花交わし

nionea

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16.駆ける道中

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 互いの誤解は、双方が歩み寄らなければ、解けるものではない。
 爪刃は、不意にこの酷く後悔を抱えているらしい男に、懺悔をしたくなった。虎猫の柵などない、氷冴尾の事を知る貴冬になら、打ち明けられるような気がしたのだ。
 馬を休ませる合間、爪刃はぽつりと口火を切る。
「あいつには、随分、酷な真似ばかりしてきたんだ」
「…あなたがですか?」
 それこそ何かの勘違いではないのか、といった視線に苦笑を浮かべつつ、爪刃は続ける。
「俺は、あいつが一人で平気そうにしているのを見ると、ついその手を引きたくなる」
 やはり気遣いの話が出てきて、貴冬は何が酷なのかと内心で首を傾げたが、大人しく続く言葉を待った。
「その手を、いつまでも握っていてやれないと解っているくせにだ。いつも、いつも、手を取って、引き込んで、気が付くと放している。そしてまた一人でいるのを見ていられなくて手を伸ばす…自分のやっている事が独善的な行為だと漸く気付いたのは、この婚姻の話が具体的になってからという体たらくだ」
 何を言おうと、どう考え行動しようと、頭の奥では解っていた。自分はいつか里を率いる族長になる。その際、氷冴尾にはこの里での居場所がなくなってしまうのだと。解っていたのに、一人で平気なのだとしっかりと立っている従弟につい構う。何度も、何度でも、そんな事を繰り返して、結局最後には当の従弟から出て行く事を切り出させた。しかも、始末に負えないのは、自分のやっている事が相手を傷付けているかもしれないなどとは、考えてもいなかった事だ。
「未だに、本当には解っていないんだ。あいつは虎猫の里を出て行きたくて遠くを見つめ続けていたのか…俺から逃れようと思っていたのか」
 優しい性格を笑う、控えめな笑顔が記憶に残っている。だが、そう笑う氷冴尾こそ、優しかったのではないだろうか。里のため、従兄弟のため、亡き族長である父のため、無言でのしかかるモノ達に耐え、最も望まれる形に応えようとした。
「何を望んでいたのか」
「………あなたに解らないのならば、私に解るはずもありませんが、ただ、一つだけ」
 爪刃は、馬が水を飲むのを見るともなしに見ていた視線を貴冬に向ける。
「あなたの話をする時は、いつも笑みを浮かべておりましたよ」
「…はっ」
 まるで笑ったようにも思える息を吐いて、だが、そんなつもりは毛頭ない爪刃は、表情もないその顔を両手で覆った。
「そうか…」
 言葉になったのは、ただそれだけだった。
「行こう」
 長くはない。ただ、馬達は十分に休めただろう刻を待って、泣いていた訳ではないがどんな顔をすれば良いのか解らず顔を覆った手を退け、爪刃は立ち上がった。
「はい」
 その言葉に従い、馬へ乗り、駆け出して、貴冬はぐっと奥歯を噛んだ。
 虎猫の風習を詳しくは知らない。ただ、歴代の族長が大柄である事、白い毛並みが好まれない事、氷冴尾が里で孤立していた事、それらは知っている。
(きっと…)
 一人で立っていられる事が、寂しさを感じない事とは違うのだとも理解できる。
(救われていたのだろう)
 爪刃が言うように残酷な面が有ったとしても、彼は決してこの従兄を恨むような事はなく、ただ純粋に慕っていただろう事も、推測に過ぎないが解る気がした。そうでなければ、彼のためにまるで自分を犠牲にするような事をどうして選ぶだろう。犬狼の誰をも責める事なく、ただ『好きにする』と書き残した。
 それは、氷冴尾が優しさを知る者だからだ。
(だが)
 貴冬は見えない背を探すように視線を遠くへやる。あの日の景色に溶け込んでしまいそうな背を、見失う事のないように、必死に目を凝らす。
(己の身はどうでもいいのか…)
 何故、いつも自己犠牲を払うのだろうか。それが、それだけが最良だとでも思ってるかのように。もしそれが虎猫の里で染み付いたのだとすれば、酷く腹が立つ。無関係な犬狼族が、口を挟む筋のない事ではあるが、どう宥めても腸が煮えるようだ。その一端を担っていると思えば、氷冴尾の意思も無視して目の前の爪刃にさえ怒鳴り散らしたい。
「っ………はぁ」
 衝動を無理矢理に押し込めて、小さく溜息を吐いて宥めた。
 今、貴冬の中に渦巻く怒りは、当たり散らし易い話をしてくれたから爪刃に向こうとしているが、そもそも犬狼の里、ひいては自身に向けられたものだ。
 氷冴尾が、どのような生い立ちで、決意で、虎猫の里を出たのだとしても。犬狼の里が、それこそ爪刃が春陽にしたように、心からの誠意を持って受け入れていたならば、結果は何もかも変わっていたはずだ。
(俺が…)
 最も側で、氷冴尾がどういう者なのかを見ていた自分が、海春をもっと真剣に説き伏せていたら、変わっていたのかもしれない、という考えが己を責め立てる。心の底から真剣に海春を説得しようとしていたなどと、胸を張る事ができない。
(阿呆が)
 初めて遠目に姿を見た瞬間に、その見慣れない美しさに胸が騒いだ。だが、当然そんなものは好奇だと諌めた。
 間近に見て、触れた折、指先が震えて頭がくらくらとした。ほとんど無意識の内に、不要な真似をしかけて、直前で気付きぞっとしたほどだ。絶対に自分の感情を表に出してはいけないと感じたし、実際に行動した。
 しかしながら、初めて言葉を交わし、笑う声を聞き、何でもない話をするようになればなるほど、決意は揺らいだ。
 海春への妬ましさが募っていくのを、どうしようもなかった。
 責めるような言い方をすれば意固地になると解っていたはずなのに、上手くできなかった。しかも、それが、わざとでないと言い切る事もできない。妬ましさと、疚しさと、確実に存在した恋慕の情を、ただ、誰にも悟られないようにとばかり気にしていた。
(俺が愚かなばかりに)
 あわよくば、氷冴尾を手に入れられるのではないか、と思っていた。どこかで、願っていた。泣いていたのを知っていたのに、己だけが、傷付いている事を知っていたというのに。
 木の上から遠くを見つめているのを、ただ見上げるだけだったくせに、何故そんな大それた願いを持ったのだろうか。
 貴冬の視界で、幻の後姿が揺らいだ。
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