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15.明くる朝
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待ち望まれた赤子の誕生に湧き立つ犬狼の里から、一人の虎猫が消えた事は、その翌日になってようやく騒がれ始めた。
前もっておおよその日取りは解っていた所に、待ち望んだ連絡を受けて、爪刃は逸る心に追いやられるまま犬狼の里へ赴いた。待ち受けているのは、我が子を抱いて優しく笑む嬬だろうと決め込んで屋敷を再訪したその目に飛び込んできたのは、暗い面持ちの面々だった。
「ほぅ…」
一瞬背をひやりとさせた想像は、表情は晴れないが特に体調が悪くはなさそうな春陽とその腕に抱かれている赤子を見て、消え去る。だが、そうなると、彼等の暗さの意味が解らなかった。
何かあったのかと問いかけるよりも、先に、犬狼の族長が頭を下げる。
「誠に申し訳ない」
と、言われても、爪刃は戸惑うばかりだ。
「謝罪よりもまず、何が起きたのかを詳しく教えていただきたい」
そう言った爪刃に渡されたのは、蝶の便りだった。見慣れたそれには、見慣れた文字が並んでいる。
『無事里も結ばれた。するべき事ももうないので好きにする』
宛名はない。だが、内容の簡素さから言って、爪刃が見る事を想定して書いた物ではあるのだろう。素っ気ない氷冴尾の手紙を読んで、なお内心は疑問が噴出する。手紙を見る限り、どう考えても、氷冴尾が迷惑をかけている状況だ。こちらから謝るならともかく、犬狼側から謝られるいわれが見受けられない。
「氷冴尾は…」
「この手紙を残して、里を出て行ってしまったのです」
春陽の言葉に、やはり爪刃が謝るところなのではないかと思うが、そうではないのだと察して、続く言葉を待つ。そして、ようやく氷冴尾と海春の仲が全く上手くいっていなかった事を知った。
「何故…」
小さく呟きはしたが、爪刃は海春を責めはしなかった。ただ、氷冴尾がどれほどこの場所で孤独だったかかに気が付きもしなかった己を責めた。
「犬狼の族長殿に、願いたい事が二つあります」
「なんなりと申してくれ」
族長は、何を言われても受け入れる覚悟だった。
「氷冴尾の離縁を」
「ああ」
当然だろう、と族長は頷いた。
「それと、春陽と子をこちらに滞在させてください」
「それは…」
離縁という言葉が直前にて出ていた事で、一瞬族長は躊躇った。
「戻るまでの間だけ頼みます」
「…解った」
だが、爪刃の続いた言葉に、了承した。
「春陽」
「はい」
爪刃は春陽の方を向いて、真っ直ぐにその顔を見つめる。
「すまないが、しばらくここに留まっていてくれ」
「はい」
春陽は小さく頷いた。爪刃がどういう思いでそう言ったのか、解っていた。
「あいつを探してやれるのは、俺しか居ないんだ…もう虎猫の里にさえ」
呻く様に吐き出す爪刃の言葉に、春陽はそっと肩に手を置く。
「かならず、氷冴尾さんを見つけてください。待っていますから」
「ああ」
初めて見る我が子の眠っている頬を指先で撫でて、爪刃は座敷を出た。何か言いかけるように海春の視線が自分を見たのは解ったが、立ち止まって聞こうという心のゆとりはなかった。
会話をしている様子がないのは見ていたが、元々素っ気ない態度が氷冴尾には多い。その場に居る数が多いほど、口数も減る。二人きりならば少しくらい話をしているものと思い込んでいた。
(思い返せば手紙で何一つ触れていないのはおかしかったな…)
食べ物が美味いとか、好きな刻に寝起きして楽に過ごしているとか、さも自由気ままに過ごしているような内容だったが、夫となった海春の事を一切書いてこない手紙はおかしかったのだ。気恥ずかしさから書いていないと思っていたが、もっと、深く追求すれば良かった。
(今更だ)
里へ赴く際に無理をさせた馬を、預け、代わりに犬狼の里の馬を借りた爪刃が仕度をしていると、貴冬が声をかけた。
「共に行かせてください」
