみは「ううん」と首をふって、コーヒーには口をつけずに立ち上がった。まるで、はやくこの場を離れたいみたいだ。
「高輪さん、ご無理いってすみません」
「いや、いいよ」
「じゃあ、失礼します」
じゃあまた、とは言わないんだ。と、ぼんやり考えながら、立ち去るつぐみの背中を見送った。
すぐに視線を恭市に戻す。彼は俺にコーヒーを飲むよう促して、言う。
「ありがたいことに、妻の千花は、本当につぐみのことをよく考えてくれてます」
「特別だからですか?」
「ええ、そうですね。俺たちが血のつながらない兄妹だからこそ、兄妹としての交流を絶やさないようにしてくれているんです」
「素敵な方に出会えましたね」
ええ、と恭市は優しく微笑んだ後、俺の目をまっすぐ見つめてくる。
「つぐみと付き合ってたんですよね?」
俺はちょっと笑ってしまった。
それを聞きたかったのだろうと、容易に気づいてしまった。千花さんとメールのやりとりをしたのは、つぐみに席を外させたかったのだろう。
「高校時代の話です」
「もう、10年近く経つんですね。そう思えないぐらい、鮮明に覚えてます」
「何をですか?」
「彼氏ができたんだって、俺に告白してくれたつぐみをです」
恭市はコーヒーカップに口をつける。俺はなんと答えるべきか悩み、そのまま沈黙を保った。
「終わった話を蒸し返して申し訳ないとは思います」
「いえ」
「ただどうしても、高輪さんにお礼を言いたかったんです」
お礼?と、俺は眉をあげる。
つぐみをふったのは、俺なのに。
「つぐみは今でもですが、昔から好きな男の子がいるとか、そういうことに無縁な感じの子でしたから」
「お兄さんのことが大好きだったんでしょう」
「つぐみがそう言いましたか?」
「いいえ。そう見えました」
「そうでしたか」
恭市は少し考え込むそぶりを見せて、ふたたび尋ねてくる。
「どうして別れたんですか? ぶしつけな質問して、すみません」
「つぐみさんに問題があったわけじゃないですよ」
「別にそういったことを責めてるわけじゃありません。つぐみに問題がないと思ってるわけでも」
「学生時代の話ですから」
簡単に付き合ったり別れたりする年頃の話だ。
そう、暗に伝えると、恭市は小さな息をつく。
「こんなことを言うと、つぐみに叱られるかもしれないが、もしかしたらつぐみはまだ、高輪さんを忘れられないんじゃないかと思ってまして」
「そんなことはないと思いますが」
「思い過ごしかな、俺の。でももしつぐみが、高輪さんのことがあって、新しい恋をしないなら、つぐみに別れを切り出した理由を知りたいと思ったんです」
別れが納得いかないから、10年も彼氏を作らないでいる、というのは考えにくい。
それは薄々、恭市も感じているのだろうが、どこかすっきりしないところもあるのだろう。
「つぐみさんと別れたのは、意外性がなかったからですよ」
「意外性?」
少々驚く恭市に向かって、俺はうなずく。
「彼女、素朴でしょう」
「つまり、つまらない女でしたか?」
恭市は、それなら納得いく、というような、諦めに似た表情をする。
「それがつぐみさんの魅力でもあります。彼女は自己主張が強くないですし、自分より他人のことを優先して、それが当たり前だと思ってる。それは怖いです。少なくとも、俺は怖かった」
「高輪さんのために、つぐみは自分を犠牲にすると思われた?」
「まあ、簡単にいうと」
「つぐみは高輪さんを好きすぎたんですね」
「それはわかりません」
正直な思いを口にした。
本当にわからない。
つぐみがどうしたかったのか。俺がどうしたかったのかさえも。
ただこのまま一緒にいても仕方ないと思った。つぐみの彼氏でいていい男は俺じゃない。その確信だけはあった。
「付き合ってたら、つぐみさんをダメにすると思ったんです」
「具体的にどんなことがあるのかと聞いても……」
そう言いかけてやめて、恭市は首を横に振った。
「わからないですよね。それは、取るに足らない、ちょっとしたことの積み重ねだったのかもしれないですね。そうやってみんな出会ったり別れたりするんでしょうね」
