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第二話 ふわふわオムレツからの餅つき(ホームベーカリー)
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「馬鹿ぁ、もう本当に……っ」
真理愛は両手で顔を覆って項垂れていた。
警察署を後にして、結弦のお気に入りだといううどん屋さんで昼ご飯をテイクアウトして、遅い昼食を食べた。今は結弦のマンションの、真理愛に宛がわれた部屋にいた。結弦は、ジャスティンと午後の散歩に出かけた。
真理愛はベッドに突っ伏し、言葉通り頭を抱えていた。
刑事の小森に話をしている間、過去のあれこれを思い出して、訳が分からないくらいに怖くなって、それで泣いてしまったのは真理愛が悪い。
別室にいたはずの結弦がいつの間にか真理愛の隣にいて、大丈夫だと声をかけて、抱き締めてくれた。
やっぱり、何故か、どうしてか結弦はこれっぽっちも怖くないのだ。触られても、隣にいても、顔を覗き込まれるくらい近づかれても、嫌じゃないし怖くない。
「……初めて会った時も、護ってくれたからかな……」
男性社員に殴られそうになった時、颯爽と現れて真理愛と男の間に入り、護ってくれた結弦の背中が真理愛の中には、確かに強く残っている。
「でもだからって、立派な大人があんな、子どもみたいにに甘えるなんて失礼極まりないわ……っ」
結弦が柔らかで穏やかな空気を纏っているから、低く甘やかな声がとびきり優しいから、だから調子がおかしいのだ。
経理課の鉄仮面と呼ばれているはずなのに。それだけ感情が自制できていたはずなのに、結弦の前だとうまくいかない。ウィッグも眼鏡もないからだろうか、と荷物を振り返るが、それらを付けたままの食事の時だって、真理愛は笑っていたのを自覚している
「……お礼って、どこまでしたらいいのかしら。菓子折り? それともお金……は受け取ってくれなさそう」
対人スキルがポンコツな自覚はある。
親友が一人いるだけで他に友人はいない。色々なことを恐れて人とあまり関わってこなかった真理愛には、優しすぎる結弦にどう接すればいいのか分からない。親友に相談しようにも彼女は、アメリカにいて気軽に連絡はできない。
スマホを取り出して、メッセージアプリを起動する。
「メッセージだけでも……でも、心配かけちゃうよね」
連絡先リストの中の親友の名前をタップしようとして、指が止まる。
結弦のことを相談するには、ストーカーのことも話さなければならない。真理愛に対してなかなか過保護な親友は、下手をすれば今すぐとれる一番早い便で日本にやってきてしまうかもしれない。こっちがそうであるように、彼女も年末年始の休暇の真っ最中のはずから余計にだ。
「やめておこ……」
スマホをベッドの上に放り投げ、再びぽすんとベッドに顔をうずめる。
「早くお金を貯めなきゃ……」
真理愛は別に浪費家ではない。
好きなことにお金は使ったりはするが、貯金だってきちんとしている。とはいえ、まだ働き出して三年の貯金は心許ない。
セキュリティがしっかりしているところ、というのは安心を得られるのは確かだが、その分、家賃も高いのだ。引っ越し費用とその後の生活を考えれば、今の貯金額では不安が残る。
いっそ、父と母の下へ行こうか、と弱い心が囁く。
真理愛は、フランスで生まれて、十歳までは向こうで育った。学生の頃は長期休暇はずっと向こうで過ごしていたし、短期とはいえ、バイトも向こうでしていた。
黒と茶色が主な日本で暮らすよりも目立たないし、トラブルも少なかった。何より大好きな両親や祖父母、従兄弟たちもいる。
「それも一つの手よね……」
シュエットで定年退職を目指していたが、なんだかもう息苦しい。
被害届を出した今、犯人が早々に捕まれば幸いだが、長引く可能性もある。そうなれば、やはりフランスに帰るというのも、選択肢の一つに入れておかなければならない。
「とりあえず今は、片付けをしないと……」
もやもやぐるぐると渦巻く不安を抱えたまま、真理愛は立ち上がる。
