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42話 心の形(ビオンデッタ視点)

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 鋏で腕を切られ、その血でもかかったのか後ろで突然あがったつまらない男の悲鳴を聞きながら、私はグリムリッチの出現によって狂わされたスケジュールを再び組み直していた。

(……次にウィト様と会える時間はトラブルがなければ23時間ほどね。どうにかして縮められないかしら)

 頭のなかで計画の工程を必要と不要に仕分けながら、私は目の前のグリムリッチを踏みつける。

 ……こいつやっぱり攻撃するときには実体化するタイプだったわね。速さSの今の私なら、二度目以降は問題なく補足できるでしょう。

 となると、戦闘に思考リソースを割くのは時間の無駄ね。こいつを倒すには一分間はかかるでしょうから、その間にウィト様のことを考える訓練をしましょうか。

 常に格好いいウィト様の、一際格好いい瞬間を思い出す訓練。恋愛耐久訓練と、マルガリータはそう名付けていたかしら。

 ……今までのモンスターの姿より、人間の姿の方がウィト様に可愛がっていただくという側面では優れている。

 けれど、ほとんどの場合子孫を残す目的でしか性交しないモンスターと、コミュニケーションと快楽のために性交を行うこともあるヒト科ヒト属ヒトの肉体では、

 ……モンスターの時はほぼずっとウィト様の事を考えていたけれど、私のウィト様へ抱く思慕、情欲、愛はあまりに深い。

 今モンスターだった頃のようにずっとウィト様のことを考えると、ヒト科ヒト属ヒトの肉体は、容赦なく何度も気をやってしまう。あの下腹部から煮えたぎるような熱さを感じながらね。

 ま、ウィト様が超越的な男性的魅力を持っているから仕方のないことではあるのだけれど、思い出すだけで絶頂を迎えるのは流石に非効率的だし、直接お話をした際に無様な姿を晒すことになる。

 だからこそ、ウィト様にときめいた瞬間を思い出して、異性以外の存在として認識するよう思考をコントロールする訓練が必要だった。

 私が彼を男として見るときは、彼にそれを必要とされたときでいい。

 というわけで、私はモンスターだった頃にいつも思い起こしていたお気に入りのウィト様との記憶を思い出すことにした。

 目の前のBランクモンスターの指をヒールで切断しながらね。

 XXX

 (不明瞭。茫漠としていて、曖昧模糊。一体全体、どうすればいいっていうのよ)

 それは、私にもある程度個性というものが芽生え始めていたFランクの時のこと。

 ビッグフライという人間の頭ほどある蝿のモンスターだった私は、何度も自身の『モンスター設定』を読み返しながら頭を悩ませていた。
 
 『自分のやりたい事が自分で分かる。自分のしたくない事をしたくないときちんと思える。自分の好きなものが自分で決められる。自分の嫌いなものだって、気分で変わったっていい』

 『そして、好きな人。その相手がモンスターであっても、人間であっても。恋だけはどんな形であろうと、誰にも……自分の設計や設定にだって干渉されずに、きっと見つけることができますように』

 それは心優しきウィト様が私達の設定にお刻みになった未来そのもの。この言葉があるからこそ、私達はダンジョンモンスターという奴隷に等しい立場に生まれながらも、自由を謳歌できている。

 けれど、私は生まれついての完璧主義者。この文章はウィト様の愛であると同時に、ウィト様が私に課した使命という側面があると理解していた。

 だってそうでしょう?「そうあれ」とお望みになっていなければ、書く必要なんてないのだから。

 だったらと、群れの長の命令に逆らうようなことをしたくない私は、そのウィト様のお書きになった文章通りに生きてみようと考えたのだった。

(でも、やりたい事って何?したくない事って何?好きって?嫌いって?)