「忝ない」
氷冴尾が知っていたかどうかは解らない。だが、少なくとも一人、この里に氷冴尾を想う者がいてくれたのだと、爪刃は僅かだが心が軽くなった。
「昨日の内に近隣へ人をやって確認したところ、西へ、向かったようです。徒歩ですから、かならず追いつけるはずです」
貴冬の言葉に頷き、爪刃は目立つ白い頭を隠しもせず里を出て行った氷冴尾の事が容易に想像できて、眉を顰めた。
「逃げているようなつもりではないんだな…本当に好きにしていると当人は思っているのか」
約二日、一日中歩き通しではないだろうが、それだけの距離が開いている。噂を拾いつつ追うならば、馬を走らせてもさほど速度を出す訳にはいかない。
「出ましょう」
「ああ」
ひとまず並足で馬を走らせる事にして、二人は出発した。
「貴冬殿」
「はい」
「氷冴尾の事を訊いても良いか? 里では、貴方が最もあいつを気にかけてくれていたようだ」
「…お話できるような事は何も。ただ、日々の細々とした用を助けていただけですから」
「ああ、あいつはあまり手がかからないだろう? 俺は春陽が里に来た直後は正直どうしたものかと困った」
虎猫の里と犬狼の里では、種族の違い以外にも、生活様式に経済発展の具合と何から何まで異なる。虎猫の里では、族長の一族だからという理由で誰かが仕えてくれるものではない。つまり、身の回りの炊事洗濯、針仕事の細かなものから薪割りなどの肉体労働まで、助け合う事はあっても、誰かに任せきりにする事はないのだ。
春陽がやって来た日。せかせかと動き回る義理の父母を前に、どうしていいか解らず立ち尽くしていたのが懐かしく思えて、爪刃は微笑む。
一方その話を聞いて、貴冬は少し納得した。身の回りを世話する者はいらないという氷冴尾の言葉は、決して犬狼の者を近付けたくないなどという意味ではなかったのだ。
「…きっと、我々がもっと知ろうとしなかったのが悪かったのです」
勝手な決めつけによる食い違い、誤解は、いったいどれほど有ったのだろう。
「それを、話し合おうと、あいつもしなかったのだから、互いに負うところがある」
悔いる貴冬に、爪刃は苦く笑いかけた。
前もっておおよその日取りは解っていた所に、待ち望んだ連絡を受けて、爪刃は逸る心に追いやられるまま犬狼の里へ赴いた。待ち受けているのは、我が子を抱いて優しく笑む嬬だろうと決め込んで屋敷を再訪したその目に飛び込んできたのは、暗い面持ちの面々だった。
「ほぅ…」
一瞬背をひやりとさせた想像は、表情は晴れないが特に体調が悪くはなさそうな春陽とその腕に抱かれている赤子を見て、消え去る。だが、そうなると、彼等の暗さの意味が解らなかった。
何かあったのかと問いかけるよりも、先に、犬狼の族長が頭を下げる。
「誠に申し訳ない」
と、言われても、爪刃は戸惑うばかりだ。
「謝罪よりもまず、何が起きたのかを詳しく教えていただきたい」
そう言った爪刃に渡されたのは、蝶の便りだった。見慣れたそれには、見慣れた文字が並んでいる。
『無事里も結ばれた。するべき事ももうないので好きにする』
宛名はない。だが、内容の簡素さから言って、爪刃が見る事を想定して書いた物ではあるのだろう。素っ気ない氷冴尾の手紙を読んで、なお内心は疑問が噴出する。手紙を見る限り、どう考えても、氷冴尾が迷惑をかけている状況だ。こちらから謝るならともかく、犬狼側から謝られるいわれが見受けられない。
「氷冴尾は…」
「この手紙を残して、里を出て行ってしまったのです」
春陽の言葉に、やはり爪刃が謝るところなのではないかと思うが、そうではないのだと察して、続く言葉を待つ。そして、ようやく氷冴尾と海春の仲が全く上手くいっていなかった事を知った。
「何故…」
小さく呟きはしたが、爪刃は海春を責めはしなかった。ただ、氷冴尾がどれほどこの場所で孤独だったかかに気が付きもしなかった己を責めた。
「犬狼の族長殿に、願いたい事が二つあります」
「なんなりと申してくれ」
族長は、何を言われても受け入れる覚悟だった。
