花交わし

nionea

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33.緩やかに

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 急に手元の暗さが増したように思えて、貴冬は顔を上げた。
 赤い西日が差し込む室内は作業をするには向かないほどになっていて、書物を片付け始める者、灯を着け始める者が出始めている。
 貴冬は今日までの作業の進み具合と期限を考えてから、もう帰る事に決めた。
「貴冬さん。灯、いりまっか?」
「いえ。今日はもう仕舞いにします」
「さいですか」
 同僚の言葉に応えて、帳面を片付ける。
 虎猫の里の木材を売るための過程で知り合った材木商から紹介された商家の帳簿の清書作業は、各人の月の作業量が定まっている。余裕があれば追加でこなして歩合の報酬を得る事もできるが、好んで仕事を欲しがる者もいるので、貴冬は仕事が余っているような場合以外は引き受けないようにしている。
「お、ちょうど上がりか」
 筆記具を風呂敷に包んだところでそんな声が聞こえた。
「貴冬さん。お迎えやで」
 自分に関わりがあるとは思っておらずにいたら、声をかけられた。視線を上げ促されるまま移すと、帳場の部屋前に氷冴尾が立っていた。
「氷冴尾? どうかしたのか?」
「作事頭からの頼まれ事が近くでな。帰る頃かと思った」
「そうか」
 ちょうど上がるところだったから帰ろう、と連れ立って歩き出す。
 そんな二人の後ろ姿を見て、縞鼠族の青年、八弌(やいち)が呟く。
「あの人が貴冬さんの伴侶の方ですか。本当に綺麗な人ですね」
「すげぇよな。あの綺麗ぇな面で平気で屋根から飛び降りるんだぜ」
 横で同じものを見ていた咲犬(しょうけん)族の青年、考太朗(こうたろう)が応じた。
「え?! そうなんですか!」
「作事場で梯子も使わず足場昇り降りするって話聴いてないか?」
「あ、その話の方なんですか」
「あと。北んとこで乱闘みてぇな喧嘩が起きた時。足場の上から桶ひっくり返して、ひと睨みでその場治めたってよ」
「………美人に睨まれたら僕も確かに竦みますけど、そういうのじゃないんですよね、きっと」
「何がすげぇって、貴冬の野郎一緒にその話聞いてたんだが、全っ然普通だったんだよな」
「どういう意味ですか?」
「俺は自分の嫁が自分より強かったら落ち込む。奈落の底まで落ちて戻ってこれない。あと泣く」
「………………………」
「なんか言えよ!」
 八弌がそっと視線を外した頃。
 壁越しに聞こえた叫び声に耳を動かした氷冴尾の横で、同じく耳を動かしつつまた何か愉快な事をしているなと声の主の事を思い浮かべた貴冬は、櫛を使わず適当にまとめられたらしい髪を見下ろした。
 数日前。
 髪を切るための鋏を貸す際。
 惜しいという想いが強すぎて、面にはっきり出てしまった。
「何だよ?」
「いや、もったいないなと」
「…長い髪が好きなのか?」
「いや、長かろうが短かろうが、どちらにしろ氷冴尾の髪が好きだというだけなのだが、まあ、そうだな。長い方が…」
 触れても許される気がする、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。他にもっと適切な表現を探そうとして、見つけられず黙る事になった。
 氷冴尾はその沈黙は特に気にしなかった。自分の髪をひと房つまみ上げて、小首を傾げる。
「そうか」
 手の中で鋏を持ち替え、貴冬に柄を向ける。
「じゃあ、伸ばす」
 返された鋏を受け取ってから、氷冴尾は髪を伸ばしている。
 貴冬は、慣れない長髪を結うせいでひと房撓んだようになっているのを見て、自分のために伸ばされているのだと思うと、口元が緩んだ。にやけた顔を晒さないようにと手で覆う。
 その動きに気付いた氷冴尾が見上げる。
「どうした?」
「いや、髪が気になって」
「ああ」
 自分でも整っているとは思っていなかった氷冴尾は答えて結紐を引いた。
「気になるならお前が直せ」
 放り投げられた結紐を受け取って口にくわえると、貴冬は手早く氷冴尾の髪を結い直した。櫛は持ち歩いていないが手櫛でも十分に氷冴尾の髪はまとまる。
 髪を結い直すふたりの姿を、再び八弌と考太朗が目撃する。
「仲良しですねぇ」
「俺も結婚したら奥さんの髪結う」
「考さんくそ不器用じゃないですか。自分の髪もろくに結えないから短髪にしてるって自己申告、憶えてますよ僕」
「練習、すれば…」
「………………………」
「何か言えってだから!」
「考さんの練習台になってくれる素敵な奥様が見つかると良いですね」
「っぐ…何か言えとは言ったが…俺の心を抉れとは言ってない」
「考さんの心柔すぎじゃないですか」
「お前の言葉が鋭利過ぎるんだよ!」
 愉快なやり取りを繰り広げながら立ち止まっている貴冬達にすれ違いざまに挨拶をして、追い越していく。
「存外賑やかなんだな」
「まあもう帰る刻だからな」
 仕事刻の帳場は流石に無駄話はしていない、と話している内に髪が結い終わる。
 手の中の髪を名残惜しく撫でていると、するりと逃れていった。
「帰るぞ」
「ああ」
 歩みを再開させた氷冴尾の後を追っていく。
 随分と涼しくなった風が心地良く吹く中、道は喧騒と灯りで賑わってる。
 普段は通らない道を興味深そうに眺めていた氷冴尾だったが、見知った道に入ると貴冬へと視線を転じた。
「やっぱ冬になると作業が減るから、犬狼の里に行くなら雪が積もる晩冬だな」
「そうか。じゃあやはり母にこちらに来てもらう方が良さそうだな」
 婚姻を結ぶにあたって挨拶くらいしないといけないだろうから犬狼の里には一旦帰れ、と犬狼族の青年達の前で貴冬に言った手前。氷冴尾は犬狼の里に居る貴冬の母親に、本当に挨拶くらいはするつもりでいた。しかしながら、挨拶だけといっても、そこには往復の道程があり、仕事を抜けるには周囲との折衝が必要となる。
 そうした訳で、あれやこれやと準備を具体的に進めて行ったところ。
 氷冴尾と貴冬が犬狼の里へ行くのではなく、貴冬の母が丹野に来るという話が出てきたのだった。
「大丈夫なのか?」
「ああ。家は父が早くに亡くなっているせいで母にはあまり余裕がなかったが、生来内向きな方ではないんだ。むしろ、俺の婚儀を理由についでと称してあちこち周りたそうにしている」
「へぇ――なるほどな」
 意外に思えたが、深く考えてみれば、自分を追って里を飛び出す男の母である。氷冴尾は、青年達には可哀想な事になったがしかたがない、と頷いた。
「直ぐに文を出そう」
 儀式の手配りのような事務的な事をしていると、現実感が高まっていく。過日の選択の誤りを自覚している貴冬は、仕切り直しようもない三夜目の代わりに、何とか最短で婚儀に漕ぎ着けたいと考えていた。
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