取り急ぎ、真理愛のマンションの部屋から運んできた衣類や下着をクローゼットにしまっていく。それが終わったら、キッチンへ移動して調理器具や調味料、保存食などをしまっていく。運んでもらった観葉植物たちもどうにかしなければ、と真理愛は手を動かしながら独り言を零す。
「ただいまー」
「わん!」
聞こえてきた声に。手に持っていた自家製の梅干しの入ったタッパーを冷蔵庫に入れ、玄関へと向かう。
髪を耳にかけながら「おかえりなさい」と、声をかける。
朝と同じジャージ姿の結弦が、ジャスティンのリードやハーネスを外している。外されたそれをジャスティンは大きな口で咥えると、シューズクローゼットにしまいに行った。
「すごいですね」
「ジャスティンは、警察犬として頭は良かったんだよ。ただ、人懐こ過ぎたのか、犯人役の人に噛みつかなかったんだよね、どうやっても」
結弦が戻ってきたジャスティンの頭を撫でながら苦笑を零す。
ジャスティンは、楽しかったよとでもいうように真理愛にすり寄って来て、その大きな頭を両手でわしゃわしゃと撫でる。ふさふさのしっぽがばさばさと忙しなく左右に揺れる。
ジャスティンは、すぐにひっくりかえってお腹を見せてくる。撫でてあげてと結弦に言われて、真理愛がしゃがみこんで、そのお腹を撫でている間に、結弦はジャスティンの足の裏を手早く拭いた。
「ねえ、真理愛さん。今夜は、ピザを取ってもいいかな? 今日は疲れたでしょう? だからご飯食べて、お風呂に入ってっさっさと寝よう」
「で、でもご飯を作るとお約束したのに……」
「うん、それはめちゃくちゃ楽しみなんだけど……ほら、僕んちなにもないし」
結弦がバツが悪そうに頬を指で掻く。ジャスティンが起き上がってお座りをする。
真理愛の部屋から、冷蔵庫の中身を持ってきたとはいえ、買出しに行こうと思っていたその日にストーカーのあれこれがあって、梅干しやぬか漬けといった保存食以外は、ほんの少しの野菜くらいしかなかった。真理愛一人分ならともかく、結弦の分までとなると買出しにいかなければ、間違いなく足りないだろう。なにせ主食となる米すらないのだ。
「それに食器類もないしね」
「確かに……今日は無理かもしれませんね」
そうだった。この家には、食器というものがないのだ。あるのは丸皿とご当地マグカップだけ。その丸皿もオムレツを乗せるにも少し小さいもので、料理を作っても載せるところがない。その上、お椀や小鉢、茶碗といったもの、そもそも箸やスプーンと言ったカトラリーも不足している。
「結弦さん、本当にどんな生活をしていたんですか?」
昨夜、冷蔵庫を開けた時から、度々、同じ疑問が浮かびすぎて口に出ていた。
食の部分においてのみ、生活感が皆無なだけで生活感がないわけではない。だが、料理が好きで、食に重点を置いて生きている真理愛からすると、結弦のその部分はなかなか理解しがたいものがあった。
「まあ、ほら! 僕元気だし! それより明日の朝は、近くにいい喫茶店があるからそこでモーニングを食べて、買出しに行こうよ。明日は忙しいよ!」
あからさまに話を逸らす彼は、子どもみたいだと可笑しくなってくすくすと笑いが零れる。ぎろり、と恨めしげに睨まれたが怖くもなんともなくて、ますます笑みが零れる。
すると、彼もぷっと噴き出して二人分の笑いが玄関に広がる。
ジャスティンが二人の間で、首を傾げている。でも、大好きなご主人様が笑っているからか、彼の尻尾は楽しそうに揺れている。
「荷ほどき手伝うよ。本とか、リビングの本棚に並べるくらいは出来るから」
照れくさそうに眉を下げながら結弦が立ち上がる。真理愛もそれに倣って立ち上がった。
真理愛のレシピ本コレクションを持っていきたいと言ったのは、結弦だった。一時避難なので、大量の本は荷物になるから置いて行こうとしたのだが、真理愛に料理を教わって、料理をしてみたいからと説得されたのだ。
ちなみに真理愛の部屋は、レンタル倉庫を借りて残りの荷物や家具家電はそこに運び込んで解約することにした。ストーカーに家がバレてしまった以上は、例え今後、ストーカーが逮捕されても住んでいたくはない。不動産屋にも管理人さんにも連絡済みである。
