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 困った事など何もないです。
 そう言われて、レンフロは遠慮しなくても良いと続けた。
「いえ、遠慮とかでは、本当に困っている事など何もありませんから」
 だが、アンネリザは暢気だ。馬場に向かうまでの一連と、馬場から戻ってから何かあっただろう、と考えたレンフロの心配の言葉にも、けろりと返す。
 仮にアンネリザが、本当に地方で箱入りに育てられたお嬢様だったら、きっとレンフロの心配に有り難がって涙を流してもう家に帰りたいとか言ったのだろう。いや、そもそもそんな娘だったなら此処に来ないだろうか。まぁ、とにもかくにも、アンネリザをそんじょそこらの令嬢方と一緒にしては、令嬢方が可哀想だという話だ。
 単に女性に囲まれて育ったのではない。優しく、強く、逞しい先達に、散々口も手も出されながら、それでものびのび育ったのだ。アンネリザの打たれ強さと厚かましさは、他には類を見ない程である。
「もうその内に帰れるというお話ですし、私は本当に困った事などありません」
 花の館では、主にアンネリザの周りが騒がしくなっている。その対応のためにコレトーも動いているので、アンネリザは今一人で、のんびりと寝台に腰掛けて寛ぎながらレンフロと話していた。
「でも、そうですね。困った事は何も無いですが、陛下にお願いなら一つ」
「なんだ? 言ってみてくれ」
「帰領前にもう一度だけ、陛下の御首を…」
 堪能したいです、と言いかけて、慌てて訂正する。
「拝見したいです」
「あぁ、そんな事なら…そうだ、今、窓を開けられるだろうか?」
「窓ですか? ええ、できますよ」
 アンネリザは立ち上がって部屋にある唯一の出窓に近付くと、そっと開け放った。夕暮れ近くの北側の空は、うっすらと紫色に染まり始めている。
「開けましたけど」
「近頃、色々試していてな。相変わらず念話はどうにもならないんだが、こんな事はできるようになった」
「え…」
 僅かな笑いを含む空気を、ふと身近に感じたような気がしたアンネリザの、驚いて見上げる視線の先。出窓から手を伸ばせば届きそうな位置にレンフロの微笑む顔が浮かんでいた。
「精霊の血というのは、本当に恐ろしいな…やろうと思えばどんどん人から離れるようだ」
 微苦笑で話しながらも、どこか楽しそうな声で、レンフロの浮かぶ首にアンネリザは言葉を失くす。
 暮れる空を背景に、溶け込むような黒髪と、浮かび上がるような白い肌。その美しい顔で柔らかな光を浮かべる碧の瞳に吸い込まれるようにアンネリザは手を伸ばした。思わず出窓の上に膝で乗り上げてしまっていたが、そんな行儀の悪さに思いを馳せる余裕はない。
 表情が驚いてから固まった事。頬に触れる指先が震えている事。口数の多いはずのアンネリザがさっきから黙っている事。そうした全てをもって、レンフロは、今度こそ本当に怖がらせたのかもしれない、と少し後悔していた。
 レンフロは、アンネリザの前で首を取った舞踏会の日から、誰にも知られないように自分が出来る事を探り続けた。そして、何か不可思議な事が出来ると知れる度、アンネリザの事を思い起こしていた。首が取れても生きているということを受け入れてくれる者は居る。精霊の血が濃い証だと誉め讃える者も居る。それでも、アンネリザのように明るい感情で受け入れ、共にどういう力なのかを考えてくれた者は居なかった。もちろん自分の立場から考えればアンネリザの態度が無礼で異常なものだというのは解っている。それでも。彼女が居いれば、また笑って凄いと言ってくれる気がしたのだ。
「姫…」
「陛下…素晴らしいです。こんな事って、凄いわ!」
 アンネリザは興奮と喜びで頬を染め、思わず叫んでいた。
 てっきり恐怖で言葉を失くしたと思っていたレンフロは、悲しげに歪みそうになっていた顔に、きょとんとした驚きを浮かべる。
 レンフロの方こそ言葉を失っている間に、アンネリザはどんどん言葉を取り戻していった。
「亡国カレンスの神話には首を飛ばして父母の危難を知らせた姫君の話がありますけど…ただの神話ではないのかもしれませんね。陛下のようにその姫君もこうした能力を持っていたのかもしれません。あ! そ、そのまま姫君は亡くなってしまったと言いますが、陛下はお体に障りはございませんか、何か、普段より疲れやすいとか、苦しいとか、そんな事は」
「大丈夫だ。さすがにそんな事があったら止めている」
「あ、そうですね…すみません。私早とちりで、よく失敗するのに、また――」
 アンネリザははっとすると出窓から身を退いて、レンフロの首を招き入れた。
「私が大声を出してしまったせいで人が来てしまいました。お戻りになるには少し時間を空けた方が良さそうですね」
 普段は山羊の世話をしている厨房の下働きの青年が、きょろきょろと見回しながら柵を確認している。その姿を窓からちらりと覗き込んでから、アンネリザは困惑顔でレンフロに謝った。
 招き入れられるまま室内に入り、壁際に浮かんでいたレンフロも似たような表情だったが。
「そうか、解った。しかし、私の方こそ…あまり深く考えていなかったが、これは姫の寝室に無礼にも訪問してしまったという事になるのだろうか?」
