12 / 20
第一話 グリムズロックの護符事件
第六章 怠惰な恋の花 3
しおりを挟む
「なあエレンよ、次に捜すのはあの赤い魔の花であろう?」と、肩の上の火蜥蜴が得意そうに言う。「どうせ森じゃろう。ひとつ捜してきてやろうか?」
「ありがたいけどサラ、あなたじゃ目立ち過ぎちゃう」
エレンはしばらく考えてから、サラを肩に乗せたままカーテンを開けて窓を開いた。
途端、身を切るように寒い夜気がどっと流れ込んでくる。
「おおう」
火蜥蜴が低く唸るなりカッと焔を増した。エレンの全身を暖気が包む。
「豊かな土地じゃのう――」と、サラが感嘆した。「あの湖水は間違いなく水妖の小世界と通じておるぞ。主は眠っているようじゃが」
「あなただって私が呼ぶとき以外は眠っているのでしょう?」
「今だって眠っているようなものじゃよ。そなたは儂の夢じゃ。醒めれば消えてしまう」と、火蜥蜴はちょっと寂しそうに言った。
エレンはそれ以上は何も訊かず、夜風を抱きとめるように腕を広げて命じた。
「空気精霊。わが魔力を与える。夜明けまで顕現しなさい」
途端、淡いあわい金色の光が腕のなかで瞬き、おぼろに透き通る人のような形の輪郭が現れた。
――お呼びか女主人……
夜風に混じってごく微かな声が震える。
エレンは頷いた。
「月光のなかを飛びなさい。この渓間のどこかに深紅の三色スミレが咲いていたら報せに戻ってくること」
――承った……
微かな声が応じるなり、ごく淡い光の輪郭が、月光の帯のなかを泳ぐように遠ざかっていった。ごく低い位置を薄雲が流れているようだ。
「エレンよ――」
肩の上の火蜥蜴が心配そうに呼んでくる。
「魔力は足りているのか? こうして儂を呼び出している上、土地に宿る人型の魔を使役するのは相当の力が必要であろう?」
「大丈夫よ、一晩くらい」
エレンは強がった。
「儂はなエレン、そなたの健康が気がかりなのじゃ」と、小さな火蜥蜴は肩でがみがみ言った。「気がかりだから寝付くまで傍で見ていたいが、儂がいるとそなたはますます弱る。ジレンマじゃ。やはりこういうときのためにこそ人間の伴侶をだな――」
「はいはいはいはい分かりました」と、エレンは雑に答えた。「どう考えたってその話は今することじゃないでしょ? わたくしはいい子でベッドに入りますから、あなたも輝かしい火蜥蜴の小世界で穏やかな眠りに戻ってくださいな」
「空気精霊が戻るのを待って窓を開けたまま一晩中起きているでないぞ? そんなことをしたら肺炎になる。中身に空気しか詰まっていないあの虚ろな能無しであれ、戻って女主人が寝ていたら窓枠を揺らして起こす程度の知恵は回るはずじゃからな? きちんと窓とカーテンを閉め、ベッドに入って夜明けまでぐっすり眠るのだぞ?」
火蜥蜴は最期までくどくど言いながらエレンの掌ごしにどこかへ沈んでいった。
途端に室内が寒くなる。
エレンはぶるっと震えると、口やかましい火蜥蜴に命じられた通り、窓とカーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。
そして夜明け近くに、がたがたなる窓枠の音に起こされた。
空気精霊が戻ってきたようだ。
エレンは慌てて跳び起きると、カーテンを開けて窓を開いた。途端に冴えた冷気が流れこんでくる。一緒に殆ど見えないほど淡くなってしまった空気精霊も滑り込む。
――花を見つけた。森の奥。古いオークの根元……
ビブラートのかかった微かな声が耳元で震える。
空気精霊はそれきり見えなくなった。
名残のようにくるくると小さなつむじ風が渦巻く。
その中心で深紅の花びらが一枚だけ踊っていた。
エレンはそっと手を伸ばすと、小さな蝶を捕らえるようにそっと手にとった。
途端、花弁は水気を失い、皴をよせて茶色く乾いてしまった。
「――本物みたいね」
エレンは思わず呟いた。
上古、この世にまだ上位精霊たちが存在していた時代の花である『怠惰な恋の花』は死すべき定めの人間の体温には耐えられない。
これを摘み取ってしぼり汁を抽出するためには、どうしたってある程度の器用さを備えた使役魔か契約魔を使う必要がある。
