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 不安と焦りからなんとか脱却し、落ち着きを取り戻し、反省を終えたアケチ伯は、およそ三ヶ月ぶりに顔を合わせた娘によって、立って目を開けたまま気絶するという体験をさせられた。
「はっ…」
 とはいえ、気を失っていたのは一瞬だ。
「アン…今、何と言ったのか、もう一度言ってくれるかな?」
 自分が父親を気絶せしめたと解っているのかいないのか、観光を楽しみ、収支報告も終えたアンネリザは、気楽な様子である。
「ええ、ですから、私、陛下とお友達になりました」
 娘はまるで今日の空は晴れですね、と言っているような気楽さである。正直言葉の内容の重さと声音の軽さが相反し過ぎてアケチ伯は言葉を上手く頭で理解することができない。いや、重々しく言われたら寝込んでいただろうから、これで良いのかもしれないが。
「………お友達?」
「はい。そうですね、言い換えれば、折々に文などをやりとりする私的に親しい間柄、といったところでしょうか?」
 別にお友達の意味は訊いていないと言いたかったが、それよりも優先して訊きたい事が多過ぎた。くらくらするから頭が左右に揺れるのか、自分が意識を保とうと振っているのかよく解らなくなりつつも、なんとか動きを止めて真っ直ぐに娘を見つめる。
「………何故?」
「馬が合ったので?」
 そこで首を傾げるのは何故なのか、続けて問いかけたいが、言葉が上手く出てこない。
「アン…」
「はい」
「成人してから未婚の殿方とお友達になるという事がどういう憶測を呼ぶかは解っているね?」
 有り体にいってそれは、お友達ではなく、恋人だ。未婚の貴族として、婚約もしていない異性と恋人関係に有るというのは、外聞が良くない。そのために使われる言葉が、お友達、だ。
 アケチ伯はアンネリザがそんな事を知らないとは考えていない。ただ、陛下とお友達になった、という、お友達には、普通のお友達の響きしか感じないがためにそう聞いているのだ。
「ちゃんと解っておりますよ。ですが、そう思いたい方には思わせておけば良いと考えます」
「…何故?」
「そのような考えを抱く方々が勝手に私に持つ感情よりも、陛下とお友達になる事の方がずっと素敵だからです」
 きっぱりと言い切った娘の満足気な顔に、アケチ伯は今度こそ言うべき言葉を失った。
「………そうだね」
 それだけを残して、ふらふらとした足取りでアンネリザの部屋の居間を出て行く。
(あら、もう良いのかしら? 今日くらいはお父様のお小言にもいくらでも付き合うつもりでしたのに。拍子抜けだわ)
 父母や長姉からの小言にも、最後まで付き合おうという覚悟を決めて帰ってきたアンネリザだったが。
 帰宅から、十日。
 今のところ誰からも大した小言が無い。
(まぁ、考えてみれば降りかかった災難から無事帰還しただけだものね。不安や心配を解消した私に小言なんて、無いのよね。そうだわきっと)
 アンネリザは、拍子抜けすると同時に喜びながら、昼食後に自室で心配の文をくれた友人達への返事を用意しつつ過ごしている。
 国王陛下のお友達。
 それは、アンネリザがレンフロに提案した、のらりくらりと結婚話をかわす方法の布石だ。
 アケチ伯が指摘したように、世間一般で成人後の男女がお友達になれば、恋人とほぼ同義である。例えばお互い許嫁がいる者同士が恋人宣言をするわけにはいかないのでお友達と称するというような、事情が有ると思われるのだ。
 勿論、男女であっても、ただ出会ったのが成人後だっただけで、本当に友人以外の何でもない関係を築く者もいる。そうした間柄の人間関係は、それとなく周りに伝わっていくのだ。つまり、関係が見えてこなければ見えてこないほど、恋人説が濃厚になる。
 では、レンフロとアンネリザはどうだろう。
 二人は物理的に離れた位置におり、やりとりは文以外にない。周囲は、二人が真実友人なのか、見せかけの友人なのか、これからの情報では知りようがないのだ。よって、これまでの情報を用いて推察する他無い。
 では、その情報をまとめてみよう。
 一つ、アンネリザは見合いに参加した = 王后になる意思がある
  ※ 当人の事情には関わり無く周囲がどう思うかである
 二つ、舞踏会で唯一レンフロと踊った = 陛下も憎からず思っている
  ※ 当人の事情には関わり無く周囲がどう思うかである
 三つ、唯一王命よって花の館に喚ばれた = お友達な訳がないだろう
  ※ もはや思い込みもここまで材料が揃えばしかたがない
 例え勘違いであっても、当人達が積極的にそれを解こうとしなければ、相手は勝手に勘違いを深めていく。
 そうした訳で、今や二人が本当に友達だと思っているのは、当人とその侍従、アンネリザと直接話をしたアケチ家の面々くらいのものとなったわけだ。
(効果は絶大ね)
 アンネリザの事をよく知っている友人達からの文でさえ、まさかと前置きしつつレンフロの事を訊いてくる。城での事は自分の一存では答えられない、という定型文になりつつある返答を書くしかないが。
(本来ならこんなやり方は令嬢として下の下なんでしょうけど)
 概ね世間の認識は、十五歳という成人直後のアンネリザに配慮し、今はまだ結婚や婚約という形をとらずに親元での生活を送らせているのだろう、きっと十七歳を過ぎた頃に正式に動き出すに違いない、というものだ。
