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牙を失くしたオオカミはやがてイヌへと成り下がる

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 道永大和は生まれつきのアルファではない。
 生まれは疑う余地はなく、数値ど真ん中のベータだった。
 そして医師からベータと診断されて間もなく『金城』になるチャンスを失った。

『通永』――それは名家『金城家』の二つある分家のうちの一つだ。
 アルファの名門とよばれる『金城』の名を汚さないように、欠点を隠すためにできた家。血筋はどの家も同じ。だが『道永』は産まれ持った才能がないものが割り振られる家なのだ。
 産まれた時点でアルファであれば子どもには『金城』の名が与えられる。親がどこの家に所属していようが関係なく、だ。
 分家の人間が産んだ子どもであれば親は子どもを手放し、戸籍上『金城』の家の誰かの子ということにしてしまう。そして子どもは本当の親を知ることなく引き離され、新しい親の元で育てられるのだ。その人たちが本当の親と疑うことはせずに。

 そして『金城』に成れなかった子どもが振り分けられるのは、残る二つ、『通永』か『服部』のどちらかだ。
 この二つの家に属する子どもは産まれた時点で『ベータ』と診断された子どもである、という点においてだけは同じであるが扱いが全く違う。
 産まれて1週間後に後天性アルファを作り出すための薬を注入され、それでアルファになれば『通永』、そうでなければ『服部』と名前を付けられる。

『服部』の苗字を持つ子どもは金城家からは見放される。本家の、『金城』の名を持つ者のほとんどが価値のない者であると思っているのだ。
 だがそんな彼らはまだいい方だった。
『服部』の姓を貰ったものは同じ服部の名を持つ大人や系列の養護施設に送られていったりと、そのほとんどの子どもたちが一般家庭の子どもと同じように過ごすことが出来るのだ。
 その一方で『通永』は『成り上がり組』『ギャンブル組』と呼ばれ、金城家からは見放されることはないものの、ないがしろにされて育つ。
 いずれ自らが動かす駒の一つか、余興かなにかだと勘違いしているのだ。
『通永』の名前を得たものは所詮ベータと過酷な訓練を強いられる。
 そして『金城の分家』という現実が重りとなってのしかかってくるのだ。
 だが残った子どもには、『通永』に才能を持っているものは少ない。世界人口の大多数を占める他のベータと変わらない、平凡な者ばかりなのだ。
 ただ薬が効果を発揮する身体を持っていただけに過ぎない彼らにはそれが辛くて仕方がなかった。
 自らを追い込み、精神を、そして身体を病むものも多かった。その姿を間近で見なければいけない子どももまた同じように気を病んでいく。
 そして『金城』から完全に壊れてしまったものとの判断が下された時、彼らは『通永』の家から消えて行くのだった。

 大和は一人、また一人と欠けていく同年代の子どもを見て育った。

 そして自分もいつかはああなるのだと確信していた。


 大和が小学校に入学する頃、転機が訪れた。
 金城家の当主が変わったのだ。
『道永』にとって統治者が変わろうが変わるまいが大した違いはないと思い込んでいた。だが、金城惣右衛門は他の、今までの当主とは違った。
 惣右衛門はベータに生まれた子どもに薬を打つことを止めさせた。
『金城』の名を守るため、ベータの子どもに『金城』という姓をつけないということに変わりはなかった。それでも彼がしたことは金城とその分家を震撼させる出来事だった。その当時10人にも満たなかった、表情筋と感情が死滅した『道永』たちが泣き出すほどに……。

 そして成人に満たない唯一の道永として大和は惣右衛門の元で育てられることになった。

「大和、お前は『金城』になりたかったか?」

 惣右衛門は度々大和に問いかけた。
 その度に大和は決まって表情一つ変えずに答えた。

「私は道永です」――と。


 惣右衛門はこのままでは大和も他の子どもたちのようになってしまうと心配した。

 なにかこの子の興味を引けるものはないのか……。

 そう考えた結果、惣右衛門は大和と同じ歳で金城家唯一のオメガ、樹に会わせることにした。

 前当主から大層可愛がられていた樹は『通永』の子どもたちとは似て非なる扱いを受けていた。一日のほとんどを前当主の元で過ごし、彼の事実上の親はもちろんのこと、戸籍上の親ですら一日に一度顔を見ることが出来ればいいほどに、樹は他人との接触を禁止されていた。
 大和を気に掛ける一方で樹のことも心配だった惣右衛門はこれでいい方向に進めば……と考えていた。
 大和も樹はまだ幼く、樹はアルファに会う機会が極端に少なかったせいか発情期は一度も迎えていなかった。
 だからオメガの樹とアルファの大和を会わせても問題はないだろうと踏んだのだ。

