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恋しい人が愛した香り
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「……先生が居なくなってしまってからも、俺に優しく笑い掛けてくれる先生の夢をよく見てたんだ。目を開けて夢だと気が付いて、虚無感におそわれて。
そういうのが毎日のようにあったんだけど、去年の夏頃だったか 窓を開けたら隣の部屋の方から香ばしい匂いがして。それを吸い込んだら、このコーヒーみたいにホワホワしてきて……。
『俺はまだ生きてるんだ、生きても良いんだ』って思えるようになって……。
最初に嗅いだ香りとはちょっと違う時もあったけど、決まった曜日の20時半頃に窓を開けたらいつもいつも良い匂いで……ホワホワして幸せに包まれてた。
それでいつの間にか、その匂いをたてる隣人が気になってきたんだ」
「…………それって、私がこの部屋で週3回やっている……!!」
ようやく答えに辿り着いた。
ハッとした私の表情にりょーくんも気付いてコクンと頷く。
「そう、あーちゃんが焙煎した珈琲豆の香り。まぁ、部屋で焙煎してたのを知るのはそれから半年以上先の話だけれど」
「わたしの……」
りょーくんが1番に求めていたのは、キッチンで焙烙を振りながら焙煎している珈琲豆の香りだった。
焙煎中は水蒸気や煙が出るので、換気扇を大きく回しながら火にかけるんだけど、出来上がってからも良い香りが出るまで保存容器の蓋を開けて置いておくので、その際も窓を開けているんだ。
そんな私の隣室で、りょーくんは焙煎後に立ち昇る珈琲豆の香りを嗅いでいたんだ。
「先生がさ、『雨上がりの空の下、たっぷり空気を吸うと心が落ち着く』って俺に話してくれた時があったんだ。俺はそれを聞いた当初は、『雨上がりの空気が先生の心と体を癒しているんだろう』って思ってた。
でも先生の心は弱かったから、『雨の日は彼氏と会えなくて、雨が上がったらまた会えるから』って理由をつけて俺に話すようになった」
「…………えっ?」
私はりょーくんの言葉に愕然とした。
皐月さんが雨上がりの空や空気を好きだったのは確かだし、私にも夕紀さんにも「雨上がりは癒し」だと笑いながら言っていた。
だから、その笑顔の裏にはその「もう一つの理由」も含まれていたと知ると余計に悲しい。
それと以前私がりょーくんに「雨上がりの女神」の話をした時に「長い雨の中暗いトンネルの中に居たい気持ちがある。トンネルは守られてるから」と言った気持ちが少し理解出来た。
「心も体もボロボロだったから雨上がりの意味合いが変わってしまったのかなって、今なら思えるよ。だけど当時は悲しかった……先生が大好きな俺にとって雨上がりは敵だったんだ」
「雨上がりは……敵……」
「最初にあーちゃんの部屋からの香りを嗅いだのが梅雨明けくらいの時期でまさに敵でしかない雨上がりだった。でも、そんな空気の中で吸い込む、隣室から香るものは最高に心地良かったんだよ」
「…………」
「あまりにも幸せな香りだったから『長かった雨の日々を取り戻す太陽の光みたいに、その香りが俺を変えてくれるんじゃないか』って、勝手にその香りを醸す人に想いを寄せてたんだ」
「香りで人を好きになるって、りょーくんって不思議……」
ましてそれが顔を知る前の私だなんて恥ずかしい。
「そりゃサラリーマンかもしれないし、一人暮らしのおばあさんかもしれない。色んな可能性を想像してたよ。
でもいつかこの隣人と話をする機会が一度でもあれば良いなって、ただそれだけを考えていた」
「あ……」
恥ずかしいけど、すぐに嬉しくなった。
私が大学でりょーくんに片想いしてた時の感情と、それはよく似ていたから。
「隣人が同じくらいの歳の女性だと知ったのは、今年の4月の話ね」
「うん」
「その時はまだ姿を見てなかったけど、会話の感じで先生っぽい雰囲気の女性なのかなって思った。とはいえ、あーちゃんは先生と違って嫌な事は嫌って彼氏に言える芯の強い人って印象もあったな」
「芯が強くってほどでもないよ? 私」
「そうだとしたら先生は………本当の本当に心が弱い人だったのかもしれないね」
「…………」
「そして俺もやっぱり、心が弱い」
「……」
「俺、あの時さ……『隣人の女性に負けないくらい芯の強い人間になりたい』って前向きな気持ちを持ったんだ。
いつか一緒に話をする日が来た時、少しでもかっこいい自分を見せたかったから」
