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番外編

その1 鉄仮面の先輩

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*真理愛の先輩社員・日野十和子さん視点のお話


 日野十和子が初めて畠中真理愛に出会ったのは、新緑が眩しい春の終わりだった。
 二人が働くシュエットでは、新入社員は一カ月間の研修期間がある。五日間ほどホテルでマナーなどの研修後、支社でみっちり業務研修をして、本社採用の子たちは、本社にて、それぞれ経理、営業、企画などなど様々な部署へ配属される。
 ゴールデンウィークが開けた最初の日、真理愛が経理課へとやってきた。
 事前に十和子は、上司の椎崎課長から、新人の教育を頼まれていた。どんな子がやって来るのかとても楽しみにしていた。
 真理愛の第一印象は「大きいな」だった。
 十和子は、一五〇センチと小柄だったので、背の高い真理愛は(しかもその時、彼女は八センチのヒールを履いていたので一八〇センチ近くあったのだ)見上げるほど大きかった。
 そして、次に「スタイルがモデル~」だった。
 黒髪をボブカットにしているので、顔の小ささが強調されている。長く厚めの前髪と大きな眼鏡のせいで顔立ちはよく分からなかった。服装も体格にあまりあっていない服装だったが、出るとこは出て引っ込むところは引っ込んでいる、女の理想のような体型をしているのは、なんとなく分かった。あと足が長くて、表情がぴくりとも変化しない。
 そんな男性社員にも負けぬ背の高い後輩に対して、十和子は一生懸命上を見上げて話さねばならず、首が痛くなりそうだと思っていたら、翌日、真理愛はバレーシューズタイプのパンプスで出勤してきた。
 ああ、優しい子なんだなと十和子は、できたばかりの後輩が、とびきり可愛いく思えた。
 デスクが隣同士なので手取り足取り基本的な業務を教える。真理愛は、要領がよく大抵のことは一度で覚え、質問も的確で十和子は「優秀な子が来てくれたなぁ」と喜んだものだった。

「……畠中さん、英語でメモしてるの?」

 それに気付いたのは偶然だった。
 真理愛は、熱心にメモを取ってくれる後輩だった。シュエットでは、紙とペンでもタブレットでもスマホでもなんでも構わないのだが、真理愛はアナログな紙とペン派だった。
 それはメモというより、メモを清書したと思われる小さなノートで真理愛のデスクに広げられていたのだ。
 十時のちょっとした休憩にコーヒーを淹れて来てくれた真理愛は、慌てたようにそのノートを閉じた。

「す、すみません。あの……っ」

 あんまりよく見えない顔なのに、青ざめたのがはっきりと分かってしまうほど、真理愛は動揺していた。
 触れてほしくない話題だったのだと、その青ざめた顔に気づいた。
 どこか壁のある子だというのが、この一週間と少し教育係をしていて感じた印象だった。
 淡々とした口調とぴくりとも動かない表情筋が彼女と周囲の間に高く分厚い壁を作っている。
 仕事に関してはとても丁寧で真面目で、教えを乞うことにも熱心だ。でも、壁の向こうに隠された彼女の心は見せてはくれない。
 今の子は、自分の時間やスペースを大事にするというのだからそれはそれで構わないとは思う。
 でも、真理愛のそれは、自分を大事にしているというよりは、何かに怯えているようで、大丈夫だよと守ってあげたくなってしまう。なんたって十和子は、三人の子の母なのだから、お節介で世話焼きなのだ。ちなみに全員男で、将来の食費が怖い。

「すごーい、畠中さん、もしかして英語ペラペラ? 帰国子女?」

 周りには聞こえないように声をひそめて、けれど、好奇心バリバリなのよという声音で十和子は聞いた。
 真理愛の強張っていた細い肩からほんの少し力が抜ける。

「え、あ……はい。英語じゃなくて、フランス語ですけど……」

「もっとすごいじゃない、ボンジュール!」

「B、Bonjour」

 本格的な発音で返されて、十和子は「すごーい」と素直に思ったことをそのまま言葉にした。

「フランス行きたくなったら畠中さんに連れてってもらえるわね!」

「そ、そうですね。パリにいたので、パリならいくらでも」

「きゃあ、すごい、パリジェンヌ!」

 ぱちぱちと音を立てないように、手だけ動かした無音拍手を送ると、真理愛が、その口元に笑みを浮かべた。

(笑ってるとこ、初めて見たわ!)

 嬉しくなって十和子も笑みを零す。

「ねえ、畠中さん。真理愛ちゃんって呼んでもいい?」

「え?」

 女子高校生みたいなことを言い出した十和子に、真理愛が首を傾げた。

「だって、パリ旅行を案内してもらうくらいに、私は貴女と仲良くなりたいんだもの」

 小さな先輩のために、ぺたんこの靴を履いて来てくれた可愛い後輩を大事にしたいな、と十和子は思った。思ったら即行動、それが十和子の信条である。

「かまいませんが……」

「じゃあ、私のことは十和子って呼んでね。そうそう、コーヒーありがとう」

 デスクの上に置きっぱなしだった冷めてしまったコーヒーを手に取り、十和子は笑う。

「三時の休憩は、私が淹れるね。順番こにしよ」

「分かり、ました。あの……十和子さん、ありがとうございます」

 気恥ずかしそうに俯いてしまった真理愛は、なんだかとても可愛くて十和子は「どーいたしまして」と弾んだ声で返した。
 こうして十和子は、後に鉄仮面と呼ばれるようになる真理愛を唯一「真理愛ちゃん」と呼んで可愛がるお節介な先輩になったのだった。

 ☆

 出社すると、一週間ぶりに可愛い後輩の姿が隣のデスクにあった。

「真理愛ちゃん!」

 十和子は、嬉しくなって駆け出し、彼女に飛びつく。真理愛はとても背が高いので、小柄な十和子を難なく受け止めてくれた。

「真理愛ちゃん、大丈夫?」

 がばりと顔を上げれば、分厚い眼鏡の奥で、ぱちぱちと真理愛が目を瞬かせている。
 真理愛のまつ毛は、黒ではないと気づいたのはいつだっただろうか。少し濃いめのブラウンの睫毛はとっても長くてくるんと上を向いている。これくらいの距離じゃないと気づけないそれを十和子は、十和子の会社と無関係な夫以外誰にも言ったことはなかった。

「すみません、ご心配をおかけしました」

「ううん。真理愛ちゃんが元気であればいいのよ、本当に」

 ぎゅうっと抱き締めれば、とんとんと遠慮がちに真理愛の細い手が十和子の背中を撫でてくれた。
 先週の月曜日、小鳥遊結弦から内密にという言葉を前提に教えられたのは、真理愛がストーカー男に襲われたこと、大きな怪我はないが大事をとって入院していることだった。
 先程みた顔は、頬が少しこけていた。この一カ月近くの心労を思えば、致し方ないのかもしれない。
 真理愛は、とにかく早朝出勤なので、ようやく出勤してきた同僚たちが真理愛と十和子に気づいて賑やかに集まって来る。

「もう大丈夫なの? 心労が祟って風邪をこじらせたんでしょ」

 心配そうに尋ねて来る同僚の佐藤に真理愛が「はい。すみません。もう大丈夫です」と答える。

「そう、よかっ……え!」

 佐藤が声を上げ、十和子は真理愛から離れながら首を傾げる。見れば、他の人たちも、ある一点をじっと見つめていて、いつの間にか加わっていた課長もそれを見ている。十和子も皆が見つめる視線の先に目を向け息を呑む。

「嘘でしょ、真理愛ちゃん!」

 真理愛の左手の指、それも薬指に輝くものがあった。
 逃げようとしたその手を両手で捕まえる。
 ほっそりとして、まるで専門タレントみたいに綺麗な手と指。その左手の薬指に、プラチナの指輪が輝いているたのだ。
 カーブを描き交差するリングの中心には、複雑にカットされたエメラルド、その横にちょこんと小さなダイヤモンドが一粒寄り添っている。
 十和子(と椎崎課長)の脳裏に営業部の王子の顔が浮かぶ。

「畠中さん、結婚するの⁉」

 佐藤が上げた声に真理愛は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。メガネがずれて、真理愛は慌ててそれを右手で押さえている。

「ちがっ、ちがうんです……! これは、練習で、本番じゃなくて、あの、でも、彼がどうしてもって!」

 真っ赤になって否定する真理愛はとても可愛い。
 多分、テンパり過ぎて自分でも何を口走っているのかよく分かっていないのだろう。
 要約すれば、婚約指輪ではないがその予約で、結弦に付けろと言われたといことで間違いない。
 女子にしてみれば、それはもう楽しい話題である。

「畠中さん、恋人いたのね!」

「いえあの、いたというか出来たというか……その前に皆さんにご報告しなきゃいけないことがあって実はストーカーが捕まったんです」

「本当⁉ 良かったわね!」

 課内で拍手が起きて、真理愛が恐縮したようにぺこぺこと頭を下げた。

「もしかして、恋人ってそのストーカーの件でお世話になった刑事さんとか?」

 佐藤が身を乗り出すようにして尋ねる。
 自分を助けてくれた刑事との恋。現実にあるかどうかは知らないが、ドラマや小説なんかでは、ありがちと言えば、ありがちなストーリーだ。

「いえ、あの友人、だった人なんです。ストーカーのことを知って、それで色々と手を貸してくれて……」

 だんだんと真理愛が顔を赤くして俯いてしまった。
 これもまた、危機に際して友人だと思っていた人を恋愛対象として意識して恋人になるというのは、ありがちと言えばありがちなストーリーだが、きゅんきゅんしてしまう。女性陣が小さく悲鳴を上げて、うっとりとしている。

「でもそっか、予約の指輪で婚約指輪じゃないから、ダイヤじゃないのね」

 佐藤が言った。

「は、はい……彼の誕生石です」

 そうなんだぁ、と女子社員がニヨニヨしながら頷く。その中心で真理愛は恥ずかしそうに俯いている。
 経理課には、真理愛を鉄仮面なんて無粋なあだ名で呼ぶ人はいないけれど、今の彼女を見れば、他の課の社員だって誰も鉄仮面なんて言えないだろう。
 それにしても、と握ったままだった真理愛の左手に視線を落とす。
 プラチナ台にダイヤモンドではないとはいえ、大きなエメラルドが輝いている。寄り添うダイヤモンドは小粒だが、どう見たって婚約指輪と言っても差し支えない値段のものに違いない。

「独占欲、強そうだものねぇ」

 十和子は心の中で呟いて、うんうんと頷く。
 真理愛をストーカーから保護したことは表彰に値するし、以前から結弦が真理愛に想いを寄せていて(その辺、彼は女を見る目がある)、真理愛の周りを子犬よろしくうろちょろしていたのは知っている。
 イケメンは、きっと神様に愛されていて、しかもその愛を受け取るタイミングをきちんと見極めているのだろう。あの大きなマンションに連れ込んで愛犬まで使って囲い込み、お抱えの運転手までつけて、恋人になったとたんにこの指輪である。しかも自分の誕生石。
 イケメンはすごいなぁと感心する十和子であるが、後日、真理愛から「お付き合いを始めた三日後に婚姻届けを書かされそうになったけど、同棲を続けることで回避した」という話をされてドン引きすることになるのをまだ知らない。

「でも、何はともあれストーカーが片付いて良かったよ」

 椎崎課長が、ほっと息をもらしながら言った。

「はい。本当に皆さんにはご迷惑と心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました」

 真理愛がすっと綺麗なお辞儀をする。

「困った時はお互い様だよ。それより畠中さん、病み上がりなんだから無理しないようにね」

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」

 そう言って真理愛が微笑んだ。
 野暮ったい眼鏡と髪型で誤魔化されがちだけど、真理愛はよくみれば非常に整った顔立ちをしている。何人かぽーっとしているが、やめたほうがいい。相手は絶世のイケメンなんだぞ、と十和子は心の中で零した忠告と共に生暖かい視線を送った。

「さ、そろそろ始業時間だよ。席に戻った、戻った」

 椎崎課長の一声に皆が席に戻っていく。
 真理愛と十和子も自分のデスクに腰を落ち着け、仕事を始める準備をする。
 ふと隣を見ると、真理愛は左手の指輪を撫でて、淡く微笑んでいた。
 やっぱり秘密ってこの美貌かしらね、と見惚れてしまうほど綺麗な笑みだ。

「十和子さん?」

 十和子の視線に気づいた真理愛が首を傾げる。

「ふふっ、ね、今日こそお昼、一緒に食べましょ」

「……はい」

 十和子の提案に嬉しそうに口元を緩ませた可愛い後輩に、十和子も柔らかな笑みを返すのだった。


おしまい
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