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決意
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「コーヒーでも飲もうか」と風音が誘い、二人は“幻像工房”から出て二階へ上がった。色のある世界に戻ってきて深雪は目が戸惑っているのを感じた。
階段の壁は天井まで本棚になっていて、本がぎっしり詰まっていた。「本がすごいね」と深雪が言うと「お父さんがね。どんどん増えるんだよね」と風音が答える。二階へ上がるとアイランド型のキッチンから一続きになったリビングルームがあり、ガラス張りかと思うほどの大きな窓が連なっている。窓の外には雪原が広がり、その向こうに東川の中心地が見えていた。
「すごい眺めだね」
「なんにもないよね。ちょっと吹雪くとすごいよ。吹き飛ばされたドロシーの気分が味わえるよ」
「そこに座って」と深雪にダイニングの椅子を勧め、風音は手慣れた様子でケトルを火にかけ、棚からコーヒー用品一式の入ったかごを降ろした。ダイニングテーブルは木製のシンプルなもので、それを取り巻く四脚の椅子は同じ形で一つずつ違う色をしていた。深雪は橙色の椅子に腰を下ろした。
「うちの豆は涼月で買ってきてるから代り映えしないけどね」と言いながら風音は手回し式の粉砕機で豆を挽き始める。あたりに芳醇なコーヒーの香りが漂った。
「風音はいつから涼月に行ってるの?」
「去年。中三のときに写真撮りながら見つけて、それ以来通ってる」
コーヒー豆を挽きながら答えた風音はさらに言葉をつないだ。
「わたしね、高校行く意味が見つからなくてさ。なんで高校に行かなきゃいけないんだ、ってケンさんにね、愚痴ったのよ」
挽き終えた豆をドリッパにセットする。
「そしたらケンさんがね、行かなきゃいけないってことはない、って言うんだ」
風音は深雪の方見てから手元に目を落とす。
「行かなくたって別にいいんだけど俺なら行くね、って言うわけ。だからわたし、なんで? って聞いてみたの」
ケトルが湯気を出し始める。その様子を確認して風音は続ける。
「そしたらね、だってまだ社会に出たくないから、ってさ、言うんだ」
風音は深雪の方を見て微笑む。ケトルの湯は沸騰してごぼごぼと音を立てている。風音は火を止め、ケトルを持ってドリッパに注ぐ。
「この国で生きてくには社会ってものと関係を持つ必要があって、上手に社会と関係を持つための手段が仕事なんだって。だから高校へ行かずに社会へ出るなら仕事をすることになるわけだけど、高校へ行かないでできる仕事は少ないって言うわけ。選択肢が少なくなっちゃうよって。だから行けるんなら高校へ行った方が、どうやって社会とつながるか考える時間もできるしいいよ、って」
コーヒーサーバの中に落ちるコーヒーを見届け、ケトルを置いてコーヒーカップを取り出す。カップにコーヒーを注ぎながら「でね、わたしは高校に行くことにした」と続けた。
「すごいね。わたしはそんなこと考えたこともなかった。中学を卒業したら高校へ行くってことに疑問を持ったこともなかったよ」
深雪の前にコーヒーを出し、風音はその向かい側の白い椅子に腰を下ろした。カップも涼月にあるものと似ていた。見覚えのあるフクロウが描かれている。
「家の人はいないの?」
「うん。お父さんはたぶん仕事。お母さんはどっか旭川あたりに買い物にでも行ったんじゃないかな」
「ね、風音のお父さんってどんな仕事してる人?」
「CG作ってる。コンピュータ・グラフィックス。アニメとかの」
「へえ、すごいね。なんかデザイナーとかそういう感じなんだろうなとは思ったんだ。家がすごいし」と深雪が言うと、風音は「娘は変人だしね」と笑った。
「あ、変人だっていう自覚あったんだ」と言って深雪も笑った。
「ね、写甲さ」ひとしきり笑ってから風音が切り出す。「わたし、やってもいいよ。写甲」
「え? ほんとに? どうして?」深雪はテーブルの上に乗り出して聞き返す。
「深雪とならやってみてもいいかなって思ったから」
「どうして? あんなに嫌だって言ってたのに」
深雪は喜びよりも戸惑いのほうが大きくて素直にありがとうと言えなかった。
「それはほら、深雪も単焦点で世界を見る人だってわかったから」
風音はまじめな顔で言った。
「そんな理由?」
深雪は呆気にとられた。
「そんなってことないよ。割と本気だよわたし。単焦点で世界を見る人となら友達になれると思ってるよ」
「そんな人なかなかいないでしょ」
「だからわたし友達ほとんどいないんだよ。この家に連れてきた友達は深雪が初めてだよ」
友達という響きが深雪の中に溶けた。深雪には大勢の友達がいた。でも友達だと言われてこんな気持ちになったのは初めてだった。こんな気持ち。この気持ちはなんという名前だろう、という疑問が深雪の胸の中にしみこんでいった。
あの“幻像工房”はきっと風音の大切な領域だろう。そこへ招待してくれたことの意味を、深雪は改めて噛みしめた。涙がこぼれそうだった。
「やろ、写甲。わたしデジタルやったことないけどさ。普段正方形の写真しか撮ってないから構図とかもちゃんとできる自信ないけどさ」
風音の言葉に深雪ははっとした。風音の写真がぜんぶ正方形だったことも、今言われるまで気づいていなかった。
「そうか、正方形なんだ」
思わず深雪は声を上げた。風音は笑って「え? そこ?」と言った。