 だが惣右衛門の予想は外れた。
 大和と出会った日に樹は初めての発情期を迎えたのだ。使用人から報告を受けた惣右衛門は焦った。
 そして驚愕した。
 惣右衛門の目に入ったのは使用人の報告通り、発情している樹だった。そしてその隣では小さな身体で必死に自分を押さえ込んでいた大和の姿があった。
 成人を迎えたアルファであっても発情しているオメガを目の前にして自我を保てる者はごく僅かだ。それをこんな幼い子どもがやってのけたのだ。
 惣右衛門は連れて来たオメガの使用人に樹を託し、大和へと近づいた。

「大和、よく頑張ったな」
「は…………い」
 顔を上げた大和の瞳はやはり紛れもないアルファのものだった。


 そして惣右衛門は金城家の子どもでも特別、樹と大和を可愛がるようになった。
 金城の名を持つ子どもは道永の大和が当主に可愛がられることに不満を抱き、その不満を幾度となく大和にぶつけて行った。だが大和は気に留めなかった。自分に対して頓着がなく、そして自分に苛立つ他人は興味を抱く対象とはならなかったからだ。
 それが余計に面白くない者は大和への嫌がらせをエスカレートして行った。

 ある日、大和よりも三つほど幼い金城の子どもが二階から水をかけた。
 それは下を歩く大和に向けてのものであったが、隣を歩いていた樹の左肩が少しだけ濡れてしまった。そのことに怒りを覚えた大和は持てる限りの物に水を溜め、そしてその子どもの頭から何杯もの水をかけた。
 子どもが泣いて許しを乞うても止めることはなかった。
 なくなればまた汲んで来てはかけた。しまいには蛇口まで子どもを引きずって行った。その道中で惣右衛門に止められるまで大和は無表情でそれをこなし続けたのだった。

 その日から大和はこう囁かれるようになった。

『オメガ付きのオオカミ』――と。

 金城でその名を知らない者はおらず、大和の守る樹に手を出すような愚か者はいなかった。

 そんなことがあったからか、はたまた優秀な大和を金城に引き入れたいという思惑があったからか、樹の結婚相手は満場一致で大和に決まったのだった。
 大和と樹の卒業式の日、一番浮かれていたのは他でもない惣右衛門であった。

 そして二人の間に産まれてくる子どもを抱く日を夢見て、昼近くなった頃、一夜を共に過ごした大和達の元に、使用人を送ったのであった。

 惣右衛門より命じられた使用人は、使用人とはいえ金城に仕えるだけあって『オメガ付きのオオカミ』の名前を知らないはずもなく、邪魔だけはしてはならぬとなるべく音を立てないようにすり足で移動した。そして戸を弱く叩き、大和と樹の名前を呼んだ。

「樹様、大和様。お目覚めでしょうか?」

 けれど返事が返ってこなかった。
 使用人はまだ寝ているのだと判断し、ホッと一息ついてその場を去った。


 ***
 日が上がる前からとっくに起きていた大和は使用人の僅かに漏らした息を壁一枚隔てた部屋で耳にした。

 大和の腕の中では泣き疲れた樹がグッスリと眠っている。母親に抱かれて眠る子どものように見えるその顔に警戒心など微塵もない。
 樹の目尻には昨日流れた涙の跡がくっきりと残っていてそんな姿は大和にとって何よりも愛おしかった。


 一応とはいえ大和と樹は初夜を迎えた。

 家の者達が想像するような、期待するようなことは一切起こってないけれど、それでも……だ。

 身体中にオメガ特有の香りを漂わせていれば普通のアルファなら我慢できるはずがない。気持ちがあろうがなかろうが関係なく、番うことが出来る。

 だから金城の家は代々初夜前日からオメガに薬の使用を禁じて来たのだ。
 今回はそれが裏目に出た。
 そもそも1日ずらすか、卒業式を欠席させればよかったものを、金城家の習わしと樹の卒業式は出たいという希望の両方を実現させようとしたことから歯車は狂い出したのだ。
 大和はそれに一枚噛ませただけに過ぎない。

