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まえばる蒔乃

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中洲編

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「霊狐殿。霊狐殿」
「ん……?」

 祠にて微睡んでいた紫野が目を覚ませば、祠の前に屋敷の侍がいた。
 幸せな夢が遮られ、顔を顰めながら祠から姿を顕現した紫野に、彼は来客が来た事を告げる。

「霊狐殿の姉上と仰せの、随分と若い女ですが……」
「ああ、それは姉だ。今行く」

 紫野は装いを整え、秋風が吹き込む廊下を足早に歩き、姉が待たされた部屋へと向かう。紫野の今の住まいは『福岡城』の城下、黒田家家臣の邸宅に祀られた小さな祠だった。

 話は天正十五年(1586年)ーー16年前に遡る。
 太閤秀吉による九州平定の後、博多の街は大規模な復興事業が執り行われた。

 何度も灰燼に帰した博多の街。
 しかし瓦礫を混ぜて再構築した博多塀のように、商人たちは何度でもしぶとく強かに街を再建し続けた。

 商人たちが奮闘する傍らで、博多を守護する武家社会は大きな変遷を遂げていた。

 立花家が筑後柳川に転封されたのち、筑前立花山城は廃城となり、筑前名島城に入った小早川家が筑前守護の大名となった。
 しかし関ヶ原の戦いを経て再び大名は入れ替わり、小早川に変わって外様大名・黒田家が筑前を治めることになった。

 黒田家は名島城なじまじょうを廃し、博多の西・警固村福崎けごむらふくざきに新たな城、福岡城を築城した。

 商人の博多と、武家の福岡。
 二つの面を持つ土地で、紫野は筑前ーー筑紫野ちくしのに住まう六〇〇年の霊狐として、そして武家に使役され戦も知る雄の霊狐として、とある黒田家家臣の屋敷で祀られるようになっていた。

 土地勘のない黒田武士を助け、寄る方のないあやかし達の世話をしながら過ごす日々は、桜のいない空虚な日々を埋めるには充分だったがーー

「嫌な予感しかしねえな」

 広い屋敷の中を歩きながら、紫野は一人呟く。
 かつての主君・立花家は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、今は改易処分となっていた。誾千代姫は肥後腹赤ひごはらあかで少数の侍女や母と共に、ひっそりと暮らしているらしい。

 それ以上の情報を紫野は知らない。
 もちろん、紫野は誾千代姫と桜のことが気にかかっていたが、紫野が彼女の元に向かう訳にはいかなかった。

 秀吉はあやかしを嫌い、そして必要以上に旧いあやかしを使役する大名を嫌った。
 立花家に仕える霊狐は稲荷神の神使として転身し、紫野とは格の異なる存在へと変わっていた。よって、ただの霊狐である紫野が迂闊に誾千代姫の元に行けば、以前以上に角がたつ。
 彼女を慕って仕送りをしていた柳川の農民が磔刑に処されたとも聞く程だ。

 客間には懐かしい姿が、以前と変わりない姿で佇んでいた。
 瀟洒な小袖を纏った肩の薄い女。紫野と同じ狐色の長い髪に大きな耳、5本の尻尾を持つ姉。
 旅装束を纏っていない様子から、どこかで一旦着替えてきたのだと察せられた。

尽紫つくし

 紫野の言葉に姉ーー尽紫は少し疲れた笑顔で笑う。

「元気そうね、紫野ちゃん」
「ああ。尽紫はどうだ?」
「だいじょーぶ。人間と違って、狐だから特に変わりなんてないわ。紫野ちゃんと離れて、たかが十年ちょっとだもの」

 尽紫は肩をすくめて首を振ると、前に座した紫野へと向き直る。

「紫野ちゃん。殿が今、みやこで再士官の嘆願をしているのは知っているわよね?」
「ああ」

 紫野は頷く。
 誾千代姫の婿ーー立花宗茂たちばなむねしげは家臣たちと共に上京し、新たに職を得るために徳川家に嘆願をし続けている。

「もしかして殿の再士官が決まったのか?!」
「まさか。それはむしろ、ほぼ絶望的よ。あらかたの家臣も肥後の加藤家に引き取ってもらったし」
「そうか……んじゃあ、なんでこんなとこまで来たんだよ」
「これから私は殿に誾千代様についてお伝えするために、京に行くの。その道すがら、ようやく紫野ちゃんに会うことができた」
「誾千代様に、ついて?」

 紫野を真正面から見据え、尽紫はじっと口を結ぶ。

「尽紫……? まさか、」
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