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第三章

第四話

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 ぼくはアリアの手を握りしめた。
「どういう、ことですか?」
 こんどはアリアが聞いた。
「人が考えることをやめ始めたとき、それに危機感を覚えた人々が世界に生き残っている優秀な頭脳をプログラム化するという試みを始めた。優秀な人物の思考をシミュレートするという試みだ。そして思考のプログラム化は実現した。わかりやすく言うならば、プログラムに人の真似を指せることに成功したのだ。プログラムが人の思考方法を学び、それを模倣する。模倣したものを発展させる。そのようにして作られた複数のプログラムが協調して、人がまだ自然生殖で子孫を残していたころの世界をまるごとシミュレートするプログラムを作った。それがこの世界なんだよ」
「この世界ってどの世界ですか。シオンズゲイトの世界?」
「そうではない。きみたちが世界だと思ってきたもののすべてだよ」
 ぼくは軽く笑った。笑うような話ではなかったけれど、笑う以外にどんな反応をすればいいのかわからなかった。
「そんな想像をしたことはありますよ。この世界は全部シミュレーションかもしれないって。でもそんなの使い古されたSFですよね。それじゃこの場所も、ぼくも、アリアもプログラムなんですか? あさひだけに向かう途中で見たあの湖は? イマース空間みたいなインチキじゃないと思ったあの世界は? あれも全部インチキだったんですか?」
「レイト君が体験してきた世界はどれ一つとしてインチキではない。イマース空間はその当時の人が作り出した技術だ。その外側の世界はその技術をその後のプログラムたちが進化させた技術だ。どちらも脳が受け取る情報であってインチキではない」
「だけど現実ではないわけでしょ」
「現実だって脳が受け取る情報だよレイト君。そこに、どんな差があるというのだね」
 ぼくは黙った。それはまさにぼく自身がイマース空間について感じていたことそのままだった。話のステージが一つシフトしただけで同じことなのではないか。ぼくは賛同できないのに反論する根拠もないと感じた。
「わたしはプログラムだが、わたしと違ってレイト君やアリア君はプログラムではない。きみたちはそうだな、言わば精神だ。現実の世界で生み出された個体の、物質としての脳の活動のようなものだ。きみたちにわかりやすい言い方をすれば、今この場所も含めて、きみたちは本来の脳でここへイマースしているような状態なんだよ」
「今までのことが全部、イマースだったということですか?」
 アリアが言った。
「少々違うのだが、そう考えるとわかりやすい、というような意味だ」
「意味はわかる気がします。でも実感はできません」
 アリアは断言した。
「シオンズゲイトはシミュレーション内で有望な個体を選び出し、人が進化の過程で失ったものを取り戻すためのプログラムなんだ。わたしはそれを作ったのだよ。そしてきみたちが導かれてきた。アクセル君もそうだ」
「アクセルはどうなったんですか? あなたは今ぼくらにしているような説明をアクセルにはしませんでした。アクセルはどこへ行ったんですか?」
 ぼくが訊いた。
「アクセル君はきみたちとは違う役割を担うことになるだろうね。彼が獲得したものは闘争本能だ。人々は争うことをしなくなり、闘争本能も失われた。人同士の争いがなくなったのは歓迎すべきことだったのだが、それは同時に意欲のようなものを全体的に減衰させることになった。人はもはや病にさえ、勝とうと思わなくなってしまったのだ。だから彼のように、なんにでも勝たねば気が済まないという本能も取り戻したい要素の一つになった。彼はそういう役割でシオンへと導かれたわけだ。君たちとは違うから説明する内容も違っているだけだよ。大丈夫。彼のことは心配しなくていい」
「じゃあたしたちは?」
 ゲームマスターの言葉を聞いてアリアが質問した。
「君たちが獲得してきたのはもちろん異性愛だ。君たちはその精神状態を持ってシオンへと導かれ、つがいとなる」
「つがい…」
