令嬢諮問魔術師の事件簿

真魚

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第一話 グリムズロックの護符事件

第八章 ビスケットが焼けるまでに 1

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「諮問魔術師。あなたが? 女の人がなれるものなの?」
 シシーが疑わしそうに言う。
「わたくしが第一例でしょうね。でも、実際、規定では『しかるべき経験と技量をそなえた魔術師』となっているから、マンとはどこにも限定されていないの」
 エレンは襟元を寛げて鎖を引っ張り出すと、身分の証の印章指輪を掌の上にのせた。

「これが証拠。気になるならよく見て」
 シシーは熱い石炭にでも触れるような手つきで指輪をつまみ上げ、刻まれた文字に目を走らせた。
「――本当なんだ」
 返しながら低く呟く。とび色の目に感嘆が宿っている。
「ええ」
 頷いた瞬間、シシーはくしゃっと顔を歪め、堪えかねたように嗚咽を漏らした。
「ジョンのこと、調べにきてくれたの……?」
「ええ。――まだわたくしの個人的な調査の段階だけどね。信頼できる警部補も一人、タメシスで個人的に調査を進めています。ある程度の証拠さえそろえば、警視庁ヤードだって動かざるをえません。この国はそんなに独裁的でも利己的でもないはず――」
 そこまで口にしたところで、エレンはまた頭痛を感じた。
 額を抑えて低く呻くと、シシーが心配そうに腕を伸ばして体を支えようとしてくれた。

「どうしたの? ずいぶん具合が悪そう」
「気にしないで、大丈夫。この森はわたくしとは相性がよくないの。地侏儒ノーム泉乙女ニンフの領域なのでしょうね。それより、あなたにひとつ訊きたいことがあるの」 
「分かった。答えてあげる。でもここではなくてね」
 シシーはすっかりと落ち着きを取り戻した様子で答え、エレンの右腕をやんわりとつかんで促した。
「うちに来るといいわ。本物のクリーム入りの熱いお茶をご馳走してあげる。――大丈夫。お父さまは巡回説教に出ているから」
 そう言って悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。

 エレンは極まり悪くなった。
「ねえミス・シシー」
「シシーでいいよ。もしよければ」
「ありがとう。ならわたくしもエレンと呼んで。で、シシー」
「何?」
「あなた、知っているの? つまり、その――」
 その種の話題の苦手なエレンが曖昧に口を濁すと、
「ああ、お父様があなたに一目ぼれして早速求婚するつもりだってこと?」
 と、シシーはあっけらかんと言った。
「もちろん知っているわ。今朝朝ご飯を食べながらずーっと話していたもの。あの人、そんなに悪い人じゃないの。ああ見えて仕事には熱心で真面目よ。貧しい教区民に対してはわりあい面倒見もいいしね。――魔術の心得があるっていうのは、たぶん嘘だけど」
 シシーが顔を曇らせて呟く。
 エレンは眉をよせた。
「そうなの?」
「たぶんね。――続きは家の中でしましょう。あなた分かっている? 紙みたいな顔色しているんだから」



 エリザベスがあれほど懐くだけあって、シシーはてきぱきとして面倒見の良い人柄のようだった。
 エレンとシシーは連れ立って牧師館の裏門へと向かった。

「住み込みの使用人はキッチンメイドのタビーと馬丁のアシュレイだけなの。アシュレイはお父様のお供。タビーは大抵いつでも台所にいるから、私はかなり自由にうろつけるってわけ」と、シシーが説明する。
「でも、あなたが来たことを隠し通すのはたぶん無理。私は裏口からこっそり戻るから、あなたは正面玄関から入って。――大丈夫? 歩ける」
「大丈夫。心配のし過ぎよ」と、エレンは苦笑した。「あなたサラみたい」
「友達?」
「サラ? まあね、友達でもあるのでしょうね。あとで紹介するわ」
 心配顔のシシーと一端別れ、低い石垣に囲まれた牧師館の敷地をぐるっと回って正面側へと向かう。

 そこには二軒の家が並んで建っていた。
 どちらも同じような石垣で囲まれ、同じ色調のスレート屋根を備えている。
 東側が牧師館で、西側がマイクロフト邸だ。
 どちらの家からもあの森に出入りするのは容易そうである。