俺はゆっくりと頭を下げた。
「つぐみさんには申し訳なかったと思っています」
「いや、謝らないでください。言いましたでしょう。俺は高輪さんにお礼が言いたかったと」
下げた頭を戻すと、恭市は俺から目をそらす。そして、その横顔から、何かを懐かしむ様子が見て取れる。
「俺の父親が再婚したのは、つぐみが2歳のとき、俺が10歳のときでした」
昔話なんて、すみません。
と、彼は頭を下げた。
「親父はどちらかというとお調子者で、すぐにつぐみの父として馴染みました。もちろん、俺にはわからない葛藤はあったでしょうけど」
「お父さんは明るい方なんですか」
思わず口に出してしまうと、恭市は笑う。
「意外でしょう? 俺とつぐみはどこか似てるけど、父も母も明るくて気さくなんです」
「ご兄弟はほかに?」
「いません。親父は欲しかったみたいですが、できなかったようで。そのかわりといっていいのか、親父はつぐみを可愛がってますよ」
「お兄さんもでしょう」
つぐみは愛情を受けて育った。だからあんなにもまっすぐで、清廉だ。
「俺はそうでもないんですよ。いきなり血のつながらない妹ができたんです。多感な時期でもありました。つぐみを初めて抱っこしたときは変な気持ちになりましたよ」
「変って」
ちょっと笑ってしまうが、恭市は至極真面目な表情をしている。彼にとって、突然現れた妹の存在は大きなことだっただろう。
「つぐみは誰にでもなつく子じゃなかったですから、俺に対しても最初は警戒心むき出しで」
「小さな頃から性格は変わってませんね」
「そうなんです。だから、好きになったらとことんなつくところも変わってません」
ふと、恭市と目が合ったが、すぐにそらされた。
「つぐみは保育園にあがった頃から、お兄ちゃんお兄ちゃんと俺を追いかけてくるようになりました。それは中学になるまで変わりませんでした。正直、心配になったぐらいです」
兄である恭市は、血のつながらない兄妹であることを、つぐみ以上に意識していたのだろうと思った。
「それがある日、つぐみが変わったんです」
「変わった? 中学生の時ですか?」
「ええ。忘れもしません。高校の体験入学のあった日でした」
穏やかな目をして、彼は俺を見る。
「当時はわからなかったけど、あなただったんですね」
「俺?」
「はい。高輪さんに体験入学で会ったんでしょう。あの日からつぐみは人一倍勉強を頑張るようになって、見事志望校に合格しました」
「俺が関係してるかどうかは……」
首をひねる。
つぐみから、それらしい話を聞いたことは一度もない。
「わかるんですよ、つぐみのことは。ずっと見てきたので」
切ない目をするから、あぁとため息が出た。
「……好きでしたか?」
尋ねるべきことではなかった。だけど、彼がその言葉を俺に求めてる気がした。
「それはわからないんです。妹として好きだったのか、一人の女性として好きだったのか。でも高輪さんのおかげで、俺たちにはいい距離感が生まれました。ですから、感謝しています」
「俺は何も」
むしろ、つぐみを傷つけた。それだけだったのに。
「高輪さんがどう思おうと、俺は救われました。あなたと付き合うことになったつぐみは日に日に変わりましたよ。日曜日には、ちょっとずつおしゃれをして出かけていくんです。そんなつぐみを見てるのは微笑ましかった」
「あの頃の俺は気づけてたかな」
つぐみのちょっとした変化に、俺はどれほど……。
「つぐみは文字通り、青春を謳歌してましたよ。俺もつぐみのことで戸惑うことはなくなった。今の妻にも出会え、妻はつぐみを大切にしてくれてる。すべては、高輪さんのおかげなんです」
「過剰な評価ですよ」
困り顔で笑ってみるが、恭市は深く頭を下げ、なかなか面をあげようとしなかった。
カフェの前で足を止め、ポケットから取り出したスマホで時間を確認する。14時。帰るには早いが、一人でカフェに入っても楽しくない。
こんなときは彼女がいたらいい。
そうは思うが、ショッピングに付き合わせるだけの彼女はあいにくいない。