「シオンズゲイトは人の未来にとって有効と思われる個体を探し、それを誘う。それぞれの活動を分析して相性の良い異性体を探す。そして二人を出会わせ、協力させる」
「プログラムが勝手に組み合わせて、そんな話ってありますか? あたしたちの意思なんてどうでもいいっていうことですか?」
 アリアが少し声を荒げた。
「意志? もちろんきみたちの意思はとても重要だ。きみたちが互いを愛さなければ未来につながらないからね。きみたちはここへ入ってきたときからずっと互いの手を握っているけれど、それでもこの相手とつがいになるのはきみの意思に反しているかい?」
 ぼくはアリアが息をのむのを感じて横顔を見た。アリアの手がぼくの手を強く握りしめた。
「いえ…」
 ゲームマスターはアリアの様子をみて満足そうに頷いた。
「自分で考える習慣をもち、便利な道具がなくてもさまざまな状況に対処でき、ともに困難に立ち向かうことができる。人はどんなに進化してもそういったものを捨てるべきではなかった。もちろんすべての個体がそうである必要はない。進化の過程で多様性を手に入れる。それは素晴らしいことだ。そして人々はその多様化を歓迎し、それを守る方向に動いた。しかし、ことは思いのほか深刻な事態を招いた」
 ゲームマスターは何の感情も感じられない表情で淡々と話している。ぼくは自分がどんな顔をしているかわからなかった。
「シオンズゲイトはシミュレーションを通じて進化の過程で失ったものを取り戻すためのプログラムだが、決して進化それ自体を否定するものではない。素質のある個体を選び出し、試し、導く。きみたちがこれまでくぐってきたいくつものゲイトはすべて、シオンのゲイトへのゲイトに過ぎない。そこの最後の扉でさえそうだ」
 ゲームマスターはそう言ってゆっくりと間を置いた。
「ここもまだ、シオンではない。来たまえ」
 そう言うとゲームマスターは椅子ごと回転して部屋の奥へと移動し始めた。ぼくとアリアは手をつないだままその背を追った。奥にはカプセルのような容器がいくつか並んでいる。カプセルの中は寝台のようになっていた。
「ゲイトという意味ではこのベッドが本当のシオンへのゲイトだ。もっとわかりやすく言うなら、現実世界への入り口だ。出口と言った方が正確かな」
 ゲームマスターの椅子が回転してこちらを向く。
「このベッドは一人ずつだから二人別々に入ってもらう必要がある」
 ぼくはアリアの目を見つめた。アリアとなにか話をしたほうがいい気がしたけれどなにを話すべきかはわからなかった。アリアもぼくの目を見つめ返していた。
「だいじょうぶ。向こうでも会える。まあちょっと、外見は変わってしまうけれどね」
「外見が変わってしまったら見分けられないんじゃないですか?」
 ぼくは不安になって聞いた。
「大丈夫だ。きみたちは心の深いところでつながっている。姿が少々変わったところでわからなくなったりはしない」
 ぼくの不安はあまり薄まらなかったけれどゲームマスターは構わず続ける。
「きみたちはこれまでの記憶を持ったまま、現実世界の物理的な脳に書き込まれる。向こうの体は今のきみたちとは少々違うけれど、まぎれもなくきみたちの体だ。むこうに子どもは少ない。きみたちの体は他の子どもたちの体と一緒に、同じ施設で維持されている。ここを抜けて目覚めれば、おそらくほとんど同時に目覚めるだろう。向こうには性別を意識する存在はいない。そういう意味ではきみたちは人にとって久しぶりの男であり女だと言える。久しぶりの、本当に久しぶりのつがいになるのだ」
「アダムとイブ…」
 アリアはカプセルを見つめながらつぶやくと、「悪くないわね」と言ってぼくの方を見た。ぼくが微笑むとアリアはつないでいた手をはなして両手をぼくの胸にあて、ぼくの唇に唇を寄せた。ぼくは呆然と立ったままアリアの柔らかな唇と、頭蓋骨の中に染み渡るような匂いを感じた。
「行こ。あたしたちの、世界へ」
「うん」
 アリアは並んだカプセルの一つに寝そべると、ぼくを見上げて頷いて見せた。ゲームマスターがなにか操作をするとカプセルのハッチがおりた。それを見届けたぼくが隣のカプセルに寝そべると、ゲームマスターが椅子ごと近づいてぼくの入ったカプセルを操作した。ぼくの上に静かにハッチが下りた。
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