 けれど、私にはそういった好き嫌いに関わる機微が、自分のことすら一切分からなかった。

 群れの上長の命令に従う。それ以外の時間はぼーっとする。それ以外の生き方がよく理解できなかったのだ。

 他の子達は既に戦いに興味を持ったり、勉強に興味を持ったりしていたけれど、私はその価値が分からず、命令が下るまでずっと待機していた。

 ────後からジャクリーンに聞いたことだけれど、蟲族は元々命令を忠実にこなす性格が生まれてきやすいらしい。

 私もその例に漏れず、元々マスターがウィト様でなくたってただただ従うような性格だったのでしょう。

 だから、私がウィト様との契約から流れてくる魔力を毎日実感して喜べることは完全な幸運ね。

 他のマスターの元に召喚されていれば、きっと未だに機械のように何の喜びもなく命令に従っていたのでしょう。

 そんな愚かな私は、ウィト様の命令にも、好きだからではなく、ウィト様がダンジョンマスターだからという理由で彼の元に駆けつけていた。

 ウィト様が負けたら群れは終わりなのだから当然だと、そんなふうに。

 ……今、私の目の前にウィト様にそんな心積もりで従っているやつがいたら、縊り殺してやるけれどね。

 ともかく当時の私は脳無しで、この世で最も尊き御方の傍にいながら、ただ従うのみでその有難みや素晴らしさを実感していなかった。

 けど、そんな昔の私にだって、良いところが一つだけあった。

(そうね。どれだけ考えたって分からないのだから、ウィト様に聞きにいきましょうか)

 そう考えた私は、他のモンスター達は頻繁に出入りしていたコアルームへ訪れてみたのだった。

 ……グッジョブね。当時の私。

 他の子達はその頃になると既に、ウィト様から心地よい愛を賜わろうと卑しく何度もコアルームに通っていたらしいけれど、私は自らの意思で赴いたことは初めてのことだったわ。

 そして、その一度で私の世界を全てウィト様色に塗り変えられてしまうことになるのだけれど。

(……っク!ダメっ!)

 ……危なかったわ。これからの記憶にはウィト様が登場なさるから、意識を保てるようにしっかりしないと。

 ────私が訪れたとき、ウィト様は部屋で何かお考えになっているようだったけれど、私の姿を見ると、嬉しそうに頬を緩ませられたわ……不潔の象徴の一つである、蝿の姿をした私に。

 こうした笑顔を思い出すと、情欲だけでなく彼への愛でも心が満たされ、胸が暖かくなる。

「どうしたんだ?ビオンデッタがコアルームに来るなんて珍しいな」

 そういうとウィト様はベッドから立って、近くまで歩いて来られた。

 当時の私はウィト様とお話することができるスキルを持っていなかったから、用件を伝えようと必死になって飛び回り、意図を伝えられたのは四時間ほど経った後だった。

 その間もウィト様は、私ですらその一端しか垣間見ることのできない深い慈愛の心を持って私を眺められて、その聡明な頭脳と慧眼を持って私の意図を何度も言い当てられたわ。四時間もかかってしまったのは私の表現力があまりにも乏しいせいでしかなかった。

「よっしゃああああ!やっとわかった!好きとか嫌いとか、自分の趣向が分からないってことね。よし!それじゃそういう問題が専門のウィト先生が考え方を教えてあげよう」

 ようやく気持ちが通じあった私達は喜び、最終確認をなさったウィト様の言葉に私はコクコクと何度も頷いていた。

 質問の内容に対しても、ウィト様が楽しそうにされていたことを憶えている。ウィト様のお好きな分野だからか、あるいは私の成長を喜んでくださっていたのか。

 そして、ウィト様がそれからお話になった内容は、私の考えを覆すに十分なものだった。

 ……その時聞いた話は他の巫女には内緒にしてある。個人レッスンの内容的にエグレンティーヌとローザローザは近しいことを聞いているかもしれないけれど、他の子達に教えてあげるつもりはない。

 ウィト様との時間は全て私の宝物であり、私の価値そのものなのだから。

 ウィト様はコホンと、可愛らしく咳払いをなさると、お話を始められたわ。

「まず、好き嫌いが分からないという時に、知るべきは自分のことか周囲のことかどちらなのか」

 お話はそんな所から始まった。

「答えは自分だと思う。何故なら、そんな悩みを抱くほど知能を備えている時点で、何かしらの好き嫌いは持っているからだ。ということは答えは内側にある。俺にはビオンデッタの好きなものが幾つか分かるよ。ビオンデッタは綺麗好きだから森に出たら絶対手を洗ってるとか、今回の件もそうだけど物事を白黒明確にすることが好き……とかね」