ひまつぶしのためだけに、俺の都合に合わせろなんていうのは、それこそ都合のいい話だ。その代わり、都合よく呼び出されるのも好まない。
それは昔からそうだ。
だから、友達以上恋人未満のような関係に甘んじている。
お互いに会いたいときが似てる。いま同じこと考えてた、って言ってくれる。つまり、波長が合う。そんな女性に出会えないまま、この年になった。
結婚願望はない方だが、結婚したいと思える女性に出会いたいと思うこともある。
スマホの上に指を滑らせた。
電話帳を開き、花野井つぐみの電話番号を眺める。
しかし、ため息をひとつついて、スマホをポケットにしまった。
「帰るか」
無意識につぶやいて顔を上げた俺は、一歩踏み出そうとした足をその場に戻した。
知った顔が目の前にあった。
カフェの入り口に立つ彼女もまた、同じように足を止めた。
花野井つぐみだった。
彼女は男と一緒にいたが、驚きで目を見開いたまま、ずっと俺を見ていた。
俺はつぐみと一緒にいる男に見覚えがあった。むしろ、忘れることのない男だ。
最初に動いたのは、その男だった。
落ち着き払った男は、俺を見ながら、
「知り合い?」
と、つぐみに尋ねた。
「あ、うん。お兄ちゃんも知ってる、高輪さん」
つぐみは俺の存在を隠そうともしなかった。それだけ、兄との間には信頼関係があるのだろう。
「ああ、彼が」
つぐみの兄は、にこやかに目尻を下げると、俺の方へやってきた。
「はじめまして」
そう声をかけてくるから、無言で頭を下げた。俺が一方的に彼を知ってただけだと再認識した。
「つぐみの兄の花野井恭市です。高輪さんには一度お会いしたいと思ってたんですよ」
意外なことを言ってくるから、戸惑いつつも、彼と同様に、にこやかな笑みを浮かべた。
「高輪瑛士と言います。お兄さんのことは、花野井さんから少しうかがってます」
「そうですか。つぐみはなかなか俺の話を外でしないようだから、よほど信頼してるんでしょう」
恭市はうれしそうにそう言って、カフェの中を指差す。
「お茶でもどうです?」
「あ、いや……」
「時間ないですか?」
どちらかといえば、時間は腐るほどある。
「お兄ちゃん、迷惑だよ。お義姉さんだってすぐ来るし」
「すぐは来ないさ。高輪さんに会えるなんて、そうそうないだろ?」
つぐみは同意を求められても、うなずかない。それはそうだろう。俺の顔など見たくもないかもしれないのだ。
「ちょっと話せません? 高輪さんとゆっくりお話したいと思ってたんですよ」
そう言われたら、俺も興味が湧いた。血のつながらないつぐみの兄が、元カレである俺にどんな話があるというのか。
高校時代の話はもう時効だ。いまさら、妹をなぜふったんだとけんか腰になられることもないだろう。
「では、少しだけなら」
「高輪さん、お兄ちゃんに合わせなくてもいいのに」
眉をひそめたまま、つぐみはそう言ったが、それ以上強く拒絶することはなかった。
円形のテーブルで、三角形を描くように俺たちは席に着いた。
「日曜日はお休みですか?」
三人分の飲み物を注文した後、恭市はそう俺に尋ねてきた。つぐみの同業他社に勤務しているということは知らないようだ。
「ええ。基本的には休みです」
「うちもそうなんです。今日はたまたま妻もつぐみも休みで、みんなで出かけようって話になりましてね」
「奥さまは?」
「子どもと一緒に博物館へ行かせました。というのは口実で、ちょうど明日、妻の誕生日なもので、つぐみとプレゼントを選んでたんです」
「仲がいいんですね」
そう言うと、恭市は目を細めて笑んだだけだった。
奥さまとつぐみ、どちらと仲がいいのか、俺が勘ぐったと感じたのかもしれない。
「よく子どもたち含めて、出かけるんですよ。妻もつぐみを可愛がってくれますから」
「そうですか」
「噂をすれば、妻からメールです」
失礼、と言って、恭市はスマホを操作する。
何度かメールのやりとりをしたのだろう。コーヒーが運ばれてきた頃に、ようやくスマホをポケットにしまった。
「つぐみ、コーヒー飲んでからで大丈夫だから、博物館の近くの公園まで行ってくれないか?」