エレンは完全に萎れた花弁を日記帳のあいだに挟むと、「分離」羊皮紙を広げてニーダムへの連絡をしたためた。
――ミスター・ニーダム。吉報です。クルーニー家の地所の森で、魅了魔術に用いる魔術性の植物を発見しました。深紅の三色スミレ、あるいは『怠惰な恋の花』です。ジョン・クルーニーはこの植物から製する魔術薬を定期的に飲まされている様子です。取り急ぎ報告を。
E・ディグビー。
しばらくまっていてもニーダムからの返事は浮かんでこなかった。
夜明け前だから当たり前だ。
エレンは諦めてもう一度ベッドに戻った。
もうじきにメイドのヘスターがやってきて、洗顔用の熱いお湯と新しい薪を持ってきてくれるだろう。
まだ少し頭がくらくらする。
ヘスターはお湯と薪を運んだあとで、朝食まで部屋に運んできてくれた。
薄切りトーストとバターとマーマレード。
スクランブルエッグとベーコンと焼きマッシュルーム。
新鮮なミルクをたっぷり入れた熱々の紅茶が銀のポットにいっぱいついている。
大都市では滅多にありつけない新鮮な食材をどっさり使った素敵にボリュームのある田舎風の朝食だ。
エレンは嬉しくなった。
朝食というものはこれでなければいけない。
温かい美味しい朝食をお腹いっぱい食べると、ずっと続いていた頭痛もだいぶ良くなってくれた。
エレンは着替えを済ませ、赤みがかった金髪をことさらタイトなシニヨンに結い直しながら自分に活を入れた。
これからいよいよあの無礼な小童との一騎打ちである。
スカートはいくらでも汚される覚悟はできている。
「ありがたいけどサラ、あなたじゃ目立ち過ぎちゃう」
エレンはしばらく考えてから、サラを肩に乗せたままカーテンを開けて窓を開いた。
途端、身を切るように寒い夜気がどっと流れ込んでくる。
「おおう」
火蜥蜴が低く唸るなりカッと焔を増した。エレンの全身を暖気が包む。
「豊かな土地じゃのう――」と、サラが感嘆した。「あの湖水は間違いなく水妖の小世界と通じておるぞ。主は眠っているようじゃが」
「あなただって私が呼ぶとき以外は眠っているのでしょう?」
「今だって眠っているようなものじゃよ。そなたは儂の夢じゃ。醒めれば消えてしまう」と、火蜥蜴はちょっと寂しそうに言った。
エレンはそれ以上は何も訊かず、夜風を抱きとめるように腕を広げて命じた。
「空気精霊。わが魔力を与える。夜明けまで顕現しなさい」
途端、淡いあわい金色の光が腕のなかで瞬き、おぼろに透き通る人のような形の輪郭が現れた。
――お呼びか女主人……
夜風に混じってごく微かな声が震える。
エレンは頷いた。
「月光のなかを飛びなさい。この渓間のどこかに深紅の三色スミレが咲いていたら報せに戻ってくること」
――承った……
微かな声が応じるなり、ごく淡い光の輪郭が、月光の帯のなかを泳ぐように遠ざかっていった。ごく低い位置を薄雲が流れているようだ。
「エレンよ――」
肩の上の火蜥蜴が心配そうに呼んでくる。
「魔力は足りているのか? こうして儂を呼び出している上、土地に宿る人型の魔を使役するのは相当の力が必要であろう?」
「大丈夫よ、一晩くらい」
エレンは強がった。
「儂はなエレン、そなたの健康が気がかりなのじゃ」と、小さな火蜥蜴は肩でがみがみ言った。「気がかりだから寝付くまで傍で見ていたいが、儂がいるとそなたはますます弱る。ジレンマじゃ。やはりこういうときのためにこそ人間の伴侶をだな――」
「はいはいはいはい分かりました」と、エレンは雑に答えた。「どう考えたってその話は今することじゃないでしょ? わたくしはいい子でベッドに入りますから、あなたも輝かしい火蜥蜴の小世界で穏やかな眠りに戻ってくださいな」
「空気精霊が戻るのを待って窓を開けたまま一晩中起きているでないぞ? そんなことをしたら肺炎になる。中身に空気しか詰まっていないあの虚ろな能無しであれ、戻って女主人が寝ていたら窓枠を揺らして起こす程度の知恵は回るはずじゃからな? きちんと窓とカーテンを閉め、ベッドに入って夜明けまでぐっすり眠るのだぞ?」
火蜥蜴は最期までくどくど言いながらエレンの掌ごしにどこかへ沈んでいった。