 エレンはしばらく二軒の家を見比べてから、牧師館のほうの前庭に入った。


 前庭では鶏が飼われていた。
 玄関の前に柊が植わっている。
 呼び鈴の紐を引っ張ると、ガラン、ガランとカウベルみたいな音が響いて、痩せた小さなしわくちゃのメイドが現れ、胡乱そうに訊ねてきた。
「どちらさまですか?」
「ミス・エリザベスの新しい家庭教師ガヴァネスです。ミス・シシーのお見舞いに参りました」
「ああ、それではあなたさまが!」
 メイドはぱっと顔を輝かせ、今しがたとは打って変わった親切さで屋内に迎え入れてくれた。
「どうぞこちらでお待ちください。今二階に報せて参りますから」
 シシーはすぐに現れた。
 エレンを見るなり嬉しそうに笑い、自室へ来るようにと促す。
「タビー、まずは熱いお茶をお願い。それから出来立てのビスケットも出してさしあげて。あなたが作るのはこの村で一番美味しいんだから」
「はいはいお任せくださいな」
 小さなキッチンメイドが得意そうに応えて台所へ引っ込んでゆく。
 エレンはシシーに先導されて狭い黒ずんだ階段をあがった。



 シシーの部屋にも暖炉があってよく火が燃えていた。
 ベッドと衣装棚と四角い小さなテーブル。
 白塗りの化粧台の前に三脚のスツールが一脚だけある。
「どうぞ坐って」
 シシーはエレンにスツールを勧め、自分はベッドの端に腰掛けた。ちょうどそのとき外からドアがノックされ、メイドがお茶を運んできた。
「さあさ、どうぞお嬢様がた。ビスケットはもうじきできますからねえ」
 嬉しそうに告げてそそくさと戻ってゆく。
 足音が遠ざかりきったところで、シシーがお茶を注ぎながら苦笑ぎみに言った。
「心配しないで。ビスケットはまだ当分できないはずだから」
「焼きあがるまでゆっくりと内緒話ができるってわけね?」
 菫の花を描いた厚手の白い陶器の茶碗を受け取りながら応じると、シシーは得意そうに頷いた。


「--それで、改めて話の続きなのだけれど」と、シシーがお茶を一口すすってから切り出す。「私に訊きたいことって?」
「ああ」
 エレンは微かな緊張を感じた。

 シシーは随分しっかりして見えるが、やはりまだ若い世間知らずの娘だ。タメシスの場末の町で起こった血腥い殺人事件の話など聞かせていいものだろうか?

 そこまで考えたところでエレンはハッとした。
 あの忌々しいストライヴァー警部も、もしかしたらこんな種類の逡巡を感じていたのかもしれない。

「エレン、どうしたの?」
 シシーが心配そうに訊ねてくる。
 エレンは腹を決めた。

 やはりこのは知るべきだ。

「実は、半月ほど前、タメシス市域のサウスエンドで、あまり品の良くない仕事をしている若い女性が殺される事件があったの」
「殺人事件? それが私たちと何か関わりがあるの?」
「あるかもしれない――と、わたくしは思っています。その事件の被害者が、まるで財産家の若い後継ぎが持たされているかのような、魅了魔術チャームよけの本物の護符タリスマンを持っていたの」
 護符という言葉を口にするなり、シシーの顔が明らかにこわばるのが分かった。
 茶碗をもつ手が微かに震えている。
 エレンは声を潜めて訊ねた。

「――何か思い当たる節が?」
 シシーの手が大きく震えた。
重たげな茶碗が今にも落ちてしまいそうだ。エレンは慌てて自分のお茶をテーブルに置くと、床に膝をつき、シシーの茶碗の底に左手を添えてやった。
 途端、シシーが我に返る。
「だめよエレン、この部屋そんなにきちんと掃除はしていないの。スカートが汚れちゃう」
「いいの。これは仕事着だから。どうせエリザベスお嬢様に泥団子をぶつけられているんだし」
「あの子そんなことしたの? 本当に小さな悪魔なんだから――」
 シシーは顔をくしゃっと歪めて笑い、次の瞬間、眦からポロポロと大粒の涙を零した。