「りょーくんは充分にかっこいいよ。皐月さんもりょーくんの存在に助けられていただろうし」
「でも……」
「少なくとも、私の目から見たりょーくんはいつだってかっこいいよ。痴漢から私を守ってくれた時もそうだし、今のりょーくんもそう」
私は彼に自分が抱いている想いを伝え、キスをした。
「あーちゃん……」
私が唇をゆっくり離し、彼の顔を見上げると、両目いっぱいに涙を浮かべていた。
「りょーくん」
感極まっているんだ。と私は察した。
私がこうなっている彼に1番してあげなきゃいけないのは、微笑んだりハグしたり……彼を優しく包み込む行為でなきゃいけないのに。
泣いちゃいけないのに、私の視界は涙で滲んでいる。
「あーちゃんの部屋に居たら落ち着くんだ。いつも珈琲の良い香りがするし、あーちゃんの笑顔や恥ずかしがる顔に癒されるから。あーちゃんが忙しくてなかなか帰れなかった時は……そりゃあーちゃんが早く帰ってきてくれる方が嬉しいけどそういうわけにはいかなかったから、この部屋でジッとしてた。
あーちゃんの部屋は、俺にとっては安らげる場所みたい」
彼は両目を細め、一筋も二筋も頬に涙の道筋を作りながらそう言って私に笑いかけた。
その、痛々しくもある表情に胸が締め付けられ、私は彼と同じように泣いてしまう。
「ずっと……ずっと私の部屋に居てもいいんだよ。夏休みが終わったって合鍵返さなくていいっ!今のりょーくんがこの部屋から離れて苦しくなるくらいなら、ずっとずっと私と一緒に住めばいいじゃない……」
「あーちゃん……」
「ずっとずっと一緒に住もうよ。一緒に居ようよりょーくんっ!」
私の顔は、りょーくんよりも涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「あーちゃんに迷惑かけるから」
「迷惑なんてかけてない!!」
それどころか一際大きい声でりょーくんを驚かせる。
「でも……俺は、あーちゃんにとっては忌み嫌われる存在だよ?
俺はあーちゃんのお師匠さんの大事な家族を殺したんだ。あーちゃんの言ってた『雨上がりの女神』ってのも、先生の事なんだよね? あーちゃんの女神を俺は殺したんだよ?」
「それは違うっ!! 私だって知ってるもの! りょーくんが皐月さんを階段から突き落としたんじゃないって。私だって関係者だから、知らないわけないんだもんっ!!」
そういうのが毎日のようにあったんだけど、去年の夏頃だったか 窓を開けたら隣の部屋の方から香ばしい匂いがして。それを吸い込んだら、このコーヒーみたいにホワホワしてきて……。
『俺はまだ生きてるんだ、生きても良いんだ』って思えるようになって……。
最初に嗅いだ香りとはちょっと違う時もあったけど、決まった曜日の20時半頃に窓を開けたらいつもいつも良い匂いで……ホワホワして幸せに包まれてた。
それでいつの間にか、その匂いをたてる隣人が気になってきたんだ」
「…………それって、私がこの部屋で週3回やっている……!!」
ようやく答えに辿り着いた。
ハッとした私の表情にりょーくんも気付いてコクンと頷く。
「そう、あーちゃんが焙煎した珈琲豆の香り。まぁ、部屋で焙煎してたのを知るのはそれから半年以上先の話だけれど」
「わたしの……」
りょーくんが1番に求めていたのは、キッチンで焙烙を振りながら焙煎している珈琲豆の香りだった。
焙煎中は水蒸気や煙が出るので、換気扇を大きく回しながら火にかけるんだけど、出来上がってからも良い香りが出るまで保存容器の蓋を開けて置いておくので、その際も窓を開けているんだ。
そんな私の隣室で、りょーくんは焙煎後に立ち昇る珈琲豆の香りを嗅いでいたんだ。
「先生がさ、『雨上がりの空の下、たっぷり空気を吸うと心が落ち着く』って俺に話してくれた時があったんだ。俺はそれを聞いた当初は、『雨上がりの空気が先生の心と体を癒しているんだろう』って思ってた。
でも先生の心は弱かったから、『雨の日は彼氏と会えなくて、雨が上がったらまた会えるから』って理由をつけて俺に話すようになった」
「…………えっ?」
私はりょーくんの言葉に愕然とした。
皐月さんが雨上がりの空や空気を好きだったのは確かだし、私にも夕紀さんにも「雨上がりは癒し」だと笑いながら言っていた。
だから、その笑顔の裏にはその「もう一つの理由」も含まれていたと知ると余計に悲しい。
それと以前私がりょーくんに「雨上がりの女神」の話をした時に「長い雨の中暗いトンネルの中に居たい気持ちがある。トンネルは守られてるから」と言った気持ちが少し理解出来た。