「あのカメラはハッセルって言うんだ。ハッセルブラッド。六センチ四方の正方形が撮れるの。わたしハッセルっていう名前が好きでさ。語感っていうのかな、タッタタっていうリズムね。四つ並びの十六分音符で二つ目だけ休符になってるやつ。ハッセル、ラッセル、ハッスル、マッスルみたいな。このカップはイッタラだけどイッタラも同じリズムよね。日本語だとどっさりとかたっぷり、どっきり、どっぷり、すっきり、ぴったり、ぎっしり、めっきり、ね。さっぱりする感じでしょ、やっぱり」
深雪には風音のその感覚が新鮮だった。単焦点で世界を見ている、と風音は言った。深雪はまだその練習をしているにすぎない。風音は深雪が気づきもせずに通り過ぎているたくさんのものを拾いながら生きている。同じ単焦点から覗いても、風音の見ている世界は深雪が見ているものとはぜんぜん違うのだろう。同じ世界を見てみたい。深雪は強くそう思った。
「ね、写甲の初戦って何出すの?」
「ほんとにいいの? わたしきっと期待外れだよ」
深雪は風音の質問には答えずに自信なく言った。
「は? だって元はと言えば深雪が誘ってきたんじゃない。期待外れとかないよ別に」
たしかに誘ったのは深雪だ。でも誘ったときには、風音があれほどすごい写真を撮る人だとは知らなかった。それに、今日見せられた見たこともないカメラと暗室作業。すべてが別世界だった。単焦点レンズ一本で撮っているというただそれだけで、風音は深雪を認めてくれた。しかしあまりにも別次元にいる風音と一緒に写甲を目指すという資格が自分にあるのか、深雪はまったく自信が持てなかった。
「でも前にさ、写甲に出るのはいいとしてもわたしと一緒にやる意味がどこにあるんだ、って言ってたじゃない」
「あの時はね。意味ないと思ったよ。だけど今日さ、深雪とわたしは友達になったでしょ。友達と一緒に写甲を目指すことには意味があるんだよわたしには」
風音があっさりと放った言葉が深雪の中で爆発した。深雪の意思と関係なく涙が溢れ出た。
「うわ、なんで泣いてるのよ」
「ごめん、友達ってすてきだね。友達ってこんなにうれしいものなんだね」
「は? あんたよくそういう恥ずかしいセリフをあっさり言えるわね」
「あんたっていうのも前と違って聞こえるね」
深雪はぐしゃぐしゃになりながら言った。もう自分が泣いているのか笑っているのかもよくわからなかった。風音は笑っていた。
「やろう、写甲」涙が落ち着いてから、今度は深雪が言った。
「写甲は三人のチームで八枚の組写真を作って応募するの」
「なるほど。じゃテーマを決めて持ち寄った写真から八枚を選ぶか、最初から八枚の構成を決めておいてそれぞれが撮るか。組写真だから八枚がてんでバラバラだと話にならないけど、一人で撮ったみたいに統一されたものだと三人で撮る意味がないわね。難しいわね」
風音の指摘は重要なポイントのように思えた。
「何か考えてることあったりする?」と風音が聞いた。
「いや、まだ。メンバーもぜんぜん決まらないしわたし自身の腕もさっぱりだから。ただ練習してただけで何もまだ考えてなかった」そう答えた深雪の声は少し曇り気味だった。
「そうだ、深雪の写真も見せてよ。あるでしょ、そのカメラの中に」
深雪は自分もカメラを持ってきていたことをすっかり忘れていた。深雪が持ってきたカメラは学校で借りたデジタルカメラで、今は事実上深雪専用だったから入部してから今までの写真がほとんどぜんぶそのメモリーカードに記録されていた。データは学校のサーバにもコピーしてあったけれど、容量に余裕があったからカードからも削除せずに残してあった。
「うん。ぜひ見てほしい」
「じゃ、わたしの部屋に行こう。パソコンあるから」
風音が席を立って自分の部屋に向かい、深雪もあとを追った。
風音の部屋の扉には“風音の暗函”と書かれていた。
「これなんて読むの?」
「かざねのあんばこ。暗函っていうのはカメラのボディのこと」
風音はそう言いながら扉を開けて中へ入っていく。深雪も後に続いた。
風音の部屋は一見して男の子の部屋みたいだった。壁の上の方に細めの窓が切られている。窓は小さいという印象を受けたけれど、そこから入ってくる光は部屋を十分な明るさで満たしていた。部屋の長辺に沿って置かれているベッドは黒い金属製のフレームで、布団も枕も無地の真っ白だった。奥の壁には作りつけのカウンターテーブルがあり、その上にパソコンのモニタが二台並んでいる。
カウンターテーブルの下には本棚があり、大小さまざまな本が詰まっていた。ベッドの反対側の壁は一面ぜんぶが本棚になっていて、下から上までぎっしりと本が詰まっている。それでもさらに入りきらない本が床に積まれていた。壁には文字盤のない針だけみたいな時計がかかっているだけで他にポスターやカレンダーなどはない。部屋はシンプルですっきりしているのに本だけがあふれかえっていた。
「本がすごいね。ここにあるのはお父さんの本じゃないんでしょ?」
「ああ、いや、お父さんの本もいっぱいあるよ。読みたいやつは持ってきてここに置いてあるから」と言いながら風音はベッドのわきにおいてあった木の椅子を持ってカウンターテーブルに向かい、その椅子を深雪に勧めて自分はカウンターの前に置いてあった赤い椅子に腰を下ろした。風音の椅子はキャスターのついた回転する椅子で、そうした構造の椅子にしてはかなり小さいように見えた。深雪が勧められた椅子には足が三本しかなかった。
「その椅子、斜めに体重かけるとこけるから気をつけてね」
風音はそう言うと、カウンターテーブルの下に置いてあるパソコンの電源を入れた。深雪は勧められた椅子に腰かける。木の板を折り曲げて作られたその椅子は見かけによらず座り心地がよかった。