 確かに私とて最低限の嗜好はある。その時から私は潔癖症だったし、新しいもの好きだったし、効率的な行動が好きだった。

 それからウィト様は、コアからホワイトボードをお作りになった。

「じゃあ、もしかしたらビオンデッタにも気付いてないだけで既に好きな人がいるかもしれない。それを発見するには、ビオンデッタの心の形を知る必要があるんだ」

 そういうと、彼はホワイトボードに正六面体をお書きになった。…………ウィト様は恋をできないというお悩みを持っておられるから、こういった心にまつわることを沢山調べてこられたのでしょう。

「でも、心の形なんて考えてたっていつまで経っても分からないだろ?そんな時は、他の人を見るんだ。ビオンデッタの心は何もビオンデッタの中にあるわけじゃない。ビオンデッタを「見ている人達」の中にもあるんだ」

 ────私はナディナレズレに来て一ヶ月以上国中の音声を集めているけれど、ウィト様のよりも思慮に満ちた事を言っている奴は一人もいなかった。

 当たり前よね。ウィト様の考えはきっと、エティナの誰よりも進んでいらっしゃるのでしょう。私だけでも彼の考えに追いついて、寂しい思いをさせないようにしないと。

(あ。ヤバ……くっぅぅ…………ふう。イケないわね、私。都合のいい妄想をしちゃ)

 ……一瞬ウィト様の考えを正しく理解できるものが私だけとなった世界線が思い浮かんで、そんな状態でずっと必要とされる妄想をしてしまった。

 まだ戦闘中だし、周りには男がいる。そんな状態でピクリとでも快感に身を捩らせることになるなら、それを見たこの男達を本気で殺して、ウィト様のものであるこの身体を視線で汚された罪を報いるため、この身を三日三晩焼く必要があるところだったわね。

 ……私なんかの妄想なんかより、ウィト様の御言葉を思い出す方がずっと有意義なのに。

 ウィト様の心の形に関わる講義はもう少し続いた。

「人間は俺みたいな欠陥品であっても基本的に心は多面体だな。両親がいる子供を対象に実験したとき、子供は両親に平等のつもりでも無意識的に父と母に対する表情、声色などは変化がある」

 ウィト様は気になさることもなく、自身を欠陥品であると言い切った。当時はあまり意味が分からなかったけれど……彼のサイコロは、恋の目がなかなか見つからないものですから。

「ということでビオンデッタ。別に異性としての好きじゃなくたっていいんだ。相手に好き嫌いがないとしても、その人と一緒にいるときの自分に対しては好き嫌いがあるかもしれないだろ?」

 そう言われて、私は考えた。そして、確かに私の他者に対する行動のパターンには、一部明確な違いがあることに気がついたの。
 
 私、ウィト様の言う事には絶対服従だったんだわ。

 ……最初から分かりきったことに見えて、そうじゃないの。だって、その時初めて私は、ウィト様が私に服従を強制していないことを思い出したのだから。

 それに、彼が初めて牛のモンスターに襲われているときだってそうよ。私はまだGランクでほとんど意識もなかったけれど、私は切れた契約を結び直すためにダンジョンへ向かって、彼と再び結ばれている。その時の私の心に、効率だとか打算はなかった。

 その事に気づいた時はまだウィト様に恋慕していたわけじゃなかったけれど、ウィト様の命令に従わないってのも、私にはどこか無理してる感じがあることはわかった。

 それでようやく気がついたの。私はウィト様に従っている時の自分が一番、自分らしくって本能に従っている感じがするのだとね。

 私はお話の意味が分かったことを伝えるために、手を叩いて賞賛を伝えたわ。

「おーやったな!ビオンデッタ。……こんな風に全ての行動には意味があって、その積み重ねが心を象るんだって俺は思ってる。心とは常に何らかの事象に照らされていないと、自らですら存在を確かめられないような不確かなものなんだ」