「心も体もボロボロだったから雨上がりの意味合いが変わってしまったのかなって、今なら思えるよ。だけど当時は悲しかった……先生が大好きな俺にとって雨上がりは敵だったんだ」
「雨上がりは……敵……」
「最初にあーちゃんの部屋からの香りを嗅いだのが梅雨明けくらいの時期でまさに敵でしかない雨上がりだった。でも、そんな空気の中で吸い込む、隣室から香るものは最高に心地良かったんだよ」
「…………」
「あまりにも幸せな香りだったから『長かった雨の日々を取り戻す太陽の光みたいに、その香りが俺を変えてくれるんじゃないか』って、勝手にその香りを醸す人に想いを寄せてたんだ」
「香りで人を好きになるって、りょーくんって不思議……」
ましてそれが顔を知る前の私だなんて恥ずかしい。
「そりゃサラリーマンかもしれないし、一人暮らしのおばあさんかもしれない。色んな可能性を想像してたよ。
でもいつかこの隣人と話をする機会が一度でもあれば良いなって、ただそれだけを考えていた」
「あ……」
恥ずかしいけど、すぐに嬉しくなった。
私が大学でりょーくんに片想いしてた時の感情と、それはよく似ていたから。
「隣人が同じくらいの歳の女性だと知ったのは、今年の4月の話ね」
「うん」
「その時はまだ姿を見てなかったけど、会話の感じで先生っぽい雰囲気の女性なのかなって思った。とはいえ、あーちゃんは先生と違って嫌な事は嫌って彼氏に言える芯の強い人って印象もあったな」
「芯が強くってほどでもないよ? 私」
「そうだとしたら先生は………本当の本当に心が弱い人だったのかもしれないね」
「…………」
「そして俺もやっぱり、心が弱い」
「……」
「俺、あの時さ……『隣人の女性に負けないくらい芯の強い人間になりたい』って前向きな気持ちを持ったんだ。
いつか一緒に話をする日が来た時、少しでもかっこいい自分を見せたかったから」
「りょーくんは充分にかっこいいよ。皐月さんもりょーくんの存在に助けられていただろうし」
「でも……」
「少なくとも、私の目から見たりょーくんはいつだってかっこいいよ。痴漢から私を守ってくれた時もそうだし、今のりょーくんもそう」
私は彼に自分が抱いている想いを伝え、キスをした。
「あーちゃん……」
私が唇をゆっくり離し、彼の顔を見上げると、両目いっぱいに涙を浮かべていた。
「りょーくん」
感極まっているんだ。と私は察した。
私がこうなっている彼に1番してあげなきゃいけないのは、微笑んだりハグしたり……彼を優しく包み込む行為でなきゃいけないのに。
泣いちゃいけないのに、私の視界は涙で滲んでいる。
「あーちゃんの部屋に居たら落ち着くんだ。いつも珈琲の良い香りがするし、あーちゃんの笑顔や恥ずかしがる顔に癒されるから。あーちゃんが忙しくてなかなか帰れなかった時は……そりゃあーちゃんが早く帰ってきてくれる方が嬉しいけどそういうわけにはいかなかったから、この部屋でジッとしてた。
あーちゃんの部屋は、俺にとっては安らげる場所みたい」
彼は両目を細め、一筋も二筋も頬に涙の道筋を作りながらそう言って私に笑いかけた。
その、痛々しくもある表情に胸が締め付けられ、私は彼と同じように泣いてしまう。
「ずっと……ずっと私の部屋に居てもいいんだよ。夏休みが終わったって合鍵返さなくていいっ!今のりょーくんがこの部屋から離れて苦しくなるくらいなら、ずっとずっと私と一緒に住めばいいじゃない……」
「あーちゃん……」
「ずっとずっと一緒に住もうよ。一緒に居ようよりょーくんっ!」
私の顔は、りょーくんよりも涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「あーちゃんに迷惑かけるから」
「迷惑なんてかけてない!!」
それどころか一際大きい声でりょーくんを驚かせる。
「でも……俺は、あーちゃんにとっては忌み嫌われる存在だよ?
俺はあーちゃんのお師匠さんの大事な家族を殺したんだ。あーちゃんの言ってた『雨上がりの女神』ってのも、先生の事なんだよね? あーちゃんの女神を俺は殺したんだよ?」
「それは違うっ!! 私だって知ってるもの! りょーくんが皐月さんを階段から突き落としたんじゃないって。私だって関係者だから、知らないわけないんだもんっ!!」
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