「僕も読んでいいかな? 料理ってしてみたかったんだよね」
リビングへ歩き出しながら結弦が言った。
「本当に一度も料理をしたことないんですか?」
「僕の家には、家政婦さんがいたからね。彼女たちの仕事を奪うのも申し訳なかったなんだよね。それに僕の父は、時代に取り残された人だから、男が台所に入るのをすごく嫌がってね。家政婦さんたちも雇い主の命令は絶対だからさ」
「そうなんですね……でも、学校で調理実習がありませんでした? 小学校と中学校は義務教育ですから、家庭科は必須だったと思うんですが」
「いやぁ……それがさぁ……女の子たちがね、はりきっちゃって」
結弦はどこか遠い目で思い出のページをめくっている。
その場面は、彼の子ども時代を知らない真理愛でもたやすく想像ができた。間違いなく美少年だったのだろう「結弦くん」を取り合う女子の図だ。女の戦いは、年齢に関わらず熾烈なのだ。
「『結弦くんは、そこで見てて!』って言われて、やらせてもらえなかったんだよね。とはいえ、普段、料理なんてしない子ばっかりだったから、出来は、まあね、うん」
大きな手がお腹をさする。
多分、生焼けだったり、生だったりしてお腹を壊したんだろう。でも、それでも食べたんだな、と彼の優しさに気付いてしまう。
「そして、二十八年間、料理をしたことのない成人男性ができてしまったんだよね」
「今からでも大丈夫ですよ。結弦さん、器用そうですし……多分」
仕事はできる男なのは間違いないが、料理にまでそれが反映されるのかは分からない。
「じゃあ、何か教えて欲しいな。僕でもできそうな、覚えていると助かるやつ!」
キラキラと顔を輝かせて結弦が真理愛を振り返る。
真理愛は、顎に手を添え、うんうんと悩んで悩んで、一つだけ覚えていて損はない、むしろ、得しかないものを思い付いた。
「分かりました。では、まず……お米を炊くことを覚えましょう。お米さえ炊ければ、おかずを買ってくるだけで完璧です。なんだったら、卵を掛けたり、ふりかけをかけたりしても立派な一品になりますから」
両手をぐっと握って力説した。
結弦さんは「なるほど! 朝ごはんを和食にできるね!」と嬉しそうに笑ったのだった。
真理愛は両手で顔を覆って項垂れていた。
警察署を後にして、結弦のお気に入りだといううどん屋さんで昼ご飯をテイクアウトして、遅い昼食を食べた。今は結弦のマンションの、真理愛に宛がわれた部屋にいた。結弦は、ジャスティンと午後の散歩に出かけた。
真理愛はベッドに突っ伏し、言葉通り頭を抱えていた。
刑事の小森に話をしている間、過去のあれこれを思い出して、訳が分からないくらいに怖くなって、それで泣いてしまったのは真理愛が悪い。
別室にいたはずの結弦がいつの間にか真理愛の隣にいて、大丈夫だと声をかけて、抱き締めてくれた。
やっぱり、何故か、どうしてか結弦はこれっぽっちも怖くないのだ。触られても、隣にいても、顔を覗き込まれるくらい近づかれても、嫌じゃないし怖くない。
「……初めて会った時も、護ってくれたからかな……」
男性社員に殴られそうになった時、颯爽と現れて真理愛と男の間に入り、護ってくれた結弦の背中が真理愛の中には、確かに強く残っている。
「でもだからって、立派な大人があんな、子どもみたいにに甘えるなんて失礼極まりないわ……っ」
結弦が柔らかで穏やかな空気を纏っているから、低く甘やかな声がとびきり優しいから、だから調子がおかしいのだ。
経理課の鉄仮面と呼ばれているはずなのに。それだけ感情が自制できていたはずなのに、結弦の前だとうまくいかない。ウィッグも眼鏡もないからだろうか、と荷物を振り返るが、それらを付けたままの食事の時だって、真理愛は笑っていたのを自覚している
「……お礼って、どこまでしたらいいのかしら。菓子折り? それともお金……は受け取ってくれなさそう」
対人スキルがポンコツな自覚はある。
親友が一人いるだけで他に友人はいない。色々なことを恐れて人とあまり関わってこなかった真理愛には、優しすぎる結弦にどう接すればいいのか分からない。親友に相談しようにも彼女は、アメリカにいて気軽に連絡はできない。