「どうでしょう? 私がお願いした結果来ていただけた訳ですし、室内に招いたのも私ですね。つまり、どちらかというと私がはしたない真似をした、という事になるのではないでしょうか? まぁ、どちらにしろ、見つからなければ良いのですから。しばらくこちらでごゆっくりなさってくださ………ごゆっくりするお時間はあるのでしょうか?」
「え? ああ、体は執務室に居るから、問題は無い」
 レンフロの言葉にアンネリザが再びキラキラと目を輝かせる。
「まぁ、では御体と御首は別の事が出来るのですか? あ、もしや! 彼の神話に出てきた姫君は首と体が離れたから亡くなったのではなく首を離している間に体に何事かあったのやもしれませんね!」
 同意を求めるように話しかけられたが、レンフロはその神話を知らない。首を振る、というよりは頭全体を左右に振って、苦笑する。
「すまない姫、実はカレンス神話はよく知らないのだが」
「まぁ、そうなのですか? では、僭越ながら私が!」
 どんと胸を叩いて得意げに鼻を鳴らしたアンネリザの希望により、その腕の中に抱かれる形で、レンフロはカレンス神話を聞かされる事になる。それは、日が沈んでコレトーが入室の許可を求めてノックをするまで続いた。
「っ!」
 主人の気楽な入室許可に扉を開けた結果。つい先ほど初めて間近に目にしたのと同じ尊顔を拝す事になり、コレトーは自分の胃が痛いのか心臓が痛いのか頭が痛いのか、もうよく解らなくなる。最終的にはどこも痛くなくなったので、もうどこが痛かったのかは永遠に解らないだろう。
「ちょうど良かったわコレトー。語り部をしていたらすっかり喉が渇いてしまって、お茶を淹れてくれる。濃茶に山羊乳を入れたものが良いわ。あ、蜂蜜もお願いね」
 気まずそうに見えるレンフロの顔と、一国の主の首を腿に乗せて何一つ気にしたところのないアンネリザの顔を見る。主人にとっては猫を膝に乗せて撫でている時とそう変わらない感覚なのだろうな、陛下が気の毒だ。そんな思いが脳裏を駆け巡った。
「畏まりました」
 かつてない穏やかな微笑みを浮かべて、コレトーはお茶を淹れた。これほど穏やかな心中になったのは、産まれて初めてかもしれない。主人と、必要かどうかは解らないもののお客様である主人の主君に、お茶を提供してからそっと扉の前に控える。今なら毒を飲めという理不尽な命令にだって心穏やかに従えそうな心地だ。誰もそんな命令はしないが。
 コレトーがそんな新境地を切り開いているとは気付かないアンネリザは、香りの良い紅茶を前に困惑顔のレンフロを見つめている。
「あの、お飲みになりますか?」
「いや、どうだろう…できるだろうか」
「やってみましょう!」
 レンフロは、キラキラと目を輝かせたアンネリザが傾けるカップのお茶を一口飲み込んでみた。首の下から出てきたりはしない。執務室にある体の、腹が温まるのを感じた。
「飲めるようだ…」
「そうなのですね! はっ、では、陛下は人知れず食事をとりつつ執務を執り行う事も可能ということですね! 大事な儀式の場で急にお腹が鳴りそうになった時とか、とても有用ですね!」
 その発想はなかった、というのがレンフロの思いだったが、確かに言われてみれば体で仕事をしいる間に人知れず食事をとれるということだ。向後、国外へ赴く際に首を城に置いていく事もできるかもしれない。
「そうだな」
 他には何ができるだろうかと、楽しそうにしているアンネリザを見つめて、ああこうやって笑ってこの血の話をしたかったのだ、と腑に落ちる。例えそれが礼儀知らずな振る舞いでも、レンフロにはこの明るい笑い声が必要だったのだ。自分自身でさえ忌避する精霊の血の力を、笑ってくれる存在が。
「姫、もう一口もらえるだろうか、とてもいい味だ」
「勿論です陛下。コレトーはお茶を淹れる達人ですから」
 その後はとりとめもない話が続き、夕食時近くまで過ごした。
 末姫のアンネリザの侍従がお茶を淹れる達人。五姫のシレーナの侍従が馬術の達人。レンフロに、他の姫の侍従も何かの達人なのかと問いかけられて、アンネリザが期待を込めてコレトーを見つめた。新境地に達していたはずのコレトーの胃が再び痛みを訴える。そろそろいい時間ですが、と頭痛を堪えたコレトーが口にしたので、アンネリザは調べておきます、とレンフロに返した。
 溜息を飲み込んで、コレトーはアンネリザに言われるまま、窓を開け、人が居ない事を確認する。
「では、また」
 来た時と同様に、レンフロがふわりと浮かんだ。コレトーは僅かに目を見張ったが、アンネリザは嬉しそうに礼をする。
「はい陛下。どうぞ、お健やかな良い夜をお過ごしくださいませ」
「姫も、良い夜を」
 笑顔で窓からレンフロは帰っていった。
 完全に星空となった景色に浮かぶ白い首が、その麗しい微笑みが、アンネリザにはうっとりするほど美しいものに映る。
「はぁ………」
 切なげに溜息を吐き、物憂げな表情で窓の向こうを見つめるアンネリザを見て、コレトーは、アンネリザがいつか不敬罪で刑に処される日が来はしないかと不安で、今日だけで何度目かも解らない溜息を心の内で吐いた。
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