菩提樹の猫

無一物

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12章 伯爵令息の夏休暇

5 駆け引き

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「それもお相手は、ジェゼロ領主でもあるグーデンホーフ侯爵家の次女、マリアナ嬢だ」
 
「えっ!?」

 父の言葉を受けて、アンドレイは驚きの声を上げた。
 侯爵家の娘と結婚なんて想像もつかない。
 それ以前に、リンブルク伯爵の称号は弟が継げばいいとさえ思っていたのに——

「でも僕は、リンブルク伯爵を継ぐつもりはありません。縁談は弟のタデアーシュと進めればいいじゃないですか」

 そうすれば継母も喜んで、自分の命などもう狙ってこないだろう。

「そんな勝手なことを言ってはいけないよ。嫡男は君だ。成人したらまずツカニナ子爵を名乗ってもらう」

「でも、義母上ははうえが許してくれないでしょう。タデアーシュが継いだらすべて丸く収まります」

 アンドレイの言葉を聞いて、アルベルトの顔から笑顔が消える。

 アルベルトは普段から物腰が柔らかく、領民や使用人たちからも慕われているのだが、ただ善人なだけではリンブルク伯爵家の財産は守っていけない。
 実は強かな戦略家で、時には冷酷な判断を下すことも厭わない。
 そんな父の素顔を知っているアンドレイは、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「では、デニスとの契約を解除しよう」

(えっ!?)

 いくらデニスがアンドレイに剣を捧げているとは言え、給金は父親であるアルベルトが払っている。

「酷すぎますっ! なんでデニスと僕を引き離すのですかっ!」

 まさかデニスを引き合いに出されるとは思わず、アンドレイは急に焦りだす。
 幼い頃から唯一の味方だったデニスがいなくなったら、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだ?
 きっと路頭に迷ってしまう。

「だって君が嫡男でなくなったら、お付きの騎士なんていらないだろ? タデアーシュにも騎士が欲しいと頼まれているが、嫡男ではないからという理由でそのお願いを断っているんだよ? 家を継がないなら、成人するまではウチで面倒を見てあげるけど、それから先はこの家を出ていってもらう。以前言ってたように役人にでもなったらいい」

 そのあまりな言いように、アンドレイは唇をワナワナと震わす。

「——デニスとだけは……」

 やっとそれだけ口にすることができた。

「デニスと離れるのが嫌なら、嫡男としての責務を全うしなさい。義務と権利を切り離すことはできない」

「…………」 

 アルベルトの強い眼差しから逃れるように、机の上に置いてあるポジ・ルゼ湖の水の色と同じ孔雀青のインク瓶を見つめた。

 完全に意気消沈した息子を前に、アルベルトは話を続ける。
 アンドレイの反応もすべて想定内なのだろう。

(どうせ僕は、父上の手の平で踊らされている……)

「それにね、クーデンホーフ侯爵家は、君をお望みなんだ」

「どういうことです?」

 会ったこともないはずなのに、どうしクーデンホーフ家は自分を指名してきたのだろうか?
 アンドレイには理解できない。

「グリシーヌ公爵家との繋がりが欲しいいんだよ」

 アルベルトの答えを聞いて、アンドレイは納得した。
 アンドレイの実の母は隣国レロの名門、グリシーヌ公爵家の娘だった。
 古代王朝の血を引くとされるグリシーヌ家に対し、古い時代に憧れを持つ貴族たちの中には特別な想いを抱く者がいてもおかしくない。
 その中でも、特に淡藤色の瞳を持つ者は、王朝の血を色濃く受け継いでいるとされている。
 アンドレイの母も淡藤色の美しい瞳の持ち主だった。

 なぜそんな名家の娘が異国の伯爵家に嫁いだかというと、織物が盛んなリンブルク領と、高級木製家具の産地であるグリシーヌ領は、椅子などに使用する織物生地の取引で繋がりがあった。
 そして、グリシーヌへ視察に訪れた若き跡取りのアルベルトと、公爵家の四女だったアンドレイの母が出逢い、恋に落ちる。
 姉たちはすでに有力貴族の元に嫁いだ後だったため、この国を跨いだ大恋愛は実を結ぶことになる。
 それに、元々商売上の繋がりがあったため、両家にとっても決して悪いものではなかった。
 今でも両家の繋がりは深く、家具用の質のいい絹織物をグリシーヌ領へと送り届けている。

 現在ファロに留学しているアンドレイは、王都にあるグリシーヌ公爵である祖父の家から学校へと通っていた。亡き娘の忘れ形見であるアンドレイは、祖父母から大変可愛がられ、実家にいる時よりもなに不自由なく暮らしている。

 そんなアンドレイが嫡男だからこそ、クーデンホーフ侯爵家はリンブルク家との繋がりを持ちたいのだ。



「これはまだ仮定の話だが……君がマリアナ嬢との縁談を受けるのなら、私はヴルビツキー男爵家との繋がりを切ろうと思っている」

 次々と信じられない発言をしていく父に、アンドレイは驚きを隠すことができない。

「それは……商売上の取引を、ということですか?」

 リンブルク領は織物を主産業としており、ヴルビツキー男爵家はドロステアで一位二位を争う織物卸問屋を持っている。
 アルベルトの再婚は、典型的な政略結婚だった。

「いや……それだけじゃない、ヘルミーナとも離婚するつもりだ。今まで商売上の繋がりがあるからと我慢してきたが、君の命を狙って来てから、私も堪忍袋の緒が切れた」

 日ごろ滅多に感情を表に出さないアルベルトが、怒りを露わにしている。

「……えっ!? でもそんなことをしたらクーデンホーフ家に対して体面が悪くなったりしないのですか?」

 自分に対して無関心だと思っていた父が、まさかここまで怒りを募らせていたとは、アンドレイにとって予想外の出来事だった。

「ヴルビツキーには色々と問題があってね。先方も縁を切ることを望んでおられるんだ」

 クーデンホーフが、ヴルビツキー男爵家と縁を切ることを望んでいるとはいったいどういうことなのだろうか?
 アンドレイには想像もつかない。

「クーデンホーフ侯爵とは、新しい紡績機の共同開発のことで話が進んでいる。莫大な水力が必要で、リンブルク領では実践が難しかったが、ここジェゼロではそれが可能だ。先方も自領で生産される大量の羊毛を自領で加工できたらもっと利益を増やすことができると、この話に乗り気だ。我が家としてもぜひとも君の縁談を成功させたいと思っている。君にとっても悪い話ではないと思うが、どうだい?」

(——あの女と離婚する……)

 父の言葉が、まるで悪魔の囁きのようにアンドレイを誘惑する。
 そうなれば、自分も命を狙われることもなくなるし、自分の家なのにまるで除け者のように扱われることもない。


「——君にとっても悪い話じゃないと思う。急な話だけど、今夜までに答えを出しなさい」




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