スマホを取り出して、メッセージアプリを起動する。
「メッセージだけでも……でも、心配かけちゃうよね」
連絡先リストの中の親友の名前をタップしようとして、指が止まる。
結弦のことを相談するには、ストーカーのことも話さなければならない。真理愛に対してなかなか過保護な親友は、下手をすれば今すぐとれる一番早い便で日本にやってきてしまうかもしれない。こっちがそうであるように、彼女も年末年始の休暇の真っ最中のはずから余計にだ。
「やめておこ……」
スマホをベッドの上に放り投げ、再びぽすんとベッドに顔をうずめる。
「早くお金を貯めなきゃ……」
真理愛は別に浪費家ではない。
好きなことにお金は使ったりはするが、貯金だってきちんとしている。とはいえ、まだ働き出して三年の貯金は心許ない。
セキュリティがしっかりしているところ、というのは安心を得られるのは確かだが、その分、家賃も高いのだ。引っ越し費用とその後の生活を考えれば、今の貯金額では不安が残る。
いっそ、父と母の下へ行こうか、と弱い心が囁く。
真理愛は、フランスで生まれて、十歳までは向こうで育った。学生の頃は長期休暇はずっと向こうで過ごしていたし、短期とはいえ、バイトも向こうでしていた。
黒と茶色が主な日本で暮らすよりも目立たないし、トラブルも少なかった。何より大好きな両親や祖父母、従兄弟たちもいる。
「それも一つの手よね……」
シュエットで定年退職を目指していたが、なんだかもう息苦しい。
被害届を出した今、犯人が早々に捕まれば幸いだが、長引く可能性もある。そうなれば、やはりフランスに帰るというのも、選択肢の一つに入れておかなければならない。
「とりあえず今は、片付けをしないと……」
もやもやぐるぐると渦巻く不安を抱えたまま、真理愛は立ち上がる。
取り急ぎ、真理愛のマンションの部屋から運んできた衣類や下着をクローゼットにしまっていく。それが終わったら、キッチンへ移動して調理器具や調味料、保存食などをしまっていく。運んでもらった観葉植物たちもどうにかしなければ、と真理愛は手を動かしながら独り言を零す。
「ただいまー」
「わん!」
聞こえてきた声に。手に持っていた自家製の梅干しの入ったタッパーを冷蔵庫に入れ、玄関へと向かう。
髪を耳にかけながら「おかえりなさい」と、声をかける。
朝と同じジャージ姿の結弦が、ジャスティンのリードやハーネスを外している。外されたそれをジャスティンは大きな口で咥えると、シューズクローゼットにしまいに行った。
「すごいですね」
「ジャスティンは、警察犬として頭は良かったんだよ。ただ、人懐こ過ぎたのか、犯人役の人に噛みつかなかったんだよね、どうやっても」
結弦が戻ってきたジャスティンの頭を撫でながら苦笑を零す。
ジャスティンは、楽しかったよとでもいうように真理愛にすり寄って来て、その大きな頭を両手でわしゃわしゃと撫でる。ふさふさのしっぽがばさばさと忙しなく左右に揺れる。
ジャスティンは、すぐにひっくりかえってお腹を見せてくる。撫でてあげてと結弦に言われて、真理愛がしゃがみこんで、そのお腹を撫でている間に、結弦はジャスティンの足の裏を手早く拭いた。
「ねえ、真理愛さん。今夜は、ピザを取ってもいいかな? 今日は疲れたでしょう? だからご飯食べて、お風呂に入ってっさっさと寝よう」
「で、でもご飯を作るとお約束したのに……」
「うん、それはめちゃくちゃ楽しみなんだけど……ほら、僕んちなにもないし」
結弦がバツが悪そうに頬を指で掻く。ジャスティンが起き上がってお座りをする。
真理愛の部屋から、冷蔵庫の中身を持ってきたとはいえ、買出しに行こうと思っていたその日にストーカーのあれこれがあって、梅干しやぬか漬けといった保存食以外は、ほんの少しの野菜くらいしかなかった。真理愛一人分ならともかく、結弦の分までとなると買出しにいかなければ、間違いなく足りないだろう。なにせ主食となる米すらないのだ。
「それに食器類もないしね」
「確かに……今日は無理かもしれませんね」
