花交わし

nionea

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11.夜灯

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 貴冬は、軽々に文を預かった事を後悔していた。
 届ける手配をするならすぐだが、本人に渡すとなると、中々機会が訪れない。
 まず屋敷に戻ってすぐに渡そうとしたが、族長同士が話し合っていると言われればどうしようもなく。先に昼餉をとって、機会を伺おうとしたところ、結局夕餉すら族長二人でとる事になり、爪刃に話しかける機会はすっかり夜になるまで訪れなかった。
「お疲れ様です」
 貴冬が春陽に言付けた方が速かったかもしれないな、と思いつつ廊下を進むと、その春陽の声が聞こえた。爪刃と一緒にいるのだ。夫婦水入らずを邪魔するのも悪いと思い、さっと文を渡して立ち去ろうと考えたが、聞こえてきた名前に思わず動きを止めてしまう。
「氷冴尾の事なんだが」
「はい」
「俺が帰った後。気が向いたらで良いから、時折離れから連れ出して一緒に飯でも食ってやってくれないか」
「私で良ければ勿論。ただ、氷冴尾さんはあんまり賑やかなのはお好きでないみたいだと聞いたのですが」
「うん。確かに得意じゃないだろうな。ただ、あいつは一人が好きな訳じゃなくて、一人しか知らないんだ」
「それは、どういう…」
「幼い頃に両親を相次いで亡くしているから」
 虎猫の里では住居は斜面に立っているため、広く造る事はできない。元々の少数でしかまとまらないという質も手伝って、一つの家には夫婦あるいは親子の一組、という小さな単位で暮らすのが普通の事だった。そのため、従兄である爪刃がどれだけ構っていたとしても、それは外での事なのだ。氷冴尾はいつだって、一人の家に帰っていった。
「いつも、里で一番高い木に登って、外を見ていた。多分ずっと、出ていきたいと考えていたんじゃないかと思う。俺達の里には族長に対する暗黙の期待のようなものがあって、それはあいつには無いものだった。ただ、それだけなら、良かったんだろうが。長子継承が普通だから。里ではあいつを邪険にしていた」
「え…?」
 犬狼の自分でさえ温かく受け入れてくれた里の面々が、そんな風にするのだろうかと不思議に思う。
「露骨に、何か有ったというわけじゃないんだ。それだったら、俺はもっと早くにあいつを連れて里を出てたさ」
 ただ、誰も期待していない。氷冴尾が族長の息子でなかったならば、と望んでいる。そうした空気が常に里に満ちていた。誰かが口に出すわけではない、態度で示す訳でもない、ただ、ずっと、いらない、という空気が漂っている。
 爪刃がその空気に気付いたのは、氷冴尾がよく木に登るようになってしばらくしてからだった。きっと、その空気を向けられいた氷冴尾はもっと早く解っていたのだろう。爪刃がどう言えば良いのか解らず憤っていると、別に気にしていないという態度でむしろ何を怒っているんだというように平然としていた。
 本当に気にしていないのか、気にしていないように振舞っているのか、爪刃にはどうしても見抜けなかった。だから、最後には平気だと言う氷冴尾を信じる事にした。里での生活も、この婚姻も。
「俺を族長にするために、無理をしているんじゃないか、とか…そう思って訊いたりもしたんだけどな」
「氷冴尾さんは何と?」
「いつも通りの何て事ない口ぶりで『族長になったら良いとは思ってるけど、別に無理をしようとかは思ってない』とさ」
「優しい方ですね」
「解り難いがな」
「仲良くしていただけるでしょうかでしょうか」
「仲良くなれるさ、春陽なら」
 貴冬は静かに一歩足を下げ、わざと歩調を崩したように足音を立てて一歩踏み出した。今通りかかったような顔で角を曲がり、廊下に面した障子を開けて湯上りに涼んでいた二人の前で立ち止まる。
「夜分に失礼いたします」
「いや、大丈夫だ」
「どうしたんですか、貴冬兄さん」
「本当は、昼頃に言付かったのですが、こちらを」
「ああ、もしかして氷冴尾の」
 差し出された紙の様子に、爪刃は既視感を覚えて言った。案の定、中には見慣れた筆跡の文字で、余りにも簡素な言葉が並んでいた。
「わざわざ面倒をかけたようだ」
「いえ。では、これで」
 会釈をして来た廊下を戻る。自分の部屋へ向かうつもりだったが、貴冬は気付くと離れの前に立っていた。
 爪刃の語る氷冴尾の話で、気になったのは、彼が里で不遇な立場にあった事ではない。白い毛色が虎猫の里でどのような意味を持つのかを聞いた時。折に触れ、里での話を聞いた時。犬狼の里に来てから、何一つ不平不満を口にしない彼を見ていて、察していた。
 それでも氷冴尾に影のようなものはなかった。彼が話す里の話は、暗さとは無縁だった。だから、本当に気にしていないのだと、芯の強さがあるのだと、貴冬は受け取っていた。
 だから、爪刃の『一人しか知らない』という言葉が、あまりにも衝撃だった。
(だからって、俺がここに来てどうする)
 海春をもっと真剣に氷冴尾と向き合わせるべきだ。春陽が戻っている今ならば、難しくはないだろう。貴冬は、そう考えながらも、離れの前から動けなかった。ここに立っていたところで、自分に出来る事がないのは解っていたのに。
 足元を照らす灯りが揺れるのを見下ろして、溜息が漏れる。
「何?」
 するはずのない声に驚いて、顔を上げれば、怪訝そうな顔で戸を開けた氷冴尾が立っている。
「何かあったのか?」
「あ、いや…」
 氷冴尾が灯りに気付いたのは偶々だった。廊下から玄関側を見ると、灯りがあり、誰かいるのだとはすぐに解ったが、その誰かは離れに入ってくるでも、去っていくでもない。不思議に思って、近付いて、戸を開ければ、何やら考え込んでいる貴冬が立っていた、という訳だ。
「虎猫の族長殿に文を渡した事を、伝えようか、伝えまいか、と」
「それ伝えるために、そこにずっと突っ立てたって?」
「伝えようとここまで来たが、もう寝ているかと思って」
「だったら明日言えば良いだろ」
 こんなとこで悩むような事か、と氷冴尾は笑った。
「そうだな」
 その声に頬を掻きながら、貴冬は、自分の取るべき態度を決めかねた。その心を現すように立ち尽くす灯りの揺らぎを、暗い母屋の影から見つめる目には気づかずに。
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