 樹が幸せになるための最後の願いを紙っぺらに等しいその一枚に込めて。


 どれだけの力が込められたのか容易に予想がつく、樹の滑らかな首筋に残る噛み跡に舌を這わせると、小さな凹凸にこの首を噛んでももう自分のものになることはないのだと実感する。

 自分はもうずっと長い間、樹を欲していたのに……と泥棒猫にでも横取りされたかのような悔しさが勇樹の中で湯水のように湧き上がる。だがその中に少しだけ安心感が入り混じっているのを感じた。

 大和はもし自分が樹の番になったら彼を汚してしまうような気がしていたのだ。
 純粋なアルファの番になれたことによって、自分のような作り物では到底番にはなれない、雲の上の存在だと改めて認識した。


 そんな樹を腕の中で囲む背徳感にも似た感情は到底彼には見せられないほどどす黒いものだった。

「こんなの、いっちゃんには見せられないなぁ」

 カーテン越しに光に照らされるだけの部屋で大和のこぼした声は意外にもよく響いた。



「ん……」
 使用人の足音が去ってからしばらくして大和の腕の中でモゾモゾと動き出した樹はパチパチと瞼をしきりに動かす。

「おはよう」
 何もなかったように装って覗き込むと、樹はまるで怖い夢から覚めたように安心していた。
 けれどそれは樹が首筋に手を当てたことによって地獄へと落とされる。
 昨日の出来事は全て現実であるのだと確かに残る噛み跡が証明しているからだ。ゆっくりと手を這わせてカタカタと震える。
「やま……と?」
 目には涙がたまってはいないものの、今にも崩れてしまいそうな樹に大和は何も言わずにただ目を合わせる。
 ここで何もなかったといって仕舞えば今すぐにでも樹の全てが崩れて消えてしまうと思ったのだ。
 肯定も否定もしない――それが大和の中の答えだった。

「そう……か」
 樹は自分の中で昨日の出来事に折り合いを付けると、大和の肩に手を付きながら立ち上がった。
「大和、ご飯……食べよう」
 樹はふらつく身体で、震える手で大和へと手を伸ばす。
「うん、そうしようか」
 大和は樹の手と腰に手を伸ばす。腰に当てると樹の身体が少しだけビクッと反応した。けれどすぐに「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。
 自分のことを警戒していないのだと思うと悔しかった。さっきの反応も勇樹が昨日樹にしたことと重ねているのだと思うと余計に。見て来たわけではないのに、反応でわかってしまう。

 勇樹が何をしたのか。
 樹の中にどれだけの彼がいるのか。
 隣にいるのは大和なのに、樹は大和を見てなどいなかった。

 居間に樹と一緒に行くと、その場所にいた使用人がすぐに食事を用意してくれた。お粥に、赤飯、パンにステーキまであった。
 おそらくどんなものが食べられるかわからないから手当たり次第に用意したという感じであろう。
「朝だからこんなに食べれないよな」
 そう声を出して、樹は大和に賛同を求めた。樹の頭の上から覗く、あと数分で12時に届きそうな時計をチラリと見てから大和は机の上の食事に手を伸ばした。
「そうだね。あ、でもこのパンとか美味しいよ?」
「え? あ、ホントだ!」
 何も知らない純粋な少年のように笑う樹が可愛くて可愛くて。大和もまた樹と同じように錯覚しそうになる。
 昨日の出来事は、これから樹と婚姻を結ぶのも全部夢なのだと。
 そんなことはないのに、だがそう望まずにはいられないのだ。


 結局のところ大和は『幸せ』を見たかっただけなのだ。
 樹の笑う姿が見たかった。
 どこでもいい、ただ願わくば自分の目の届く場所で幸せになって欲しかったのだと空元気で笑う樹の顔を見て実感した。
 それは樹から微かにすらもオメガの香りがしなくなったことによって冷静になったからなのか、それとも樹が悲しそうにする姿をこれ以上見たくないと思ったからなのかは大和自身にもその答えはわからなかった。
 1つだけ確かなことは、大和の心はただ『一緒に食事が出来る』ということだけで満たされていくことだ。