「それはヤコブセンでこっちはイームズ。さっきコーヒー飲んだときに座ってたやつもこれとは違うイームズ。お父さんが椅子好きでさ。有名な椅子いろいろあるんだ」
深雪にはどの単語も聞き覚えのないものだった。
パソコンが起動して風音の前にあるモニタが点灯した。深雪にはなじみのない画面が表示された。
「それなに? パソコン?」
「うん。パソコンだけどOSがね、ウィンドウズじゃないんだ。わたしもよくわかんないんだけど。デビアンだって、お父さんが」
話をすればするほど、風音の住んでいる世界は深雪の知らないものだらけだった。
「はい、メモリーカード、貸して」と風音が手を出す。深雪はカメラからメモリーカードを取り出して風音の掌に乗せた。
テーブルの上にあるカードリーダにカードを差し込み、風音がパソコンを操作する。見たことのない画面だったけれど写真はすぐに表示された。大きな画面に表示するとカメラの液晶で見ているときとは違って見える。風音のモニタは学校のパソコンのものよりも大きかった。
風音は古い方から写真を表示し、一枚を何秒か眺めては次の写真を表示していった。深雪は風音の反応が気になって、画面よりも風音の横顔ばかりを見ていた。
「お、この辺からわかってきたね、単焦点が」と風音が言った。ときどき「お」とか「うん」とか言いながら進めていく。「あ、やっぱりいいな、マクロは」と言ったのはあの雪虫を撮った写真だった。
「その写真を撮った日にね、涼月を見つけたんだ」
さらに写真を進めながら「これさ」と風音が言う。「失敗した写真削除したでしょ」
「うん。失敗したやつは削除して撮り直してる」深雪が答えると、「それやめたほうがいい」と風音は言った。「削除するのをやめるんじゃなくて、失敗したら削除するっていう考え方をやめた方がいい」
深雪が黙っていると「フィルムのカメラはね」と風音は続けた。「現像してみないとどんなふうに撮れたかわからないの。だから失敗してたら取り返しがつかない。それにハッセルなんてさっきのフィルムだと一本で十二枚しか撮れない。失敗しないように撮るしかないけど、失敗するときはする。自分で現像するとなったら現像で失敗することもあるしね。デジタルはすぐに確認できて、だめなら撮り直すとかできるのが良いところなんだけど、それをやってると写真一枚に入る気持ちみたいなものが薄まっちゃうと思うんだよね」
「わかった」
またいくつか写真が進み、画面には最近やりだしたモノクロの写真が表示された。
「あのね」深雪が切り出す。「これ、あの日涼月で風音に会った後にモノクロで撮るのを始めたんだ。でもさっぱりわからないんだよね。ぜんぜんだめだと思うんだけど、どうだめなのか、どうすればよくなるのかわからないんだ」
風音は深雪の顔を見てから画面に目を戻し、何枚か写真を進める。
「小松沢先生に見せたらね。モノクロ写真は目を変えないとだめなんだって言われたんだよ。それがよくわからなくてさ」深雪が言うと風音はまた深雪の顔を見た上で画面に目を戻し、もう一度深雪の方を向いた。
「深雪、美術のデッサンヘタでしょ」
「え?」
風音の唐突な言葉を受けそこなった深雪は、落とした言葉を拾い集めるように数回まばたきをした。
「モノクロ写真を撮る目はデッサンと同じなんだよ」と言い、風音は体ごと深雪の方を向いた。
「デッサンで描く石膏の像さ。あれ真っ白でしょ。真っ白だけどどういう形をしてるかわかるよね。細かい凹凸まで。触らなくてもわかる。あれって陰影を見てるからわかるんだよね。デッサンを描くっていうのは陰影を描くっていうことなの。形を採るのに輪郭を追うんじゃなくて、陰影を追う。どこから光が来てどこにどのぐらい当たってるのか。どこが明るくてどこが暗いのか。こっちのグレーとあっちのグレーはどっちが明るいのか。そういうのを見極める。色に惑わされずに形を見る。モノクロ写真も同じ」
深雪は目から鱗が落ちるという言葉の意味を体感した。デッサンをそんな風に考えて描いたことはこれまでただの一度もなかった。たしかに深雪の描くデッサンは自分でもヘタだと思うぐらいひどいものだった。
「モノクロになると色の要素はなくなっちゃうでしょ。あらゆる色がぜんぶグレーの階調の中に押し込まれる。深雪のモノクロ写真がだめなのは、液晶画面にモノクロで表示されたものを見て撮ってるからだと思う。そうじゃなくて色のついた世界を見るの。どこから来た光がどこにどのぐらい当たって、それぞれの色は何を言っているのか。それをグレーの階調の中に押し込めるとどうなるか想像しながら見る。どこがどのぐらいのグレーになりそうか想像するのはとても難しいから、それをデッサンに描いたらどんなグレーに塗ることになるのか考える。で、写真としてどんなふうにしたいか考えて、露出を決めてシャッターを切る」
「そうか、光を見るってそういう風にやるのか」
深雪は自分にはできる気がしなかったけれどよくわかった。
「ね、わたしたち、写甲の写真モノクロでやろうか」
「え? だってわたしのモノクロ写真さっぱりだめだよ」
「だからさ、ちゃんと練習してさ。で、単焦点にこだわって撮るの。50ミリで撮ったモノクロ写真だけで勝負する。やりがいありそうでしょ」
風音はいたずらな目をして言う。それはわざわざ自分たちで制限を増やして不利にしているだけなんじゃないかと深雪には思えた。それでも風音と一緒にそこへ挑むことこそ風音の見ている世界を見るための近道のようにも思えた。深雪はもう、写真甲子園の本戦に出たいことよりも、風音と同じ景色を見たい思いのほうが強くなっていた。
