花交わし

nionea

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「海春様!」
 夜分に、声かけもなく勢いよく襖を開けて飛び込んできた小富士を、海春はぎょっと目を見開いて迎えた。灯明の中で必死の形相の作る媼に驚いたのではない。ここにいるはずのない者がいる事に驚いたのだ。
「…小富士、何故ここに」
 虎猫族との戦で祖父と父を喪っている小富士の母は、己の娘に虎猫族を敵と教えて育てた。それは仕方のないことだった。事実小富士が産まれるまでは確かに争っていたのだ。しかしながら今は争いの時を終え、共に手を携えて行こうとしている最中である。小富士自身に非のある事ではないにせよ、せっかく仲よくやっていこうとしている相手を敵愾心の隠った目で睨みつけるなどという事があっては、双方気分の良いものでもない。
 そのため、虎猫族である爪刃達の滞在中は、別邸での働きを任せられており、此処にいるはずではなかった。
「お気をつけくださいまし! やはりあの者は卑怯な虎猫でございます!」
 海春を見つけるなり詰め寄り、その腕を痛いほどの力で掴んで小富士は言った。
 とっさにその口を手のひらで塞ぎ、海春は眉を寄せる。
「止せ小富士。今は大切な時なのだ」
「解っております」
 騒ぎを起こすなという海春よりもさらに深く眉間に皺を刻みながらも、小富士は声を落とした。自身の口を塞いでいる海春の手をとり、ぐっと力を込め、ぎらぎらとした目で見つめる。
「春陽様のご献身を無にせぬためにもこの小富士が目を光らせておかねばならぬのです」
「何の話だ…」
「春陽様はご立派です。虎猫共の里でどれほど心細くお過ごしだった事か、それでもお勤めを果たされこうして我らが里へとお戻りになりました。そのご献身にお応えするためにも、あの虎猫を見過ごしてはならぬのです」
 海春は小富士の勢いに身を僅かに引きながらも、ああそうか、と納得した。春陽の帰省に伴い里は浮き足立っていた。それは海春自身も含めてだ。この虎猫に関しては猜疑心の塊となる心配性の媼は、おそらく別邸に赴かずずっと離れを監視していたのだろう。
 そんな事をする必要はないのだと説いても、何ら意味はない。それが解るだけに、海春は、来訪者達に遭遇していないのならばまあいいか、と溜息を吐いてから小富士に向かって首を横に振ってみせた。
「問題は無い放っておけ」
「なりません!」
 海春は小富士の手を振りほどいて、眉間を抑えた。
 久しぶりに会った弟は相変わらず朗らかに笑っていて、安堵すると同時に苦いものが込み上げた。名残惜しむように虎猫の族長と共にいる事を選んだ事に、裏切られたような感覚を抱く自分を持て余していた。そんな、一日気疲ればかりの日だったのだ。
 ただでさえ虎猫からの嫁を迎え以降、小富士の扱いに困っていた。
 今日に限ってはもう正直相手をしていられない気持ちなのだ。
「小富士…」
 いい加減にしてくれ、という呟きに小富士は顔色を変えた。
 自分の里を思う真剣さが何故伝わらないのか、と考えているのだ。
「虎猫の族長へ文を」
「いつもの事だろう」
 氷冴尾の行動を報告しようとする小富士の言葉を遮るようにして海春はこの状況を切り上げようとするが、その態度が余計に媼のかたくなさを加速させる。
「あの虎猫は貴冬殿に取り入っておるのです」
「小富士…貴冬兄は世話役としての勤めがあるのだ」
 もう聞いていられなかった。海春は小富士の肩を掴み立たせ、廊下へとその身を押し出す。何故お解りいただけないのかと泣き出す媼に申し訳なさは込み上げたが、今日はもう話を聞きたくなかった。
 襖を閉めると、どっと疲れが体に重くのしかかってきた。
 小富士が来るまで、海春は書物をしていたのだが、今日やらねばならない訳ではないその作業を再開させる気にはなれなかった。文机の横の灯を消し、早々に布団へ入る。疲れが全身を重く動けなくさせているのに、何故か眠気は遠い。
「はぁ」
 眠りたくてたまらないのにいっこうに眠気が来ない、それどころか考えたくもないのに先程の小富士の言葉が蘇ってくる。
 小富士に言わせると、狡猾な虎猫の族長は、春陽をむりやり手篭めにしたのだという。
 有り得ないと、春陽を見ていれば解る。心の底から信頼しているのだと、その態度を見ていれば誰にでも解るだろう。まして幼い頃から面倒を見ていたはずの小富士にそれが解らないはずはない。それなのに虎猫を悪い方へ悪い方へと解釈している。
 つまりは全て、虎猫を認めたくない小富士の妄言なのだ。目の前にどのような事実があろうと、小富士の目には関わりが無く、ただただ全て虎猫が悪なのだ。
「たわごとだ」
 暗い室内で何かが浮かび上がるようで、海春は自身の腕で目を覆った。
 夜半に離れの前で提灯を手に立つ貴冬が居たからなんだろいうのだろうか。当たり前の事だ。貴冬は犬狼の里を代表して氷冴尾の世話をする役目を担っているのだ。文を託されるのも、親しげに言葉を交わすのも、当然の事ではないか。
 氷冴尾が何を思うのか、そんな事を海春は知るよしもない。
 だが、貴冬の事ならば解る。
 あの生真面目な、本当の兄とも思って慕っている青年が、里の和を乱すはずもない。
「小富士は何故…」
 ああなのだろう、と呟きかけて止めた。もはや父母も失く、夫も子も持たなかった忠義心の強い媼を、悪く言う事はできなかった。
 頑迷さは生来の質と歳を経た故だろう。
「…たわごとだ」
 その表情以外思い出せない、雪のような白い髪に縁どられた冷めた横顔が、押さえつけた瞼の裏を過ぎった。
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