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失った恋と始まる出逢い

何もかも順風満帆だと思っていた

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 木崎馨は平凡である事を何より望んでいた。
 
 「非凡な才能は自分に合わない」と、17歳の終わりに自覚した為であった。


 馨の父親は平均的な収入を得るサラリーマン。母親は子育てをしながら午前中はパートをして家計を助け、馨が社会人となって実家を出た後はフルタイムの勤務に切り替えて頑張っているらしい。
 そんな両親も馨が平均的である事を望んでいるようで、公立の小学校中学校を経て高校受験をする際に馨が「偏差値55くらいの普通科の高校に入りたい」と希望すると目を細めて「それが良いと思う」と頷いてくれていたし、大学受験の時も「頑張り過ぎなくていいよ」と優しく応援してくれた。
 就職では希望の職に……とはなかなかならず、実家から遥か遠い九州の地を踏む事となったが陰なりに応援してくれている。今年の盆に里帰りした時に「同い年の彼氏が居る」と伝えたら母は飛び上がり喜んでくれていた。

(私の人生は順風満帆。平凡こそが一番なのよ、やっぱり)

 その彼氏というのは馨が勤めている雑貨メーカーの営業2課に配属されているエリート社員鮫谷俊輔さめやしゅんすけだ。身長180㎝を越えるイケメンで取引先や他部署の女性にとって憧れの的となっている。馨の部署には毎年2人ほど新入社員が入ってくるが「鮫谷俊輔に一目惚れする」のイベントをほぼ必ず通る事になる……1ヶ月もしたら俊輔の態度や扱いに幻滅し目を反らす結果になるのだが。

 そんな中、馨は社会人2年目で俊輔から射止められた稀有な人物であった。
 馨の部署限定で女性社員に幻滅されるのは俊輔の仕事への熱意を鑑みればある程度仕方がない。他の男性社員は余裕を持った納期でこちらに書類作成を振ってくれるのだが、案件を数多く抱える俊輔はギリギリ納期で多種多様な書類やデータ整理を並行して取り組まなければならない。そしてそれを努力で補ってきたのが馨であり俊輔はそこに惚れてくれたのだろうと感じていた。
 
 だが、俊輔も馨も交際している事を社内に公言していなかった。会社は前時代的な考えを持っており「課の中にカップルが生まれたら仕事に支障が出るので発覚したら他の課に異動すること」というルールがこの令和の時代でも暗黙の了解となっているのだ。2人が交際宣言したとなれば俊輔は今ある案件全てを捨てて異動しなければならなくなるし、馨だって同様。休日が合わなくなってくるだろうし色々と不利益が出来てしまう。
 そこで俊輔とは「結婚したら話そう」と打ち合わせていた。今日で交際歴は5年、会社に黙っているだけであって2人の仲は順調なのだ。その上仕事だって結果を残し続けている。俊輔が馨に多く仕事を振るのは「付き合っているから」ではなく「馨なら俊輔の提示した納期に間に合わせられ作成した書類やデータも完璧だから」と皆に思われている……そんな2人が実は5年も交際していて結婚するとなれば社内の考えも変わり皆が意識を変えてくれるかもしれない。2人の「結婚したら話そう」は自分達のみならず未婚の社員にとっても有益なのだと、馨は常に言い聞かせ仕事中俊輔に向かって彼女ヅラする事も甘えたりする事もなく粛々と日々を過ごし、終業後には真っ先に俊輔と共同でローンを組んだマンションへ向かい半同棲生活を送っていたのだった。
 

(今日は俊輔の誕生日で付き合い5周年の記念日。そろそろ結婚話が出てきたりするのかなぁ)

 いつもなら毎日数時間の残業をしている馨ではあるが、今日は違っていた。

「おっ、木崎さん。今日は定時上がり? 珍しいね」

 オフィスの壁時計が定時を指したのを合図に、馨はデスクを片付けパソコンをスリープモードに切り替えていた。
 いつもはあまりやらない定時退社をしようとしているものだから、課長に目をつけられてしまったようだ。

「はい、今日はこの後ちょっとやる事があるので」

 お腹がでっぷりとしており全体的にえた臭いを放つのは営業2課の林課長。仕事が出来ない癖に俊輔のような有能な営業マンが在籍しているおかげで座り心地の良い上座にデスクを構えていられるただの中年オヤジである。
 女性社員は俊輔に幻滅しているがそれはあくまで仕事を多く振ろうとしてくるから。林課長に対しては皆「生理的にムリ!!」と小声でボヤいている。

「ふぅん。ヤ・ル・コ・ト……ねぇ」

 おまけにセクハラがねちっこくて気色悪い。課長のこの言い回しには流石に馨もゾッとしていた、

(今絶対「やる」の意味をエロい意味で捉えてた……タヌキ課長キモっ!!)