「わかった。やってみよう」
「その学校で借りられるカメラって写甲の本戦で使うやつと同じものなの?」
「うん。本戦のカメラは毎年変わるみたいだけど、だいたいこのぐらいのカメラなんだって」
「そのEOSってKissだよね」
風音の言葉は呪文のように深雪の耳を撫でて通り過ぎた。深雪はよくわからなかったので手にしていたカメラをそのまま風音に見せた。
「そっか。写甲ってフルサイズじゃないんだ。レンズはどんなのがあるの?」
風音はそう言ってカメラを深雪に返す。
「ズームレンズが何本かと、単焦点が何本かだったと思う」
「50ミリより短いレンズあるかな?」
「なんで?」
「そのカメラはね。CCDが普通の35ミリフィルムよりも小さいの。だからレンズの焦点距離は35ミリカメラよりも長くなる感じなのよ。たとえばそのカメラに50ミリのレンズをつけると、35ミリカメラ換算で80ミリの絵が撮れる。80ミリっていうとちょっと望遠ぎみなんだよね。もう少し広角の方がいいなあ」
たしか小松沢も同じようなことを言っていた、と深雪は思い出した。風音は両手を頭に乗せて小さな背もたれに寄り掛かった。
「それは普段風音が撮ってる写真よりも望遠になっちゃうっていうことを言ってるの?」
「そう。わたしのハッセルは80ミリだけど、ハッセルはフィルムが35ミリフィルムよりも大きいから画角としては標準レンズっぽいの。同じ焦点距離なら受光部分の面積が大きいほど撮れる絵は広角になるのよ。だからハッセルの80ミリはそのカメラの50ミリよりも広角になるの」
「そっか。もっと広角のレンズ用意されてるかな」
「いや。単にわたしが慣れてないっていうだけだからやっぱりいいよ。APSサイズの50ミリレンズ縛りのほうが絵としては特徴的な感じになるかもしれないしね。よし。そうと決まれば明日から。カメラはその学校で借りられるやつかAPSサイズのやつ。で。一日二十四枚までしか撮っちゃだめ。撮るっていうのはシャッターを切ることね。二十四回しかシャッターを切っちゃだめ。そしてぜんぶモノクロ」
「ええ?」
深雪は驚いて声を上げた。でも、どうして、という言葉はなんとか飲み込んだ。それにどんな意味があるのか。小松沢にも聞こうとして、やればわかると言われたことがあった。どんな意味があるのか。それすらわからないからこそやらなきゃならないんだ。その言葉を発した相手を信じられるならまっすぐついて行ってみる。風音を信用できるのか。そんなことは問うまでもなかった。
「むかしのフィルムだと一本で二十四枚とか、多くても三十六枚とかだったんだよ。わたしが撮ってる中版のフィルムは十二枚だしね。わたしはずっと一日最大十二枚まで、ってお父さんに言われてたからさ。それは別に練習とかじゃなくてフィルムにお金がかかるからだけど。でも実際一日十二枚までっていう制限はいい練習になったと思うし、いまだにそれで間に合ってるからね。二十四枚だとその倍撮れる感じね」
「よし。やってみよう。50ミリ一本。一日二十四枚まで。モノクロ。うん」深雪は頭の中にメモをするみたいにに繰り返した。
「それと。深雪もデッサン練習したほうがいいよ」と風音が課題を追加した。
「え? デッサン?」
「わたしもときどき鉛筆デッサン描いてるんだけどね。やるといろんなことがわかるよ」
風音はそう言うとカウンターテーブルの下の本棚から大きなノート状のものを取り出した。それは美術部の子が持っているようなクロッキー帳だった。風音はそのクロッキー帳の途中のページを無造作に開いてゆっくりとページを繰った。パソコンのマウス、ヘッドフォン、ドライバー、ペンケース、ジュースの缶、ラベルのないペットボトル、マグカップ、さまざまなモチーフが一ページに一つずつ、鉛筆で丹念に描かれている。それぞれのページの下の方には日付が描かれていた。
「わたしはこんな感じでクロッキー帳にデッサンを描いてるんだ。だいたい一日に長くて二時間ぐらい描いて、一枚を三日から一週間ぐらいで描く感じかな。デッサンとしてはもっと描き込むこともできるけど、ほどほどのところでやめてる感じ」
風音はそんなことを言いながらページを繰っていく。
「あ」
深雪が思わず声を出すと風音は手を止めた。そのページには風音が描かれていた。
「すごい。そっくりだね」
「そりゃ、デッサンだからね」
風音は笑って答えた。
「デッサンっていうのは見たままを描く練習だからそっくりじゃないと何かがおかしいんだよ。これが絵だとさ、描き手の解釈とか表現とかそういうものが入るからね。そっくりかどうかじゃないところに価値が生まれるの。デッサンはあくまでも観察眼を鍛える練習だからさ。とにかく見たままを描くように意識するんだよ」
「へえ」
深雪はただただ感心した。
「石膏像があればいいんだけどさ。無いから人の顔を練習したければ鏡見て自分を描くのが一番手軽よ。お父さんが石膏像買ってやるって言ったんだけどさ。あんなもの部屋に置いたら邪魔でしょうがないからいらないって言ったんだ」
そう言って風音は笑った。
「描くものはこんな風になんでもいいからさ、深雪も描いてみるといいよ、デッサン」
「うん、やってみる」
深雪は風音と仲良くなったことで大きな何かが確実に動き始めたのを感じた。当初思っていたのと違う方向へ動いているような気もした。それで構わないと思った。風音は今まで見たこともないほど楽しそうだ。こんな風音を知っているのは自分だけだと思うと誇らしかった。
