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 ――身体が重い。
 歩こうとしても足が思うように動かなくて、ズルリ、ズルリと引きずる音が聞こえる。

 許さない……許さない……

 胸には激しい怒りが渦巻いていた。抑えられないほどの暗い炎が、爆発する時を今か今かと待っているのだ。
 周りの薄暗い空気がまとわりついてきて、ますます身体が重くなっていく。

 一体ここはどこなのだろう。
 どこかへ向かっていたような気がするけれど、頭がボンヤリして思い出せない。

 しばらくすると暗く濁ったもやが薄くなって、見たことのある建物が見えてきた。
 これは……夫のマンションだ。



 玄関ドアの向こうには今日見たスーツのままの夫がいた。

 その顔は叫び出しそうに歪んでいる。私と目が合った途端、夫は後退あとずさろうとして足を滑らせ、勢いよく尻餅をついた。
 ジワリと床に液体がにじみ出てくる。失禁したらしい。

「お、俺は、やってない! お前を殴ったのは親父だ、俺は悪くないんだ!」

 こんなに情けない夫の声を私は聞いたことがなかった。

 許さない……許さない……

 私の手がぐにゃりと伸びて夫の胸へもぐり込み、ギュッと心臓を握り潰していく。
 スポンジをつかんだような変な感触。夢だからいいかげんなのだろうか。

「……たすけ、……」

 夫の命乞いは叶わなかった。
 目と口を大きく見開いて、顔を土気色に変えて。

 あっという間に夫は死んだ。


「キャー!」

 顔を上げるとガウンを着た女が夫の近くまで寄って来ていた。
 あの写真の女だ。

 胸の怒りが一層激しく燃え上がる。周りの温度まで上がりそうだった。

 許さない……許さない……

「し、知らないわよッ!」

 女は髪を振り乱して首を横に振る。

「りゅっ、流産したのはあんたの勝手でしょ⁉ 当てつけみたいに首くくったのだって!」

 えっ、流産……?
 私は流産どころか子供ができたことすらないのに……。

 いきなりわけのわからないことを叫ばれて、少し混乱していたのかもしれない。

「ワタシは……、アナタを許さない……」

 その時口から出てきた声は――私の声ではないように聞こえた。


 ◇〇△


 目が覚めると、空が明るくなり始めていた。

 ピロロロロッ、ピロロロロッ。

 変な夢だった……と思い返す暇もなく、固定電話の呼び出し音が鳴り響く。
 胸がざわついた。今日中にこの村を出て行くつもりなので、面倒ごとに巻き込まれたくなかった。

 液晶の表示部分には固定電話の番号が表示されている。
 もし用件が姑のことだったら問答無用で叩き切ろう、と心に決めて受話器を取った。

「……はい」
「ご家族の方ですか?」

 夫の住所を管轄する警察からだった。


 今日の深夜二時頃、夫は帰宅直後に玄関で倒れているところを知人女性によって発見され――心不全での死亡が確認されたという。

 夫が死ぬ夢を見た後だけに奇妙な後味の悪さを感じたが、『知人女性・・・・』という言葉によって頭が急速に冷えていった。
 深夜二時に同じマンションにいるなんて……やはり夫はあの女と一緒に住んでいたのだ。

 予想はしていた。夫は私に田舎の実家の家政婦をさせておいて、写真の女性とよろしくやっているのだろうと。
 しかし現実にそれを突き付けられることが、こうも腹立たしいものだとは思っていなかった。



 舅、姑、そして今回の夫。
 私の周りで立て続けに人が死んでいった。
 警察に一番疑われているのは私なのかもしれない。でも……私に動機がないとはとても言えないけれど、どう考えても無理があると思う。

 私が死亡時刻にいた場所と死亡現場は離れている。私は免許証を持っていないから、他人の車に乗せてもらうかタクシーを使わなければ村から出ることができないのだ。
 たとえ車を使わずに村を出られたとしても、深夜二時に夫のマンションを出て今の時間までにこの村へ戻ってくることは絶対に不可能。
 ちゃんと調べてもらえば、彼らが死んだのは私のせいではないとわかるはずだ。


 ◇〇△


 昨日と同じようにタクシーで隣町まで行き、バスと電車を乗り継いで大きな駅へ移動、そして新幹線に乗る。

 こうして私はようやく住んでいた街まで帰ってくることができた。乗り換えの待ち時間はそんなに長くなかったにもかかわらず、半日はかかっている。
 新幹線が駅に着いた時はもう夜だった。

 駅から出た私は呆然とした。

 久しぶりの地元は車も人も多くて、何とも言えず騒々そうぞうしかった。制服を着た学生やサラリーマン、カジュアルな服装の女性が広い歩道にひしめき合っている。

 ここがこんなに都会だとは思っていなかった。たった一か月余り離れていただけで、こんな感覚になってしまうのか――
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