そうだった。この家には、食器というものがないのだ。あるのは丸皿とご当地マグカップだけ。その丸皿もオムレツを乗せるにも少し小さいもので、料理を作っても載せるところがない。その上、お椀や小鉢、茶碗といったもの、そもそも箸やスプーンと言ったカトラリーも不足している。
「結弦さん、本当にどんな生活をしていたんですか?」
昨夜、冷蔵庫を開けた時から、度々、同じ疑問が浮かびすぎて口に出ていた。
食の部分においてのみ、生活感が皆無なだけで生活感がないわけではない。だが、料理が好きで、食に重点を置いて生きている真理愛からすると、結弦のその部分はなかなか理解しがたいものがあった。
「まあ、ほら! 僕元気だし! それより明日の朝は、近くにいい喫茶店があるからそこでモーニングを食べて、買出しに行こうよ。明日は忙しいよ!」
あからさまに話を逸らす彼は、子どもみたいだと可笑しくなってくすくすと笑いが零れる。ぎろり、と恨めしげに睨まれたが怖くもなんともなくて、ますます笑みが零れる。
すると、彼もぷっと噴き出して二人分の笑いが玄関に広がる。
ジャスティンが二人の間で、首を傾げている。でも、大好きなご主人様が笑っているからか、彼の尻尾は楽しそうに揺れている。
「荷ほどき手伝うよ。本とか、リビングの本棚に並べるくらいは出来るから」
照れくさそうに眉を下げながら結弦が立ち上がる。真理愛もそれに倣って立ち上がった。
真理愛のレシピ本コレクションを持っていきたいと言ったのは、結弦だった。一時避難なので、大量の本は荷物になるから置いて行こうとしたのだが、真理愛に料理を教わって、料理をしてみたいからと説得されたのだ。
ちなみに真理愛の部屋は、レンタル倉庫を借りて残りの荷物や家具家電はそこに運び込んで解約することにした。ストーカーに家がバレてしまった以上は、例え今後、ストーカーが逮捕されても住んでいたくはない。不動産屋にも管理人さんにも連絡済みである。
「僕も読んでいいかな? 料理ってしてみたかったんだよね」
リビングへ歩き出しながら結弦が言った。
「本当に一度も料理をしたことないんですか?」
「僕の家には、家政婦さんがいたからね。彼女たちの仕事を奪うのも申し訳なかったなんだよね。それに僕の父は、時代に取り残された人だから、男が台所に入るのをすごく嫌がってね。家政婦さんたちも雇い主の命令は絶対だからさ」
「そうなんですね……でも、学校で調理実習がありませんでした? 小学校と中学校は義務教育ですから、家庭科は必須だったと思うんですが」
「いやぁ……それがさぁ……女の子たちがね、はりきっちゃって」
結弦はどこか遠い目で思い出のページをめくっている。
その場面は、彼の子ども時代を知らない真理愛でもたやすく想像ができた。間違いなく美少年だったのだろう「結弦くん」を取り合う女子の図だ。女の戦いは、年齢に関わらず熾烈なのだ。
「『結弦くんは、そこで見てて!』って言われて、やらせてもらえなかったんだよね。とはいえ、普段、料理なんてしない子ばっかりだったから、出来は、まあね、うん」
大きな手がお腹をさする。
多分、生焼けだったり、生だったりしてお腹を壊したんだろう。でも、それでも食べたんだな、と彼の優しさに気付いてしまう。
「そして、二十八年間、料理をしたことのない成人男性ができてしまったんだよね」
「今からでも大丈夫ですよ。結弦さん、器用そうですし……多分」
仕事はできる男なのは間違いないが、料理にまでそれが反映されるのかは分からない。
「じゃあ、何か教えて欲しいな。僕でもできそうな、覚えていると助かるやつ!」
キラキラと顔を輝かせて結弦が真理愛を振り返る。
真理愛は、顎に手を添え、うんうんと悩んで悩んで、一つだけ覚えていて損はない、むしろ、得しかないものを思い付いた。
「分かりました。では、まず……お米を炊くことを覚えましょう。お米さえ炊ければ、おかずを買ってくるだけで完璧です。なんだったら、卵を掛けたり、ふりかけをかけたりしても立派な一品になりますから」
両手をぐっと握って力説した。
結弦さんは「なるほど! 朝ごはんを和食にできるね!」と嬉しそうに笑ったのだった。
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