風音がとても楽しそうなので深雪はしばらく黙っておくことにした。もう一人見つけないと写甲には応募できないということを。
階段の壁は天井まで本棚になっていて、本がぎっしり詰まっていた。「本がすごいね」と深雪が言うと「お父さんがね。どんどん増えるんだよね」と風音が答える。二階へ上がるとアイランド型のキッチンから一続きになったリビングルームがあり、ガラス張りかと思うほどの大きな窓が連なっている。窓の外には雪原が広がり、その向こうに東川の中心地が見えていた。
「すごい眺めだね」
「なんにもないよね。ちょっと吹雪くとすごいよ。吹き飛ばされたドロシーの気分が味わえるよ」
「そこに座って」と深雪にダイニングの椅子を勧め、風音は手慣れた様子でケトルを火にかけ、棚からコーヒー用品一式の入ったかごを降ろした。ダイニングテーブルは木製のシンプルなもので、それを取り巻く四脚の椅子は同じ形で一つずつ違う色をしていた。深雪は橙色の椅子に腰を下ろした。
「うちの豆は涼月で買ってきてるから代り映えしないけどね」と言いながら風音は手回し式の粉砕機で豆を挽き始める。あたりに芳醇なコーヒーの香りが漂った。
「風音はいつから涼月に行ってるの?」
「去年。中三のときに写真撮りながら見つけて、それ以来通ってる」
コーヒー豆を挽きながら答えた風音はさらに言葉をつないだ。
「わたしね、高校行く意味が見つからなくてさ。なんで高校に行かなきゃいけないんだ、ってケンさんにね、愚痴ったのよ」
挽き終えた豆をドリッパにセットする。
「そしたらケンさんがね、行かなきゃいけないってことはない、って言うんだ」
風音は深雪の方見てから手元に目を落とす。
「行かなくたって別にいいんだけど俺なら行くね、って言うわけ。だからわたし、なんで? って聞いてみたの」
ケトルが湯気を出し始める。その様子を確認して風音は続ける。
「そしたらね、だってまだ社会に出たくないから、ってさ、言うんだ」
風音は深雪の方を見て微笑む。ケトルの湯は沸騰してごぼごぼと音を立てている。風音は火を止め、ケトルを持ってドリッパに注ぐ。
「この国で生きてくには社会ってものと関係を持つ必要があって、上手に社会と関係を持つための手段が仕事なんだって。だから高校へ行かずに社会へ出るなら仕事をすることになるわけだけど、高校へ行かないでできる仕事は少ないって言うわけ。選択肢が少なくなっちゃうよって。だから行けるんなら高校へ行った方が、どうやって社会とつながるか考える時間もできるしいいよ、って」
コーヒーサーバの中に落ちるコーヒーを見届け、ケトルを置いてコーヒーカップを取り出す。カップにコーヒーを注ぎながら「でね、わたしは高校に行くことにした」と続けた。
「すごいね。わたしはそんなこと考えたこともなかった。中学を卒業したら高校へ行くってことに疑問を持ったこともなかったよ」
深雪の前にコーヒーを出し、風音はその向かい側の白い椅子に腰を下ろした。カップも涼月にあるものと似ていた。見覚えのあるフクロウが描かれている。
「家の人はいないの?」
「うん。お父さんはたぶん仕事。お母さんはどっか旭川あたりに買い物にでも行ったんじゃないかな」
「ね、風音のお父さんってどんな仕事してる人?」
「CG作ってる。コンピュータ・グラフィックス。アニメとかの」
「へえ、すごいね。なんかデザイナーとかそういう感じなんだろうなとは思ったんだ。家がすごいし」と深雪が言うと、風音は「娘は変人だしね」と笑った。
「あ、変人だっていう自覚あったんだ」と言って深雪も笑った。
「ね、写甲さ」ひとしきり笑ってから風音が切り出す。「わたし、やってもいいよ。写甲」
「え? ほんとに? どうして?」深雪はテーブルの上に乗り出して聞き返す。
「深雪とならやってみてもいいかなって思ったから」
「どうして? あんなに嫌だって言ってたのに」
深雪は喜びよりも戸惑いのほうが大きくて素直にありがとうと言えなかった。
「それはほら、深雪も単焦点で世界を見る人だってわかったから」
風音はまじめな顔で言った。
「そんな理由?」
深雪は呆気にとられた。
「そんなってことないよ。割と本気だよわたし。単焦点で世界を見る人となら友達になれると思ってるよ」
「そんな人なかなかいないでしょ」
「だからわたし友達ほとんどいないんだよ。この家に連れてきた友達は深雪が初めてだよ」
友達という響きが深雪の中に溶けた。深雪には大勢の友達がいた。でも友達だと言われてこんな気持ちになったのは初めてだった。こんな気持ち。この気持ちはなんという名前だろう、という疑問が深雪の胸の中にしみこんでいった。
あの“幻像工房”はきっと風音の大切な領域だろう。そこへ招待してくれたことの意味を、深雪は改めて噛みしめた。涙がこぼれそうだった。
「やろ、写甲。わたしデジタルやったことないけどさ。普段正方形の写真しか撮ってないから構図とかもちゃんとできる自信ないけどさ」
風音の言葉に深雪ははっとした。風音の写真がぜんぶ正方形だったことも、今言われるまで気づいていなかった。
「そうか、正方形なんだ」
思わず深雪は声を上げた。風音は笑って「え? そこ?」と言った。
「あのカメラはハッセルって言うんだ。ハッセルブラッド。六センチ四方の正方形が撮れるの。わたしハッセルっていう名前が好きでさ。語感っていうのかな、タッタタっていうリズムね。四つ並びの十六分音符で二つ目だけ休符になってるやつ。ハッセル、ラッセル、ハッスル、マッスルみたいな。このカップはイッタラだけどイッタラも同じリズムよね。日本語だとどっさりとかたっぷり、どっきり、どっぷり、すっきり、ぴったり、ぎっしり、めっきり、ね。さっぱりする感じでしょ、やっぱり」
