『遥かなる遥かなる遥かなる現在（いま）此処へ』中篇小説

第五話

　あなたは憂鬱に憑ひよう依いされていた。
　鬱うつ勃ぼつたる絶望感が胸臆を支配していた。
　無論冤えん罪ざいであるわたしが最高裁でも死刑判決が転覆されなかったからであり日本刑事訴訟法上第四百七十五条二項により原則として死刑判決から六ヶか月げつ以内に死刑が執行されることが旗き幟し鮮せん明めいとされていたからだ。実際西暦一九六〇年以降死刑判決ののち六ヶか月げつ以内に死刑が執行された事例は皆無であり須しゆ臾ゆもなく未み来らい永えい劫ごうの訣けつ別べつが到来する次第ではなかった。いずれにせよ無む辜このわたしにおける完璧なる冤えん罪ざいが確定されなければ幾いく許ばくの盈えい虚きよもかぞえずに死刑執行が完遂されることは明瞭であり鬱うつ勃ぼつたる鬱うつ悒ゆうに憑ひよう依いされたあなたは結果軽度ながら鬱病に罹り患かんすることとなった。澎ほう湃はいたる絶望感からあなたが自殺することを危惧した家族は新潟市内の精神病院へ邁まい進しんし碩せき学がくの精神科医に相談し蜿えん蜒えん長蛇たる三時間の議論のすえ跼きよく天てん蹐せき地ちとしながらもあなたを閉鎖病棟に隔離することを蹶けつ起きした。これが結果として不ふ撓とう不ふ屈くつのあなたの運命を豹ひよう変へんさせることとなる。あなたは溟めい濛もうたる隔離病棟内で治療を継続しながらわたしから譲渡された仏ふ蘭らん西す語訳の『アルマデル奥義書』を日本語に翻訳し退院までの三ヶか月げつ以内に白魔術の儀式畢ひつ竟きよう四大天使の召喚法の蘊うん奥おうをきわめたのである。
　あなたはわたしの救済を諦観していなかった。
　多様な抗鬱剤と怜れい悧りなる精神科医の診察によって予定通り三ヶか月げつ間で退院が決定したあなたは家族との燦さん爛らんたる日常生活に復帰したかと考こう覈かくされた。不ふ撓とう不ふ屈くつのあなたは極秘裏に白魔術の研けん鑽さんを継続し四大天使召喚を完遂せんと各種情報網を網羅して結果新潟市内の老朽化したプロテスタント教会の牧師が嘗かつて白魔術の研究に没頭していたという情報を掌握した。須しゆ臾ゆもなく新潟市内の教会へと驀ばく進しんしたあなたは――家族が浄土真宗の檀だん家かであり基き督りすと教きよう徒とではなかったために初対面で相談はできないと揣し摩ま憶おく測そくしていたが――無事くだんの白魔術の蘊うん奥おうをきわめた牧師と邂かい逅こうし此こ処こまでの経緯を説明するとおなじく白魔術の研けん鑽さんをしていたことから意気投合し嘗かつての碩せき学がくたる牧師の経験から白魔術による四大天使の召喚に挑戦することとなった。白魔術においては途中因いん陀だ羅ら網もうの魔法陣によって唯一無二の霊肉を守護してもらう必要があるなど危険なる行為をともなうために一応プロテスタントの儀式によって浄土真宗の檀だん家かであるあなたは基き督りすと教きよう徒ととして洗礼を享受することとした。牧師から灰褐色のローブや蝋ろう燭そくといった道具を準備されあなたは神しん聖せいなる四大天使の召喚に挑戦した。茶褐色の処女羊皮紙に四大天使の刻印を揮き毫ごうしたあなたは魔法陣のなかに彳てき亍ちよくして召喚の儀式を三日間にわたって遂行する。繁はん文ぶん縟じよく礼れいの準備段階を完遂したあなたは追つい儺なの儀式によって魔法陣を強化し摩ま訶か不ふ思し議ぎなる天使召喚の呪文を読どく誦しようした。一遍の読どく誦しようでは四大天使が召喚される気配は皆無であった。不ふ撓とう不ふ屈くつのあなたは獅し子し奮ふん迅じんの精神で計十一回にわたって呪文を読どく誦しようした。
　第十一回目の呪文で世界は豹ひよう変へんした。
　因いん陀だ羅ら網もうの魔法陣のなかで計十一回にわたり呪文を読どく誦しようしたあなたはいつしか琥こ珀はく色いろの穹きゆう窿りゆうの虚空に佇ちよ立りつしていた。逢おう魔ま時どきの天空には黄昏たそがれ色の彩雲が棚引いており天空の最果てには魁かい偉いなる玉座に鎮座した巨大なる人影が存在していた。巨大なる人影の方角から四柱の天使が翺こう翔しようしてきて琥こ珀はく色いろの穹きゆう窿りゆうに彳てき亍ちよくするあなたを囲い繞じようした。四柱の天使は其々ミカエルやラファエルやウリエルやガブリエルと名乗った。嘗かつて聖せい処女に受胎告知したとされるガブリエルがあなたの魂こん魄ぱくに囁ささやきかけてきた。曰いわく全知全能の神霊の御お言こと葉ばによりあなたの冀き求きゆうするところは理解しています。問題はさらに深刻で現在あなたとあなたの恋人は天地開かい闢びやく以来の巨大なる陰謀に捲まき込こまれているらしいのです。あなたの希望どおりあなたの恋人は自由になりましょう。それはこれからおよそ二千五百年後の未来となるためにそれまであなたを不老不死として現世に存在させてあげます。あなたの恋人が自由になったときあなたの生命を代償としてわたしたちに捧ささげてほしいのです。これでわたしたちとあなたとの契約は遂行されますと。
　あなたは蹶けつ起きした。
　おのれの生命を捧ささげてでもわたしを自由にせんとした。