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第三話 魔獣

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 薄暗い部屋の中、低いうめき声が漏れている。

 乱雑に床に転がるペットボトルやコンビニの袋や容器が散乱する床に男が一人。

 片隅には二つの小さい影。小学生ぐらいの子どもが闇の中、怯えた表情で『それ』を見ていた。

 『それ』は部屋の真ん中に、真っ黒な服、白い狐の面をつけて仁王立ちしている。

 この部屋に侵入し、遭遇した男の腹に強烈なボディブローを叩き込んだのがつい数秒前のことである。

 吒枳尼天だきにてんの化身と称する女、薬師峰瑠璃の指図でとあるシングルマザーの内縁の夫で、連れ子にDVを繰り返す男を掣肘せいちゅうする、それが今回その眷属の狐に扮した男、佐上忠平の使命だった。

 この前の半グレよりも楽な任務であったが、問題があるとはいえ一般人に手を挙げるのは気が引けた。

 しかしこの男が女の連れ子を虐待していて、願主はその連れ子の姉弟の姉であることを知ると気が変わった。
 この者たちをある程度痛めつけてトラウマを与えてやっても構わない、と思って仕掛け、実行した。玄関では応対に出た母親が気を失っている。

「いいか――、またこの子等に…」

 忠平が言いかけたその時、野生の勘、ともいうべき感覚が微細な空気の振動を感知し、それは動作になっていた。忠平の身体は跳んで空中にあり、がっ、と低い声を鳴らしたそれの牙は空を掴んだ。

 一匹の獣が眼下で牙を剥いていた。

 いや、一匹では無い、もう一匹、着地せんとする忠平に飛び掛からんとする牙。しかしそれも直前で再度跳んだことにより失敗に終わった。

 楽勝だと思ったが訳の分からぬ間に追い詰められている――。

 こんなことになるなんて聞いてないぞ――。

 忠平の頭は焦りと怒りが同居していたが、事態を冷静に把握しようとしていた。

 黒い体毛、紅い瞳の大柄のイヌ科の動物らしいシルエット。オオカミというよりは大型の犬のようだったが問題はそれが元人間で、どんな動物図鑑にも載っていない存在であるということだ。

 人間が獣に変わる。そんなことあり得るか、と一瞬思ったが否定できない事象である。自らも「神」と称する謎の女と「誓約うけい」をしてこの尋常ならざる力を得ている。眼の前の事象はさもありなん、と思わざるを得ないのだ。

 二匹の黒い野獣は、低くうなりながらこちらににじり寄ってくる。その2匹の奥に震えながらこちらを見る四つの瞳。逃げる選択肢は、無い。しかしこの狭いアパートで戦うというのもリスクが多すぎる。

 先に動いたのは獣の方だった。牙を剝いて二方向から忠平に飛び掛かる。

 ガシャン、と窓ガラスが割れ、真っ黒な忠平の身体は背面から部屋の外に飛び出した。

 二匹の獣は忠平の腕に食らいついていた、ように見えた。
 食らいついた腕にはカーテンが巻かれている。さらに口の中にねじ込まれた手にはがっちりと舌が握られて、鋭牙は肉まで到達しなかった。

 忠平は獣たちの突進で突き落とされたのではなく、二匹の攻撃を封じつつ攻撃に繋げたのだ。もがく二匹を剛力でベランダの欄干にぶつけながら4階建てのアパートを落下していく。

 とどめの一撃として地面に強かに打ち付けると獣達は情けない鳴き声をあげて倒れ伏した。

 死んでねぇよな?一応人間のはずだが…?

 獣の黒い体毛がどろどろと溶けていき、中から男女の体が現れた。呼吸、脈は確認できたので、忠平は安堵した。

 そうとなれば長居は無用―。
 先程の落下音で周辺住人が様子をうかがいに来ることは必定である。
 アパートの住民が顔を出して下界を除いた時、そこには泡を吹いて倒れている男女以外、暗闇しかなかった。


 朗らかな春の季節は過ぎ、雨の香りが近づいていた。凪川の市街地から離れた北側の山間部では緑は色濃く、麓の家々にはアジサイの花が咲き始めている。

 いわゆる『べついんさん』凪川稲荷・北別院の周辺も樹木が繁茂して、より一層藪の中といった様相である。一見無整備のようでよく見ると植生は一定の秩序があった。

 小さな山門の近くには人の手で植えたのか大きな合歓ねむの木から扇状の花がいくつも咲いて、低木のガマズミの白い花が泡のように点在し参道に沿って咲いている。

 昼でも暗い参道を抜けるとそこだけ木々の覆いが無い箇所があり、その下に古びた鳥居と鎮守堂、が鎮座していた。

「今回は大変でしたねぇ」
「いや、ホント聞いてないよ、まさか…」
「まあ、それでも見事依頼達成したのはお見事。良しとしましょう」

 薬師峰は聞いているのか聞いていないのか、当事者の苦情めいた言葉を涼しい顔で受け流した。

「人が獣になる…、人が上位で獣は下位とされますが、そもそも人も獣から進化したものでしょう?たとえとしてもあるじゃないですか、男は狼、とかけだもの、とか」
「そりゃ欲情した男のたとえだろ。人間が急に犬や狼に変わることがあるのかよ、『山月記』みたいにさ」

「それは忠平さん、実際に自分の身の上に起こったことそう変わらないのではないですか?」
「俺と同じように誓約うけいをしたってことか?」
「おそらくは。『誓約』というものか、分からないですが、何者かが『きっかけ』を与えているのではないでしょうか」

 整った顔が忠平をまっすぐ見つめている。が、また急に口元がゆるんで、
「とはいえ、今のところは手がかりなしです。果報は寝て待て、ということで」

「はぁ」
「まあどうしても気になる、ということでしたらこの方を訪ねてみては?」

 薬事峰が差し出した小さな紙片には携帯電話とメールアドレスが記載してあった。

 からかいなのかはぐらかされているのか何なのか、「すべてはめぐりあわせ、ですよ」と薬師峰はいつもの笑顔で忠平を送り出した。

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