深雪には風音のその感覚が新鮮だった。単焦点で世界を見ている、と風音は言った。深雪はまだその練習をしているにすぎない。風音は深雪が気づきもせずに通り過ぎているたくさんのものを拾いながら生きている。同じ単焦点から覗いても、風音の見ている世界は深雪が見ているものとはぜんぜん違うのだろう。同じ世界を見てみたい。深雪は強くそう思った。
「ね、写甲の初戦って何出すの?」
「ほんとにいいの? わたしきっと期待外れだよ」
深雪は風音の質問には答えずに自信なく言った。
「は? だって元はと言えば深雪が誘ってきたんじゃない。期待外れとかないよ別に」
たしかに誘ったのは深雪だ。でも誘ったときには、風音があれほどすごい写真を撮る人だとは知らなかった。それに、今日見せられた見たこともないカメラと暗室作業。すべてが別世界だった。単焦点レンズ一本で撮っているというただそれだけで、風音は深雪を認めてくれた。しかしあまりにも別次元にいる風音と一緒に写甲を目指すという資格が自分にあるのか、深雪はまったく自信が持てなかった。
「でも前にさ、写甲に出るのはいいとしてもわたしと一緒にやる意味がどこにあるんだ、って言ってたじゃない」
「あの時はね。意味ないと思ったよ。だけど今日さ、深雪とわたしは友達になったでしょ。友達と一緒に写甲を目指すことには意味があるんだよわたしには」
風音があっさりと放った言葉が深雪の中で爆発した。深雪の意思と関係なく涙が溢れ出た。
「うわ、なんで泣いてるのよ」
「ごめん、友達ってすてきだね。友達ってこんなにうれしいものなんだね」
「は? あんたよくそういう恥ずかしいセリフをあっさり言えるわね」
「あんたっていうのも前と違って聞こえるね」
深雪はぐしゃぐしゃになりながら言った。もう自分が泣いているのか笑っているのかもよくわからなかった。風音は笑っていた。
「やろう、写甲」涙が落ち着いてから、今度は深雪が言った。
「写甲は三人のチームで八枚の組写真を作って応募するの」
「なるほど。じゃテーマを決めて持ち寄った写真から八枚を選ぶか、最初から八枚の構成を決めておいてそれぞれが撮るか。組写真だから八枚がてんでバラバラだと話にならないけど、一人で撮ったみたいに統一されたものだと三人で撮る意味がないわね。難しいわね」
風音の指摘は重要なポイントのように思えた。
「何か考えてることあったりする?」と風音が聞いた。
「いや、まだ。メンバーもぜんぜん決まらないしわたし自身の腕もさっぱりだから。ただ練習してただけで何もまだ考えてなかった」そう答えた深雪の声は少し曇り気味だった。
「そうだ、深雪の写真も見せてよ。あるでしょ、そのカメラの中に」
深雪は自分もカメラを持ってきていたことをすっかり忘れていた。深雪が持ってきたカメラは学校で借りたデジタルカメラで、今は事実上深雪専用だったから入部してから今までの写真がほとんどぜんぶそのメモリーカードに記録されていた。データは学校のサーバにもコピーしてあったけれど、容量に余裕があったからカードからも削除せずに残してあった。
「うん。ぜひ見てほしい」
「じゃ、わたしの部屋に行こう。パソコンあるから」
風音が席を立って自分の部屋に向かい、深雪もあとを追った。
風音の部屋の扉には“風音の暗函”と書かれていた。
「これなんて読むの?」
「かざねのあんばこ。暗函っていうのはカメラのボディのこと」
風音はそう言いながら扉を開けて中へ入っていく。深雪も後に続いた。
風音の部屋は一見して男の子の部屋みたいだった。壁の上の方に細めの窓が切られている。窓は小さいという印象を受けたけれど、そこから入ってくる光は部屋を十分な明るさで満たしていた。部屋の長辺に沿って置かれているベッドは黒い金属製のフレームで、布団も枕も無地の真っ白だった。奥の壁には作りつけのカウンターテーブルがあり、その上にパソコンのモニタが二台並んでいる。
カウンターテーブルの下には本棚があり、大小さまざまな本が詰まっていた。ベッドの反対側の壁は一面ぜんぶが本棚になっていて、下から上までぎっしりと本が詰まっている。それでもさらに入りきらない本が床に積まれていた。壁には文字盤のない針だけみたいな時計がかかっているだけで他にポスターやカレンダーなどはない。部屋はシンプルですっきりしているのに本だけがあふれかえっていた。
「本がすごいね。ここにあるのはお父さんの本じゃないんでしょ?」
「ああ、いや、お父さんの本もいっぱいあるよ。読みたいやつは持ってきてここに置いてあるから」と言いながら風音はベッドのわきにおいてあった木の椅子を持ってカウンターテーブルに向かい、その椅子を深雪に勧めて自分はカウンターの前に置いてあった赤い椅子に腰を下ろした。風音の椅子はキャスターのついた回転する椅子で、そうした構造の椅子にしてはかなり小さいように見えた。深雪が勧められた椅子には足が三本しかなかった。
「その椅子、斜めに体重かけるとこけるから気をつけてね」
風音はそう言うと、カウンターテーブルの下に置いてあるパソコンの電源を入れた。深雪は勧められた椅子に腰かける。木の板を折り曲げて作られたその椅子は見かけによらず座り心地がよかった。
「それはヤコブセンでこっちはイームズ。さっきコーヒー飲んだときに座ってたやつもこれとは違うイームズ。お父さんが椅子好きでさ。有名な椅子いろいろあるんだ」
深雪にはどの単語も聞き覚えのないものだった。