「氷冴尾の離縁を」
「ああ」
当然だろう、と族長は頷いた。
「それと、春陽と子をこちらに滞在させてください」
「それは…」
離縁という言葉が直前にて出ていた事で、一瞬族長は躊躇った。
「戻るまでの間だけ頼みます」
「…解った」
だが、爪刃の続いた言葉に、了承した。
「春陽」
「はい」
爪刃は春陽の方を向いて、真っ直ぐにその顔を見つめる。
「すまないが、しばらくここに留まっていてくれ」
「はい」
春陽は小さく頷いた。爪刃がどういう思いでそう言ったのか、解っていた。
「あいつを探してやれるのは、俺しか居ないんだ…もう虎猫の里にさえ」
呻く様に吐き出す爪刃の言葉に、春陽はそっと肩に手を置く。
「かならず、氷冴尾さんを見つけてください。待っていますから」
「ああ」
初めて見る我が子の眠っている頬を指先で撫でて、爪刃は座敷を出た。何か言いかけるように海春の視線が自分を見たのは解ったが、立ち止まって聞こうという心のゆとりはなかった。
会話をしている様子がないのは見ていたが、元々素っ気ない態度が氷冴尾には多い。その場に居る数が多いほど、口数も減る。二人きりならば少しくらい話をしているものと思い込んでいた。
(思い返せば手紙で何一つ触れていないのはおかしかったな…)
食べ物が美味いとか、好きな刻に寝起きして楽に過ごしているとか、さも自由気ままに過ごしているような内容だったが、夫となった海春の事を一切書いてこない手紙はおかしかったのだ。気恥ずかしさから書いていないと思っていたが、もっと、深く追求すれば良かった。
(今更だ)
里へ赴く際に無理をさせた馬を、預け、代わりに犬狼の里の馬を借りた爪刃が仕度をしていると、貴冬が声をかけた。
「共に行かせてください」
「忝ない」
氷冴尾が知っていたかどうかは解らない。だが、少なくとも一人、この里に氷冴尾を想う者がいてくれたのだと、爪刃は僅かだが心が軽くなった。
「昨日の内に近隣へ人をやって確認したところ、西へ、向かったようです。徒歩ですから、かならず追いつけるはずです」
貴冬の言葉に頷き、爪刃は目立つ白い頭を隠しもせず里を出て行った氷冴尾の事が容易に想像できて、眉を顰めた。
「逃げているようなつもりではないんだな…本当に好きにしていると当人は思っているのか」
約二日、一日中歩き通しではないだろうが、それだけの距離が開いている。噂を拾いつつ追うならば、馬を走らせてもさほど速度を出す訳にはいかない。
「出ましょう」
「ああ」
ひとまず並足で馬を走らせる事にして、二人は出発した。
「貴冬殿」
「はい」
「氷冴尾の事を訊いても良いか? 里では、貴方が最もあいつを気にかけてくれていたようだ」
「…お話できるような事は何も。ただ、日々の細々とした用を助けていただけですから」
「ああ、あいつはあまり手がかからないだろう? 俺は春陽が里に来た直後は正直どうしたものかと困った」
虎猫の里と犬狼の里では、種族の違い以外にも、生活様式に経済発展の具合と何から何まで異なる。虎猫の里では、族長の一族だからという理由で誰かが仕えてくれるものではない。つまり、身の回りの炊事洗濯、針仕事の細かなものから薪割りなどの肉体労働まで、助け合う事はあっても、誰かに任せきりにする事はないのだ。
春陽がやって来た日。せかせかと動き回る義理の父母を前に、どうしていいか解らず立ち尽くしていたのが懐かしく思えて、爪刃は微笑む。
一方その話を聞いて、貴冬は少し納得した。身の回りを世話する者はいらないという氷冴尾の言葉は、決して犬狼の者を近付けたくないなどという意味ではなかったのだ。
「…きっと、我々がもっと知ろうとしなかったのが悪かったのです」
勝手な決めつけによる食い違い、誤解は、いったいどれほど有ったのだろう。
「それを、話し合おうと、あいつもしなかったのだから、互いに負うところがある」
悔いる貴冬に、爪刃は苦く笑いかけた。
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