「千花さん、何かあったの?」
つぐみが心配そうにそう尋ねる。
恭市の妻は、千花という名のようだ。
「いや。公園でちょっとした催し物をやってるから来てほしいらしい」
「じゃあ、すぐに行くね。子どもたち、一人で見るの大変だよね」
「悪いね」
つぐみは「ううん」と首をふって、コーヒーには口をつけずに立ち上がった。まるで、はやくこの場を離れたいみたいだ。
「高輪さん、ご無理いってすみません」
「いや、いいよ」
「じゃあ、失礼します」
じゃあまた、とは言わないんだ。と、ぼんやり考えながら、立ち去るつぐみの背中を見送った。
すぐに視線を恭市に戻す。彼は俺にコーヒーを飲むよう促して、言う。
「ありがたいことに、妻の千花は、本当につぐみのことをよく考えてくれてます」
「特別だからですか?」
「ええ、そうですね。俺たちが血のつながらない兄妹だからこそ、兄妹としての交流を絶やさないようにしてくれているんです」
「素敵な方に出会えましたね」
ええ、と恭市は優しく微笑んだ後、俺の目をまっすぐ見つめてくる。
「つぐみと付き合ってたんですよね?」
俺はちょっと笑ってしまった。
それを聞きたかったのだろうと、容易に気づいてしまった。千花さんとメールのやりとりをしたのは、つぐみに席を外させたかったのだろう。
「高校時代の話です」
「もう、10年近く経つんですね。そう思えないぐらい、鮮明に覚えてます」
「何をですか?」
「彼氏ができたんだって、俺に告白してくれたつぐみをです」
恭市はコーヒーカップに口をつける。俺はなんと答えるべきか悩み、そのまま沈黙を保った。
「終わった話を蒸し返して申し訳ないとは思います」
「いえ」
「ただどうしても、高輪さんにお礼を言いたかったんです」
お礼?と、俺は眉をあげる。
つぐみをふったのは、俺なのに。
「つぐみは今でもですが、昔から好きな男の子がいるとか、そういうことに無縁な感じの子でしたから」
「お兄さんのことが大好きだったんでしょう」
「つぐみがそう言いましたか?」
「いいえ。そう見えました」
「そうでしたか」
恭市は少し考え込むそぶりを見せて、ふたたび尋ねてくる。
「どうして別れたんですか? ぶしつけな質問して、すみません」
「つぐみさんに問題があったわけじゃないですよ」
「別にそういったことを責めてるわけじゃありません。つぐみに問題がないと思ってるわけでも」
「学生時代の話ですから」
簡単に付き合ったり別れたりする年頃の話だ。
そう、暗に伝えると、恭市は小さな息をつく。
「こんなことを言うと、つぐみに叱られるかもしれないが、もしかしたらつぐみはまだ、高輪さんを忘れられないんじゃないかと思ってまして」
「そんなことはないと思いますが」
「思い過ごしかな、俺の。でももしつぐみが、高輪さんのことがあって、新しい恋をしないなら、つぐみに別れを切り出した理由を知りたいと思ったんです」
別れが納得いかないから、10年も彼氏を作らないでいる、というのは考えにくい。
それは薄々、恭市も感じているのだろうが、どこかすっきりしないところもあるのだろう。
「つぐみさんと別れたのは、意外性がなかったからですよ」
「意外性?」
少々驚く恭市に向かって、俺はうなずく。
「彼女、素朴でしょう」
「つまり、つまらない女でしたか?」
恭市は、それなら納得いく、というような、諦めに似た表情をする。
「それがつぐみさんの魅力でもあります。彼女は自己主張が強くないですし、自分より他人のことを優先して、それが当たり前だと思ってる。それは怖いです。少なくとも、俺は怖かった」
「高輪さんのために、つぐみは自分を犠牲にすると思われた?」
「まあ、簡単にいうと」
「つぐみは高輪さんを好きすぎたんですね」
「それはわかりません」
正直な思いを口にした。
本当にわからない。
つぐみがどうしたかったのか。俺がどうしたかったのかさえも。
ただこのまま一緒にいても仕方ないと思った。つぐみの彼氏でいていい男は俺じゃない。その確信だけはあった。
「付き合ってたら、つぐみさんをダメにすると思ったんです」