パソコンが起動して風音の前にあるモニタが点灯した。深雪にはなじみのない画面が表示された。
「それなに? パソコン?」
「うん。パソコンだけどOSがね、ウィンドウズじゃないんだ。わたしもよくわかんないんだけど。デビアンだって、お父さんが」
話をすればするほど、風音の住んでいる世界は深雪の知らないものだらけだった。
「はい、メモリーカード、貸して」と風音が手を出す。深雪はカメラからメモリーカードを取り出して風音の掌に乗せた。
テーブルの上にあるカードリーダにカードを差し込み、風音がパソコンを操作する。見たことのない画面だったけれど写真はすぐに表示された。大きな画面に表示するとカメラの液晶で見ているときとは違って見える。風音のモニタは学校のパソコンのものよりも大きかった。
風音は古い方から写真を表示し、一枚を何秒か眺めては次の写真を表示していった。深雪は風音の反応が気になって、画面よりも風音の横顔ばかりを見ていた。
「お、この辺からわかってきたね、単焦点が」と風音が言った。ときどき「お」とか「うん」とか言いながら進めていく。「あ、やっぱりいいな、マクロは」と言ったのはあの雪虫を撮った写真だった。
「その写真を撮った日にね、涼月を見つけたんだ」
さらに写真を進めながら「これさ」と風音が言う。「失敗した写真削除したでしょ」
「うん。失敗したやつは削除して撮り直してる」深雪が答えると、「それやめたほうがいい」と風音は言った。「削除するのをやめるんじゃなくて、失敗したら削除するっていう考え方をやめた方がいい」
深雪が黙っていると「フィルムのカメラはね」と風音は続けた。「現像してみないとどんなふうに撮れたかわからないの。だから失敗してたら取り返しがつかない。それにハッセルなんてさっきのフィルムだと一本で十二枚しか撮れない。失敗しないように撮るしかないけど、失敗するときはする。自分で現像するとなったら現像で失敗することもあるしね。デジタルはすぐに確認できて、だめなら撮り直すとかできるのが良いところなんだけど、それをやってると写真一枚に入る気持ちみたいなものが薄まっちゃうと思うんだよね」
「わかった」
またいくつか写真が進み、画面には最近やりだしたモノクロの写真が表示された。
「あのね」深雪が切り出す。「これ、あの日涼月で風音に会った後にモノクロで撮るのを始めたんだ。でもさっぱりわからないんだよね。ぜんぜんだめだと思うんだけど、どうだめなのか、どうすればよくなるのかわからないんだ」
風音は深雪の顔を見てから画面に目を戻し、何枚か写真を進める。
「小松沢先生に見せたらね。モノクロ写真は目を変えないとだめなんだって言われたんだよ。それがよくわからなくてさ」深雪が言うと風音はまた深雪の顔を見た上で画面に目を戻し、もう一度深雪の方を向いた。
「深雪、美術のデッサンヘタでしょ」
「え?」
風音の唐突な言葉を受けそこなった深雪は、落とした言葉を拾い集めるように数回まばたきをした。
「モノクロ写真を撮る目はデッサンと同じなんだよ」と言い、風音は体ごと深雪の方を向いた。
「デッサンで描く石膏の像さ。あれ真っ白でしょ。真っ白だけどどういう形をしてるかわかるよね。細かい凹凸まで。触らなくてもわかる。あれって陰影を見てるからわかるんだよね。デッサンを描くっていうのは陰影を描くっていうことなの。形を採るのに輪郭を追うんじゃなくて、陰影を追う。どこから光が来てどこにどのぐらい当たってるのか。どこが明るくてどこが暗いのか。こっちのグレーとあっちのグレーはどっちが明るいのか。そういうのを見極める。色に惑わされずに形を見る。モノクロ写真も同じ」
深雪は目から鱗が落ちるという言葉の意味を体感した。デッサンをそんな風に考えて描いたことはこれまでただの一度もなかった。たしかに深雪の描くデッサンは自分でもヘタだと思うぐらいひどいものだった。
「モノクロになると色の要素はなくなっちゃうでしょ。あらゆる色がぜんぶグレーの階調の中に押し込まれる。深雪のモノクロ写真がだめなのは、液晶画面にモノクロで表示されたものを見て撮ってるからだと思う。そうじゃなくて色のついた世界を見るの。どこから来た光がどこにどのぐらい当たって、それぞれの色は何を言っているのか。それをグレーの階調の中に押し込めるとどうなるか想像しながら見る。どこがどのぐらいのグレーになりそうか想像するのはとても難しいから、それをデッサンに描いたらどんなグレーに塗ることになるのか考える。で、写真としてどんなふうにしたいか考えて、露出を決めてシャッターを切る」
「そうか、光を見るってそういう風にやるのか」
深雪は自分にはできる気がしなかったけれどよくわかった。
「ね、わたしたち、写甲の写真モノクロでやろうか」
「え? だってわたしのモノクロ写真さっぱりだめだよ」
「だからさ、ちゃんと練習してさ。で、単焦点にこだわって撮るの。50ミリで撮ったモノクロ写真だけで勝負する。やりがいありそうでしょ」
風音はいたずらな目をして言う。それはわざわざ自分たちで制限を増やして不利にしているだけなんじゃないかと深雪には思えた。それでも風音と一緒にそこへ挑むことこそ風音の見ている世界を見るための近道のようにも思えた。深雪はもう、写真甲子園の本戦に出たいことよりも、風音と同じ景色を見たい思いのほうが強くなっていた。
「わかった。やってみよう」
「その学校で借りられるカメラって写甲の本戦で使うやつと同じものなの?」
「うん。本戦のカメラは毎年変わるみたいだけど、だいたいこのぐらいのカメラなんだって」