 体面的には真面目で通っている馨でも悪態くらいはく。ただし心の中限定で実際に口に出すまでの行動には至らないのだが。

「はい、課長。お先に失礼します」

 ちょっと嫌な気持ちになってしまったけれど、馨には引きずっている暇が無い。

(なんたって今日は俊輔しゅんすけが出張から帰って来る日だし! 早くマンションへ行って料理作ってあげなくちゃ)

 俊輔は11月6日が誕生日。しかも今日まで出張をしており19時に新幹線を降りる予定だという内容を俊輔から連絡を受けている。
 「帰ったら誕生日パーティーをしよう」という約束まではしていないのだが、そのくらいの時間帯に帰って来れるのであれば、合鍵を持つ自分がこっそり中でケーキや料理の準備ををしてサプライズで祝ってあげようと考えていたのだった。

(20代ラストの誕生日だし、私の時みたいにレストランを予約してお祝いしても良かったんだけど、出張と重なっちゃって予約時間に間に合うか心配だったんだよね)

 数ヶ月先に祝ってもらった私と同じような祝い方が出来なかったのは残念。だけどケーキは彼の好きな店を選んだし、彼の一番に好むワインも買った。後はキッチンを借りて得意料理を6品ほど作ってしまえばサプライズバースデーパーティーの準備は完了する。



「まだ既読になってないや。今は帰りの新幹線の中かなぁ」

 現在時刻は18時45分。両手に食料品の入った買い物袋をいっぱいに抱えた馨は地下鉄を利用して彼の住むマンションのエントランスに到着し、慣れた手付きで解錠する。
 付き合って5年の仲であるし、そもそもこの部屋は結婚する未来を見据え2年前からずっと家賃の半分を彼に渡していた。解錠パスワードもカードキーも馨が所持しているのは当然の権利であった。

(この前来たのは先月かぁ……結構日数が空いちゃったなぁ)

 有能な営業マンであるが故に、俊輔はここ1年の間で出張や取引先との飲み会が急増した。それに反比例して馨は彼の部屋で過ごす機会が激減している。けれども愛の深さや重さは変わらないと思っている。会えない時間はスマホが埋めてくれるのだ。昭和や平成初期ではそんな状況ヤキモキしていただろう気軽にメッセージや通話で繋がれる今の時代に恋愛出来て良かったと感じていた。

(俊輔はサプライズ大好きだもん、今日はかなり喜んでくれるはず! 準備ワクワクしてきたなぁ~♪)

 一足先に29歳になった馨ですら、この状況に浮き足だっていて
 

「お邪魔しまーす」

 家主が居なくとも小声で声掛けしてしまうし、サプライズを仕掛ける期待感から扉もいつも以上にゆっくりと開け足音を立てず中に入ろうとしてしまう…………

「ぇ」

 …………筈だった。

 いや、それらをしたくても出来なかった。
 玄関に目線を落とした瞬間、全身が凍ったからだ。

(俊輔が気に入ってる革靴と煌びやかなピンヒール……)

 その2足が玄関タイルの上で乱雑に転がっていて、更に

「…………ぁぁぁん♡」

 ベッドルームから嬌声が聞こえてきたのだ。

「っ」

 馨はその場に立ち尽くし、持っていた買い物袋をガサッと落とす。

(嘘でしょ……?)

 頭が真っ白になった。

(嘘……嘘だよね? 俊輔が浮気とか)

 信じたくなかった。

 でも若い女の嬌声に続いて男の荒い息遣いと名前を呼ぶ声が漏れ聞こえてしまったのだから……これはもう現実だと受け止めるしかないようだ。
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