「具体的にどんなことがあるのかと聞いても……」
そう言いかけてやめて、恭市は首を横に振った。
「わからないですよね。それは、取るに足らない、ちょっとしたことの積み重ねだったのかもしれないですね。そうやってみんな出会ったり別れたりするんでしょうね」
俺はゆっくりと頭を下げた。
「つぐみさんには申し訳なかったと思っています」
「いや、謝らないでください。言いましたでしょう。俺は高輪さんにお礼が言いたかったと」
下げた頭を戻すと、恭市は俺から目をそらす。そして、その横顔から、何かを懐かしむ様子が見て取れる。
「俺の父親が再婚したのは、つぐみが2歳のとき、俺が10歳のときでした」
昔話なんて、すみません。
と、彼は頭を下げた。
「親父はどちらかというとお調子者で、すぐにつぐみの父として馴染みました。もちろん、俺にはわからない葛藤はあったでしょうけど」
「お父さんは明るい方なんですか」
思わず口に出してしまうと、恭市は笑う。
「意外でしょう? 俺とつぐみはどこか似てるけど、父も母も明るくて気さくなんです」
「ご兄弟はほかに?」
「いません。親父は欲しかったみたいですが、できなかったようで。そのかわりといっていいのか、親父はつぐみを可愛がってますよ」
「お兄さんもでしょう」
つぐみは愛情を受けて育った。だからあんなにもまっすぐで、清廉だ。
「俺はそうでもないんですよ。いきなり血のつながらない妹ができたんです。多感な時期でもありました。つぐみを初めて抱っこしたときは変な気持ちになりましたよ」
「変って」
ちょっと笑ってしまうが、恭市は至極真面目な表情をしている。彼にとって、突然現れた妹の存在は大きなことだっただろう。
「つぐみは誰にでもなつく子じゃなかったですから、俺に対しても最初は警戒心むき出しで」
「小さな頃から性格は変わってませんね」
「そうなんです。だから、好きになったらとことんなつくところも変わってません」
ふと、恭市と目が合ったが、すぐにそらされた。
「つぐみは保育園にあがった頃から、お兄ちゃんお兄ちゃんと俺を追いかけてくるようになりました。それは中学になるまで変わりませんでした。正直、心配になったぐらいです」
兄である恭市は、血のつながらない兄妹であることを、つぐみ以上に意識していたのだろうと思った。
「それがある日、つぐみが変わったんです」
「変わった? 中学生の時ですか?」
「ええ。忘れもしません。高校の体験入学のあった日でした」
穏やかな目をして、彼は俺を見る。
「当時はわからなかったけど、あなただったんですね」
「俺?」
「はい。高輪さんに体験入学で会ったんでしょう。あの日からつぐみは人一倍勉強を頑張るようになって、見事志望校に合格しました」
「俺が関係してるかどうかは……」
首をひねる。
つぐみから、それらしい話を聞いたことは一度もない。
「わかるんですよ、つぐみのことは。ずっと見てきたので」
切ない目をするから、あぁとため息が出た。
「……好きでしたか?」
尋ねるべきことではなかった。だけど、彼がその言葉を俺に求めてる気がした。
「それはわからないんです。妹として好きだったのか、一人の女性として好きだったのか。でも高輪さんのおかげで、俺たちにはいい距離感が生まれました。ですから、感謝しています」
「俺は何も」
むしろ、つぐみを傷つけた。それだけだったのに。
「高輪さんがどう思おうと、俺は救われました。あなたと付き合うことになったつぐみは日に日に変わりましたよ。日曜日には、ちょっとずつおしゃれをして出かけていくんです。そんなつぐみを見てるのは微笑ましかった」
「あの頃の俺は気づけてたかな」
つぐみのちょっとした変化に、俺はどれほど……。
「つぐみは文字通り、青春を謳歌してましたよ。俺もつぐみのことで戸惑うことはなくなった。今の妻にも出会え、妻はつぐみを大切にしてくれてる。すべては、高輪さんのおかげなんです」
「過剰な評価ですよ」
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