「そのEOSってKissだよね」
風音の言葉は呪文のように深雪の耳を撫でて通り過ぎた。深雪はよくわからなかったので手にしていたカメラをそのまま風音に見せた。
「そっか。写甲ってフルサイズじゃないんだ。レンズはどんなのがあるの?」
風音はそう言ってカメラを深雪に返す。
「ズームレンズが何本かと、単焦点が何本かだったと思う」
「50ミリより短いレンズあるかな?」
「なんで?」
「そのカメラはね。CCDが普通の35ミリフィルムよりも小さいの。だからレンズの焦点距離は35ミリカメラよりも長くなる感じなのよ。たとえばそのカメラに50ミリのレンズをつけると、35ミリカメラ換算で80ミリの絵が撮れる。80ミリっていうとちょっと望遠ぎみなんだよね。もう少し広角の方がいいなあ」
たしか小松沢も同じようなことを言っていた、と深雪は思い出した。風音は両手を頭に乗せて小さな背もたれに寄り掛かった。
「それは普段風音が撮ってる写真よりも望遠になっちゃうっていうことを言ってるの?」
「そう。わたしのハッセルは80ミリだけど、ハッセルはフィルムが35ミリフィルムよりも大きいから画角としては標準レンズっぽいの。同じ焦点距離なら受光部分の面積が大きいほど撮れる絵は広角になるのよ。だからハッセルの80ミリはそのカメラの50ミリよりも広角になるの」
「そっか。もっと広角のレンズ用意されてるかな」
「いや。単にわたしが慣れてないっていうだけだからやっぱりいいよ。APSサイズの50ミリレンズ縛りのほうが絵としては特徴的な感じになるかもしれないしね。よし。そうと決まれば明日から。カメラはその学校で借りられるやつかAPSサイズのやつ。で。一日二十四枚までしか撮っちゃだめ。撮るっていうのはシャッターを切ることね。二十四回しかシャッターを切っちゃだめ。そしてぜんぶモノクロ」
「ええ?」
深雪は驚いて声を上げた。でも、どうして、という言葉はなんとか飲み込んだ。それにどんな意味があるのか。小松沢にも聞こうとして、やればわかると言われたことがあった。どんな意味があるのか。それすらわからないからこそやらなきゃならないんだ。その言葉を発した相手を信じられるならまっすぐついて行ってみる。風音を信用できるのか。そんなことは問うまでもなかった。
「むかしのフィルムだと一本で二十四枚とか、多くても三十六枚とかだったんだよ。わたしが撮ってる中版のフィルムは十二枚だしね。わたしはずっと一日最大十二枚まで、ってお父さんに言われてたからさ。それは別に練習とかじゃなくてフィルムにお金がかかるからだけど。でも実際一日十二枚までっていう制限はいい練習になったと思うし、いまだにそれで間に合ってるからね。二十四枚だとその倍撮れる感じね」
「よし。やってみよう。50ミリ一本。一日二十四枚まで。モノクロ。うん」深雪は頭の中にメモをするみたいにに繰り返した。
「それと。深雪もデッサン練習したほうがいいよ」と風音が課題を追加した。
「え? デッサン?」
「わたしもときどき鉛筆デッサン描いてるんだけどね。やるといろんなことがわかるよ」
風音はそう言うとカウンターテーブルの下の本棚から大きなノート状のものを取り出した。それは美術部の子が持っているようなクロッキー帳だった。風音はそのクロッキー帳の途中のページを無造作に開いてゆっくりとページを繰った。パソコンのマウス、ヘッドフォン、ドライバー、ペンケース、ジュースの缶、ラベルのないペットボトル、マグカップ、さまざまなモチーフが一ページに一つずつ、鉛筆で丹念に描かれている。それぞれのページの下の方には日付が描かれていた。
「わたしはこんな感じでクロッキー帳にデッサンを描いてるんだ。だいたい一日に長くて二時間ぐらい描いて、一枚を三日から一週間ぐらいで描く感じかな。デッサンとしてはもっと描き込むこともできるけど、ほどほどのところでやめてる感じ」
風音はそんなことを言いながらページを繰っていく。
「あ」
深雪が思わず声を出すと風音は手を止めた。そのページには風音が描かれていた。
「すごい。そっくりだね」
「そりゃ、デッサンだからね」
風音は笑って答えた。
「デッサンっていうのは見たままを描く練習だからそっくりじゃないと何かがおかしいんだよ。これが絵だとさ、描き手の解釈とか表現とかそういうものが入るからね。そっくりかどうかじゃないところに価値が生まれるの。デッサンはあくまでも観察眼を鍛える練習だからさ。とにかく見たままを描くように意識するんだよ」
「へえ」
深雪はただただ感心した。
「石膏像があればいいんだけどさ。無いから人の顔を練習したければ鏡見て自分を描くのが一番手軽よ。お父さんが石膏像買ってやるって言ったんだけどさ。あんなもの部屋に置いたら邪魔でしょうがないからいらないって言ったんだ」
そう言って風音は笑った。
「描くものはこんな風になんでもいいからさ、深雪も描いてみるといいよ、デッサン」
「うん、やってみる」
深雪は風音と仲良くなったことで大きな何かが確実に動き始めたのを感じた。当初思っていたのと違う方向へ動いているような気もした。それで構わないと思った。風音は今まで見たこともないほど楽しそうだ。こんな風音を知っているのは自分だけだと思うと誇らしかった。
風音がとても楽しそうなので深雪はしばらく黙っておくことにした。もう一人見つけないと写甲には応募できないということを。
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