 と、ウィト様はそんな御言葉と共に、正六面体の書かれた本の切れ端をお渡しになった。この時賜った考え方は今でも私の行動基準の一つ……というか私を構成するものの25%ほどはこの教えだろう。もっとも、他の75%も全てウィト様の影響なのだけれど。

 それから私は、他の生物達が持つ心の形を確かめるために、広範聴覚を使って色々調べてみた。

 ……私には彼らの言葉は分からなかったけど、友好的な声と敵対的な声の違いと、その程度は分かる。その使い分けに注意すれば、手に取るように彼らの「心の形」が分かった。

 (自己なんてものは本当に存在しないのね。みんな勝手に知った気になって、言っているだけなんだわ。だってそうでしょう。生物は対峙する全てのコミュニケーション相手に対して少しずつ態度を変えているというのに。自己なんてもの、他人の中にしかないじゃない)

 ……私の聴覚が良すぎたことも、ウィト様が授けてくださった真理へと、私が到達できた理由でしょう。

 蟲族の私は、人間には聞き取れない音まで聴き分けることができる。いや、それすらも、ウィト様が超越的視座を持っておられるからそうできたのであって、私の力ではないのだけれど。

 最初ウィト様に相談したときは『モンスター設定』の不可解だった一文について知りたかっただけだったけれど、ウィト様は私に知恵を授け、閉じていた私の目を、啓いてくださったの。

 そしてその真理によって私は、「世界の最高効率」が分かった。

 だって、全ての相手に対して少しずつ自分の見せる側面を変えているというのならば、全てのコミュニケーション相手に優劣をつけることができるということになる。

 だったら、一番本能的に気持ちいい相手といる時間を、一番長くすれば最高の人生じゃない。

(なんだ。世界って簡単なのね)

 なんてことを思って、私は森の声を聴くことをやめた。

 ────ウィト様といる時間以外にも確かに、価値があるものは存在しているし、私が知らないものもあるのかもしれない。けれど、ウィト様以上はないのだから、それ以外の時間を出来るだけ短くすればいい。

(私の心は立方体じゃなく、ウィト様とそれ以外しかない二次元空間の平面。その心の形を目指すの)

 それを目指せば、最高効率で、かつ私に存在する可能性のうち最も幸せの人生を歩めるのだから。

 ……といっても、これじゃまだ半分なのだけれど。

 そのときの私はまだ、ウィト様の尊さをほんの少ししかわかっていなかったのね。

 それからの私はウィト様と過ごす時間が飛躍的に伸びたのだけれど、女としての私の開花はそれから一年経ってからのことだった。それ以前の私はまだ、一匹のモンスターに過ぎないのだと思う。

 ま、私が世界一幸福で最高効率の恋に落ちるまで、彼からビジネスを教わったりした沢山の胸弾む思い出があるのだけれど……

(今それを思い出すのは、もう時間の無駄ね)

 目の前では、細切れになったグリムリッチが散乱していた。どうやらもぐらたたきの容量で蹴り飛ばしている内に戦闘が終わったらしい。

「……次からはグリムリッチと会ったらすぐ魔法型に切り替えるべきね。まさか首を落としても生きてるだなんて」

 最高効率を逃したことは悔やまれるけれど、悩むのも時間の無駄だからと切り替えた。

 その時だった。背後でガサっと音がしたから、咄嗟に武器を構える。……私はすっかり忘れていた。背後にいたつまらない男の事を。

「うわぁぁあ!ごめんなさいごめんなさい!僕のせいで!ごめ、ウォエ!ごめ、ごべんなさいっ!!!」

 アランが這いずりながら近づいてくる。どうやらこいつを庇って失われた私の腕に対して、勝手に罪悪感を抱いているらしかった。鼻水を垂らしていて気持ち悪かったので、数歩後ずさる。

(はあ。やっぱりローザローザのくだらないプランなんかより、私が紙袋を被って攻略班を襲いまくった方が絶対効率よかったわね)

 私はそんなことを思いながら、構えた武装を解除した。
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