(言わば暗黙の婚約者。不可視の許嫁。ふふ、何だかちょっと面白くなってきたわ)
 本当ならばその気もない相手との結婚を噂されるなど令嬢として不適切極まりないのだが、アンネリザは気にしていない。レンフロがそこまで迷惑はかけられない、と拒否しようとした提案をゴリ押しさえした。その背景には、アケチ家においてアンネリザの未婚状態が大した問題で無い事と本人にさらさら結婚の意思が無い事がある。もっとも、母や姉達はアンネリザにも結婚してもらいたいと思っているようなので、家の中ではっきりと明言した事はないのだが。
(未だ見ぬ王后の影武者、とか、どうかしらね、ふふふ)
 誰に披露する予定も無い自身の二つ名を妄想して遊んでいたアンネリザは、扉をノックして声をかけてくるコレトーに機嫌良く応じた。
「下の広間でお茶の用意が出来ております。よろしければ」
「すぐ行くわ」
 コレトーの言葉に、午後のお茶には少し早い気がして、内心首を捻った。だが、小言が無い以上、久しぶりに家族と過ごすお茶の時間を思えば、楽しみだ。アンネリザは、ほくほく顔でいそいそと階段を降り、広間へ足を踏み入れた。
 入口から見える奥の上座には、既に人が座っている。
 その人の顔を見たアンネリザは、一瞬で真顔になり、ぴたりと足を止めた。
「………お、ばあ、さま?」
「ご機嫌よう。アン」
 そこには、何故か、アンネリザがこの世でも最も苦手な魔女の瞳を持つ、母方の祖母が着席していた。
「そんなところに立ってないで、こちらにいらっしゃいな。久しぶりに可愛い顔を見せてちょうだい」
 アンネリザは錆び付いた絡繰人形のようなぎこちない動作で祖母の向かいの席へ向かう。だが、着席する前に祖母が自身の隣の空きを示しているのを見てしまう。
「こっちよ。アン」
「はぁい…」
 逃げ場は無いのだと悟って、アンネリザは大人しく祖母の隣へ着席する。
「少し会わない間に、すっかり大人の女性らしくなったわね」
「有難うござ「ですが」
 告げようとしたお礼は食い気味に言われた否定の言葉に遮られた。
「淑女には程遠い」
 何故、優しげな笑顔がこれほど怖いのか。アンネリザにはどんな本を読んでも理解できない摩訶不思議な現象だ。
「………申し訳ございません」
「まぁ、アン。謝ったりする必要はありませんよ。態度を改めればいいのですから」
「…はい」
 借りてきた猫よりも大人しくなったアンネリザは、なるべく目を合わせないように腿に置いた己の手の甲を見つめる。
(そういえば血の管ってどうして青いのかしらねぇ)
 現実逃避にくだらない事を考え始めたアンネリザだったが、そっと頬を祖母の両手で包み込まれた。抵抗はしてみたが、結局、祖母にじっと瞳を覗き込まれる形になる。
「アン」
「はい…」
「あなた、陛下の事がお好きなの?」
 祖母の問いかけに内心で首を捻ったものの、間は置かずに返答する。
「はい、然様でございます」
(逆にあの陛下を嫌う家臣は珍しい部類だと思う…あ、私が人間的に例外側だからわざわざ確認されているのかしら)
 アンネリザは一応自分が一般的な令嬢でない自覚はあった。
「本当ね?」
 念を押すように問いかけられ、このままではまずいと、語気を強くする。
「勿論です!」
(あらぁ…心底から強めに肯定してみたのに、何か納得されてない? はっ! もしかして陛下の名前に泥を塗る気とか思われてるのかしら。いくら私が令嬢らしさがないとは言え、臣下の分くらいは弁えてるのに…)
 アイデル王国で一般的に令嬢に求められる弁えは、淑女らしさであって臣下の分ではない。
「アンネリザ」
「はい」
「陛下と、結婚をするつもりなの?」
「え?」
(あ、そうか、お祖母様にはお友達の件が伝わっていないのね…あーでも、お友達と言ったところで怒られそうだし、どうしようかしら)
 ここまできてようやく、祖母が友人知人達と同様にお友達を勘違いしているのだと悟ったアンネリザだが、素直にただのお友達です、というと小言ではなく怒られる気がして、つい、もごもごと言葉を濁してしまう。それが地獄への片道切符だとは気付かずに。
「いえぇ…そのー…私では役者不足、と、申しましょうか、あー…」
「そうね」
「え?」
「力をつけなくてはいけませんね」
「は? あの、お祖母様? 私、陛下とはお友達に」
「大丈夫よ、アン。老い先短いこの命を懸けて、あなたを立派な淑女にします」
「いえ、お祖母様、それには及びませんわ。どうぞお祖母様のお命はお祖母様のためにお使いください」
「甲斐の無い事を言うものではありませんよ、アン」
「いえ…あの…」
 ミノレッタの結婚式に参加する事を強硬に主張し果たすまでの三ヶ月間。アンネリザは一日と空くことなく祖母の教育を受ける事ととなった。それは、端的に言って、アリエーナの指導が微風に思える暴風だった。
 憂いを帯びた表情で、馬車に揺られながら、アンネリザは呟く。
「コレトー…やっぱり、禍福は糾える縄なのよ。私、とても楽しむ事は出来なかったわ…」
「ご安心ください。その苦労とてお嬢様のお力になりますよ。糾える縄なのですから」
「…そうね」
 たった三ヶ月で、まるで見違えるように淑女らしさを身につけた姿は、どこからどう見ても、隙無く伯爵令嬢であった。
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