「――私ね、あの子が好きだった。ジョンのことも大好きだった。クルーニーご夫妻も好きだったし、ヘスターもグラハム夫婦も好きだった。だから、ジョンがミス・キャサリンを好きになったと聞いたときは、この世の終わりみたいな気がしたの」
「分かるわ」
 エレンは床に膝をついたまま、うなだれてしまったシシーの頭をそっと撫でた。
 シシーが肩を震わせてしゃくりあげる。
「だから私は疑ったの。誰かがジョンに違法の魔術をかけているんじゃないかって。そうして森を捜していたら、あの花を見つけたの」

「『怠惰な恋の花』を? ――深紅の三色スミレの効能についてはどこで知ったの?」
「お父様の蔵書から。さっき話したでしょ? お父様はたぶん本当は魔術なんか使えないの。だけど、きっと昔は魔術師に憬れていたんでしょうね」と、シシーが指先で涙を拭ってくすりと笑う。
 もう激しい感情が落ち着いたようだ。
 エレンはほっとしてシシーから離れた。

「私はあの花を見つけて、誰かがジョンに魅了魔術をかけているんだと確信した。でも、それが誰だか分からなかった。だから、ジョンにちゃんとした護符を持たせようと思ったの」
「ちゃんとしたって、じゃ、ミスター・ジョンはそれまで魅了魔術よけの護符を持ってはいなかったの?」
「持ってはいたのよ。うちのお父様が作ったまがい物をね」と、シシーが肩を竦める。「私とジョンはかなり若いころからお互いを好きだったから、クルーニーご夫妻もそういう点ではあんまり心配していなかったみたいなの」
「なるほどね。じゃあ、あなたはどうやって『本物』を手にいれようとしたの?」
 訊ねるなりシシーは口ごもったが、すぐにきっと眉を吊り上げ、決心を固めたような顔で応えた。
「チャールズに頼んだの」

「……チャールズは誰?」
「私の母方の従兄。チャールズ・ミドルトンっていって、海軍士官なの」と、シシーは誇らしそうに言った。
「まあ、わたくしの長兄も海軍務めよ。今は外洋に?」
「ええ」と、シシーは沈んだ声で応えた。「私はチャールズに手紙を書いて、どうにかして本物の護符を手に入れて貰いたいと頼んだの。カルアッハのパーシー家の誰かがジョンに魅了魔術をかけているかもしれないからって。そしたらチャールズは引き受けてくれた」
「――失礼だけど代価は? 信頼性の高い本物の護符は若い海軍士官がポケットマネーで気安くプレゼントできるほど安くはないと思うのだけれど」
 訊ねるとシシーは眉を歪めた。
「代金は私が自分の貯金から出したの。家庭教師の仕事で貯めていたのを半分送っちゃった。それでも前金にしかならなかったけど」
「残りは後払い?」
「そう。私が無事ミセス・ジョン・クルーニーになれたら三割増しで請求するって」
「……手数料にしちゃ割高ね。他に頼れる従兄弟はいなかったの?」
「残念ながら選択肢がチャールズしかなかったの」と、シシーがため息をつく。「でも、チャールズは急に出航が決まったらしくて、結局何も送ってくれないまま外洋に出て行っちゃったの」
「じゃ、あなたは前金を送ったきり、現物を手にしていないの?」
「そういうこと」と、シシーが肩を落とす。「チャールズに言われるまま貯金を全額送らなくて本当に良かったと思っている」
 完全に諦めきっている。
 エレンは怒りを感じた。

「シシー・エヴァンス、何を気弱なことを言っているの! そのチャールズ・ミドルトンが帰ってきたらすぐさま返金させなさい。返さないっていうならわたくしが弁護士を紹介しますから」

「ありがとうエレン。でも落ち着いて。今の問題はそこじゃないと思う。あなたの調べている事件と私の事件がつながるとしたら、チャールズが手に入れた護符が、そのサウスエンドで殺された女の人のところにあったものだっていう可能性が高いんじゃない?」
「あ、そうでした」
 エレンはようやく自分が何を調べていたのかを思い出した。
 シシーがくすりと笑う。

 そのとき、外からドアが叩かれて、嬉しそうな声でメイドが告げにきた。
「お嬢様がた、ビスケットが焼けましたよ――!」

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