「大和様」
 腹も膨れ、席を立つと使用人がどこからともなくやって来て、一枚の紙を手渡して来た。
 婚姻届だ。
 すでに全ての項目において記載は済んでおり、提出するだけで事が済むようになっている。勝手に提出されなかっただけいい方だろうかと受け取る。
 すると「すでに車の準備は出来ております」と丁寧に付け加えた。すぐ後ろにいる樹にも当然、使用人の声は聞こえていたらしく
「先にお風呂に入ってからでもいい?」
 と上目遣いで言ってきた。そういえば昨日は風呂に入る余裕などなかった……。
 思い出せばなんだかわずかに滲んだ汗が張り付いて気持ち悪いような気がする。
「俺も入ろうかな?」
 そう呟くと樹の小さな身体がびくんと跳ねた。
 もしや一緒に入ると勘違いをしたのだろうか?
 樹の身体に怪我がないか確認したい気持ちは山々ではあるが、それは何も一緒にお風呂になど入らなくても、適当に理由を付けて着替えを手伝った時にでも確認すればいい。念のために
「あ、いっちゃんの後でいいからね?」
 と大和が付け加えると
「そ、そうだよな」
 とひどく安心したように去って行った。大和は樹が見えなくなるまで後ろ姿を視線で追い続けた。
 番でもなく、ましてやオメガの香りがしなくなった樹などそこらへんにいるベータと変わらないのに、やはり大和にとっての樹は大切で特別で、そして何より愛おしい存在に他ならなかった。



「大和……終わったよ?」
 大和の部屋の扉からチラリと顔をのぞかせた樹の髪からは水滴が滴り落ちていた。
「いっちゃん、おいで」
 大和はタンスからタオルを、棚からはドライヤーを取り出してから、樹に手招きをした。
「え?」
「そんなんじゃ風邪ひいちゃうよ。乾かすから、ほら座って」
「…………ん」
 初めこそ遠慮していた樹だったが、頭に乗せたタオルの上から頭を押さえてから観念したようにトコトコと大和が座っていた椅子に腰掛けた。

「悪いな、大和」
 ドライヤーの風にあたりながら、気持ち良さそうな顔で謝罪する樹の言葉は今の状態を指しているのか、昨日のことを指しているのかわからない。
 だから大和は答えた。

「いっちゃん、俺らは家族なんだから気にしなくていいんだよ」
「っ……」
 いきなり振り返った樹の顔にはドライヤーの温風が当たる。大和は慌ててOFFへと切り替えると、樹は大和に抱きついた。

「大和、大和、大和、大和」
「ねぇ、いっちゃん。俺はいっちゃんのことが大好きだよ」
 胸にくっついた樹の濡れている髪を撫でる。大和は指で濡れた髪を梳きながら、未来を思い描く。
「だからさ、俺はいっちゃんと家族になれたことが嬉しいよ。俺はいっちゃんの従兄弟だけど『金城』ではないから」
「番じゃ、ないのに?」

『金城』で一国の姫君のように育てられていた樹にはきっと大和の言葉の本当の意味は伝わらない。
 だが、それでもよかった。

「もちろんいっちゃんの子どもは見たいよ? だって絶対可愛いし。でもね、俺はいっちゃんが大好きだけど何も番になることが全てじゃないんだ。俺はいっちゃんの隣でいっちゃんの笑っている姿が見たい」

 ずっとこれからも穢れのない樹を見ていきたいのだ。

『番として』ではなく『家族として』

「大和……」
「いっちゃん、いや金城樹さん、俺の隣で幸せになってくれませんか?」

 手にはタオルとドライヤー。
 大和が一代決心で望んだプロポーズはどこかムードにかける。
 だがそれを受ける樹も樹で、髪はびしょ濡れ、顔は涙で汚れていて、視界は歪んでいる。

「ああ、俺を幸せにしてくれ」

 だがそれは捨てられたオメガが紛い物のアルファにはちょうどいいのかもしれない。

 これから先、決して番になることのない二人。

 けれど2人の向かう先にはまだ見ぬ幸せが広がっていた。
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