途端に室内が寒くなる。
エレンはぶるっと震えると、口やかましい火蜥蜴に命じられた通り、窓とカーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。
そして夜明け近くに、がたがたなる窓枠の音に起こされた。
空気精霊が戻ってきたようだ。
エレンは慌てて跳び起きると、カーテンを開けて窓を開いた。途端に冴えた冷気が流れこんでくる。一緒に殆ど見えないほど淡くなってしまった空気精霊も滑り込む。
――花を見つけた。森の奥。古いオークの根元……
ビブラートのかかった微かな声が耳元で震える。
空気精霊はそれきり見えなくなった。
名残のようにくるくると小さなつむじ風が渦巻く。
その中心で深紅の花びらが一枚だけ踊っていた。
エレンはそっと手を伸ばすと、小さな蝶を捕らえるようにそっと手にとった。
途端、花弁は水気を失い、皴をよせて茶色く乾いてしまった。
「――本物みたいね」
エレンは思わず呟いた。
上古、この世にまだ上位精霊たちが存在していた時代の花である『怠惰な恋の花』は死すべき定めの人間の体温には耐えられない。
これを摘み取ってしぼり汁を抽出するためには、どうしたってある程度の器用さを備えた使役魔か契約魔を使う必要がある。
エレンは完全に萎れた花弁を日記帳のあいだに挟むと、「分離」羊皮紙を広げてニーダムへの連絡をしたためた。
――ミスター・ニーダム。吉報です。クルーニー家の地所の森で、魅了魔術に用いる魔術性の植物を発見しました。深紅の三色スミレ、あるいは『怠惰な恋の花』です。ジョン・クルーニーはこの植物から製する魔術薬を定期的に飲まされている様子です。取り急ぎ報告を。
E・ディグビー。
しばらくまっていてもニーダムからの返事は浮かんでこなかった。
夜明け前だから当たり前だ。
エレンは諦めてもう一度ベッドに戻った。
もうじきにメイドのヘスターがやってきて、洗顔用の熱いお湯と新しい薪を持ってきてくれるだろう。
まだ少し頭がくらくらする。
ヘスターはお湯と薪を運んだあとで、朝食まで部屋に運んできてくれた。
薄切りトーストとバターとマーマレード。
スクランブルエッグとベーコンと焼きマッシュルーム。
新鮮なミルクをたっぷり入れた熱々の紅茶が銀のポットにいっぱいついている。
大都市では滅多にありつけない新鮮な食材をどっさり使った素敵にボリュームのある田舎風の朝食だ。
エレンは嬉しくなった。
朝食というものはこれでなければいけない。
温かい美味しい朝食をお腹いっぱい食べると、ずっと続いていた頭痛もだいぶ良くなってくれた。
エレンは着替えを済ませ、赤みがかった金髪をことさらタイトなシニヨンに結い直しながら自分に活を入れた。
これからいよいよあの無礼な小童との一騎打ちである。
スカートはいくらでも汚される覚悟はできている。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
月明かりの儀式
葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、幼馴染でありながら、ある日、神秘的な洋館の探検に挑むことに決めた。洋館には、過去の住人たちの悲劇が秘められており、特に「月明かりの間」と呼ばれる部屋には不気味な伝説があった。二人はその場所で、古い肖像画や日記を通じて、禁断の儀式とそれに伴う呪いの存在を知る。
儀式を再現することで過去の住人たちを解放できるかもしれないと考えた葉羽は、仲間の彩由美と共に儀式を行うことを決意する。しかし、儀式の最中に影たちが現れ、彼らは過去の記憶を映し出しながら、真実を求めて叫ぶ。過去の住人たちの苦しみと後悔が明らかになる中、二人はその思いを受け止め、解放を目指す。
果たして、葉羽と彩由美は過去の悲劇を乗り越え、住人たちを解放することができるのか。そして、彼ら自身の運命はどうなるのか。月明かりの下で繰り広げられる、謎と感動の物語が展開されていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる