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第三話 零れ落ちたミートボール

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「可愛いですね」

 膝の上に広げたアルバムを見ながら真理愛はぽつりと零す。

「私の天使です」

 そう言ってハンドルを操りながら頷くのは、結弦が真理愛のために紹介してくれた運転手の御影だ。
 エントランスまで迎えに来てくれた御影は、写真で見た通りの温和な雰囲気のイケメンだった。結弦ほどではないが、背が高くすらっとしている。とてもアラフォーには見えない。
 だが、結弦の言っていた通り、三歳の娘さんにメロメロのようで、真理愛が乗り込んだ後部座席には「由愛のアルバム ベストセレクション 1」と表紙に書かれたピンク色のアルバムが置かれていた。
 狭い密室である車内で男性と二人きりというのは、真理愛にとってはかなり苦手なシチュエーションだから、結弦に事情を聴いているであろう御影が配慮してくれたのかもしれないが、このアルバムは、真理愛の緊張を和らげるには絶大な効果を発揮してくれた。

「そろそろ着きますよ」

 車が緩やかに速度を落としていく。
 真理愛の普段の出勤時間より随分と遅い時間なので、当たり前だが社員の姿が大勢見受けられる。
 満員電車を避けるために早朝出勤をしていただけなので、就業時間には余裕で間に合う。ため息をぐっと堪える。真理愛の安全を第一に考えてくれている御影にも結弦にも失礼だ。
 ストーカーは、真理愛と同じ会社の人間であるし、どうやらずっと真理愛の後をつけていたらしいので、出勤時間もバレているだろうと結弦にもその友人の刑事にも言われた。だから、人の少ない早朝ではなく、大勢の人間がいる時間帯に出勤するように言われたのだ。
 結弦は最後まで「やっぱり一緒に行こうよ」と言っていたが、真理愛は女子社員に後ろから刺されたくないので固辞した。
 その結弦は、本日延々取引先への年始の挨拶で真理愛お手製のお弁当が食べられないことにお弁当箱を買いに出かけて、帰宅してしばらくした後、気が付いたため「なんで僕は営業なんだ」と昨晩からずっと嘆きながら真理愛より先に出勤した。
 窓に映る真理愛は、いつもの経理課の鉄仮面だ。黒髪のウィッグに、黒縁の大きな眼鏡。地味で野暮ったい服は、真理愛にとっては戦闘服だ。
 車が止まり、ハザードランプがカチカチと鳴る。

「本日は定時でよろしいですか? ここでお待ちしております」

「はい。お願いします」

 真理愛が頷くと御影が運転席から降りて、真理愛の方に回って、周囲の安全を確認するとドアを開けてくれた。真理愛は、アルバムを傍らに置き、鞄を手に車から降りる。

「では、畠中様、行ってらっしゃいませ」

「行ってきます。ありがとうございました。あの、お気をつけて」

 御影は、ぱちりと目を瞬かせると柔和な笑みを浮かべて「ありがとうございます」と会釈を返してくれた。
 真理愛は、周囲からのチクチクとした視線を案じながら、肩に掛けた鞄の持ち手を握りしめる。
 さっと辺りを見回すが、鮫島の姿はない。顔を覚えていなかった真理愛のために、結弦が鮫島の写真を真理愛に見せてくれたのだ。
 不審な姿はない。真理愛は、急ぎ足でエントランスに入り、首にかけていた社員証を改札に当てて、中へと入り、ようやくほっと息をつくのだった。
 それから更衣室を経由し、ようやく真理愛のテリトリーの経理課にある自分のデスクに着いて、息を吐く。

「真・理・愛・ちゃーん、あけおめー! おっはよー!」

 ぽーんっと肩を叩かれて顔を上げれば、案の定、先輩社員の十和子が今日も溌剌とした笑顔を浮かべていた。

「はぁ、どっこいしょ。冬休みって大変よねぇ。正月って本当にお金がかかるっていうか」

 そうぼやきながら、十和子が隣の席に腰を下ろす。

「あけましておめでとうございます。十和子さん。今年もよろしくお願いします」

「ことよろ、真理愛ちゃん。……ところで、やっぱり真理愛ちゃんは、お嬢様だったの?」

「はい?」

 すこし埃っぽいデスクを拭こうかと考えていた真理愛は、予想外の言葉に間抜けな返事を返した。
 十和子が、目をキラキラさせながら声を潜めて先を続ける。

「今日、なんかすごい車で来てたじゃない! あれ、運転手さん? イケメンね!」

 どうやら真理愛が車で来たのを見ていたようだ、と納得する。
 どうしたものか、と悩んだが十和子は、真理愛にとって大事な先輩だ。それにいつも何くれとなく真理愛を助けてくれている人だ。

「あの……内緒にしてほしいのですが」

 真理愛は少し迷った後、こう切り出した。

「ちょっとつきまとい、えっと、ストーカーにあっていまして」

「ええっ⁉ ストーカー⁉」

「しー! 十和子さん、しー!」

 真理愛は慌てて人差し指を口に当て、何事かと振り返った周りにぺこぺこと頭を下げる。

「その、ストーカーがちょっと粘着質で……それで、危ないので送迎をしてもらうことになったんです」

「ど、どこのどいつなの? うちの可愛い真理愛ちゃんを危険にさらす馬鹿野郎は!」

 十和子の握りしめた拳が震えている。だが、これは恐怖ではない、怒りだ。だって、十和子の顔に浮かぶ笑みが、とっても怖い。目が全然笑っていない。
 周囲が「え? ストーカー?」「畠中さんが?」とざわざわし始める。

「大丈夫です。あの、友人のところに避難していますし、お巡りさんにもちゃんと相談したので。ちょっと危ない人なので、お巡りさんもとても良くして下さっています。でも、もしかしたら十和子さんにもお仕事のことでご迷惑をかけてしまうやもしれなくて」

「これから当分、真理愛ちゃんは定時退社よ!」

 十和子が真理愛の両手をぎゅっと握って小声で宣言した。

「早い時間にお家に帰るのよ。残業なんて課の皆でなんとかするから、そのクソ野郎が捕まるまでは、ぱっときて、さっと仕事して、とっとと帰りなさい。これは先輩命令よ!」

「そ、そんなお仕事はちゃんとしますし……」

「何言ってるのよ。真理愛ちゃんは、うちの子が熱出して私が早退した時とかめちゃくちゃお世話になっているもの。椎崎課長ー、ちょっと、こっちこっち!」

 トイレにでも行っていたのか、ハンカチで手を拭きながらやってきた椎崎課長を十和子が手招きする。どうしました、と首を傾げる椎崎課長に十和子がことのあらましを説明すると気弱な椎崎課長は「ひえぇ」と悲鳴を上げた。
 じわじわと同僚たちが近づいて来る。

「そ、それは大変だ。……当分、畠中さんは、定時で帰りなさいね。危ないと思ったら休んでもいいよ。仕事は課の皆でなんとかしておくから」

「で、でも、そこまでご迷惑をおかけするわけには」

「困った時はお互い様だよ。それにうちの会社は、社員を大事にすることが社長の方針なんだから」

「そうよ。畠中さん、私も協力するからね」

「俺、こう見えて柔道やってたんスよ!」

 いつの間にか集まっていた同僚たちが次々に声をかけてくれる。
 最低限の付き合いしかしていない真理愛なのに、どうしてと困惑していると、椎崎課長が呆れたように笑いながら口を開いた。

「あのね、皆知っているんだよ。畠中さんが、いつも朝早く来てデスク回りや給湯室を自主的に掃除してくれていること」

「そ、それは私、満員電車が苦手なので勝手に早く来ているだけで」

「うん。でも、一番はさ、畠中さん、僕らが困っているとさりげなく手を貸してくれるでしょ? 具合が悪い時とか一番に気づいて声をかけてくれる。家族に何かあった時『すぐに行ってあげてください』って言って仕事を引き受けてくれるだろう。そういうのはね、ちゃんと皆、覚えているよ。君が、男の人が苦手だっていうのも、一緒に仕事をしていれば分かるし、休みに入る前、調子が悪そうだったから心配してたんだ。ストーカーが原因だったんだね」

 そう問われて、反射的に頷いた真理愛に、皆が眉を下げて心配そうな顔をしている。
今の真理愛は、きっと鉄仮面に相応しくない、間抜けな顔をしているだろうと思った。
 誰とも深く関わらず、何物にも揺るがない鉄の仮面をかぶって、感情を殺して生きてきたはずなのに。

「大丈夫だよ。僕らは、畠中さんの味方だから」

 ぐぅっと目の奥が熱くなって、何かが零れそうになるのを必死にこらえる。

「……ありがとう、ございます」

 そう告げた声は、鉄仮面に似つかわしくなく、随分と弱弱しく震えていたのだった。

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