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第一話 降り注ぐカレーうどん
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医務室から戻り、遅れてしまったことを詫びると椎崎課長を始め、同僚たちが災難だったねと声を掛けてくれた。
真理愛は、お礼を言ったり、謝ったりしながら漸く席に着く。
「真理愛ちゃん、災難だったわね、大丈夫?」
ふぅ、と息を吐いたところで隣から声を掛けられて顔を上げる。
日野十和子は心配そうに、けれど、好奇心を抑えきれないといった様子だった。彼女は、真理愛より大分年上で、そのふわんとした見た目とは裏腹に無理難題を笑顔で捌き、バリバリと仕事をこなすベテランであり、三人の子を持つ母でもある。新人の頃の真理愛の教育係も務めてくれた人でもあった。
「ありがとうございます、大丈夫です。小鳥遊さんがとても誠実に対応して下さったので」
「そうみたいね。そのワンピース、小鳥遊くんが?」
「はい、下のショップで買って来てくれたんです」
真理愛の答えに十和子は椅子を引いて少し距離を取り、全体を見る。そして、何かに納得したのか、ふふっと笑いながら戻って来た。
「うん、似合ってるわ。真理愛ちゃん、スタイルがとてもいいのね。とっても似合うわよ。背が高いからモデルさんみたい」
「いえ、そんなことは……」
「あ、椎崎課長がそわそわしながらこっち見てる」
ふふっと笑いながら十和子が仕事へ戻る。ちらりと見た先で椎崎課長が言葉通り、そわそわしていたので軽く頭を下げて真理愛もパソコンの画面に顔を向ける。直接、注意ができない所が気の弱い椎崎課長らしい。
とりあえず今日は目の前の仕事を片付けて、お財布だけは返してもらわなければならない。そう自分に言い聞かせて、真理愛は数字との格闘を始めるのだった。
やっぱり今日は、運勢最悪の厄日なのだと真理愛は、何とか溜め息を呑み込んだ。
目の前には、本日真理愛がカレーうどんを被ることになった原因を作った水原姫奈が二人の取り巻きを連れて立ちはだかっていた。
彼女たちは、日本人女性の平均身長なので、睨まれていても自然と見下ろす形になってしまう。それが余計に人の怒りを煽ってしまうのだが、しゃがむわけにもいかないので、難しい。
既にお互い帰り支度は終えている。更衣室を出て、エレベーターにむかう途中で声を掛けられ、休憩室に連れてこられたのだ。
可愛らしいコートに身を包んだ彼女らは、真理愛のコートの下を透視しようとしているのではないかというくらいに凝視している。
「……何か、ご用ですか?」
淡々と真理愛は首を傾げた。肩の上で切りそろえられた黒髪がさらりと揺れた。
「用ですって? あなた、あの後、小鳥遊さんに抱えられて医務室に行った上、服まで買ってもらったとか」
「……」
無言で先を促すように彼女を見下ろす。
これでもかと盛られたまつ毛にグロスによって輝くぽってりとした唇。計算し尽くされた位置に乗せられたチーク。ラメによって輝く瞼は、芸術的なグラデーションだ。
地味であることをモットーとしているため薄化粧になりがちな真理愛とは違う、女性らしく可愛く綺麗に見えるように研究しつくされたメイクだ、と暢気な感想を抱く。いや、分かっている。これは現実逃避だ。
「経理課の鉄仮面の分際で、小鳥遊さんの手を煩わせるなんて、ちゃんと断りなさいよ」
「っていうか、どうせ小鳥遊さんに無理やり買わせたんじゃない? 弁償しろとか言って」
「さすがは厚かましい鉄製の面の皮ね」
平和主義者の真理愛も、これはイラっとする。そもそもは、水原が起こした事故だ。カレーうどんを被った真理愛も、真理愛にカレーうどんをかけた小鳥遊も悪くない。
もしもメイク落とし(ウェットティッシュタイプ)が真理愛の手の中にあったら、目の前の女の顔を綺麗さっぱりぬぐってやるのに、と真理愛はメガネの奥で目を細めた。
「お話はそれだけでしょうか?」
「はぁ?」
マスカラで武装されたまつ毛がぱちりと瞬く。
「友人と約束があるので、ご用がないのでしたら失礼いたします」
真理愛は、会釈して、彼女たちの間をすり抜ける。颯爽と歩き出すが、後ろから「待ちなさいよ!」と呼び止める声がする。
真理愛は、潔く聞こえなかった振りをして、さっさとエレベーターに乗り込む。ラッキーなことに水原たちが乗り込む隙間はなくドアが閉まり、鉄の箱は勢いよく下降していく。エレベーターから降りたら、エントランスを通り抜けて、外へ出た。
幸い、明日からは年末年始の休暇に入る。その間に綺麗さっぱり忘れてほしい。
帰路に着く人波から外れた街路樹の下で、ポケットから取り出したスマホに視線を落とし、メッセージアプリを確認して溜め息を零す。
「……食費を見捨てることはできないわ」
ぽつりと呟き、気合を入れて顔を上げる。
小鳥遊からお財布を返したいという旨で連絡がきたのは、午後の休憩時間だった。
いっそ、その食費が洋服代にならないかな、とも思ったが真理愛の節約に慣れ親しんだ食費では、このワンピースは絶対に買えない。小鳥遊が損をするだけである。
故に真理愛は、とりあえず食費は食費ということで返してもらおうと決意し、小鳥遊から提示された待ち合わせ場所と時間に了解の返事を送ったのだ。
まずはコンビニに寄ってお金をおろし、それから待ち合わせ場所でワンピース代とクリーニング代を渡して、お財布を返してもらう。そうしてさっさと帰る。
「年末年始は引きこもり三昧よ、真理愛」
自分を鼓舞するように拳を握りしめ、真理愛は力強く一歩を踏み出したのだった。
コミュニケーション能力に難ありの人見知りが、営業成績トップのエリートに勝てるわけがないと思い知ったのは、終業後「お財布を返すよ」と呼び出された喫茶店でお財布を返してもらったのに、洋服代を聞いてもはぐらかされ、気が付いたら隠れ家的イタリアンレストランにて、向かいの席に座る小鳥遊が満足げに笑っていた時だった。
「ここなら、半個室でプライバシーも守られるから安心して。それに何より美味しいんだよ。好きなだけ食べてね」
「…………はい」
もうどうすることも出来なくて、真理愛は仕方なしに頷いた。
小鳥遊に連れてこられたイタリアンレストランは、観葉植物とパーテションでテーブルがそれぞれ区切られていて、彼の言う通り半個室になっている。
真理愛に向けてメニューが開かれる。
「お酒は飲める?」
「苦手なので……すみません」
「大丈夫、僕もあんまり強くないんだ。だから飲まされないように車出勤なんだよ。あ、嫌いなものはある?」
「とくにはないです」
「そっか。じゃあコースと、好きなのを好きなだけ頼むのどっちがいい?」
メニューに視線を落としながら彼の言葉に悩む。
コースも気になるが、どれもこれも美味しそうだ。ドルチェの種類も豊富で魅力的だ。さきほど席に案内された時にすれ違ったウェイターが運んでいたティラミスがとても美味しそうだった。だが、他のものも楽しみたい欲求がむくむくと湧き出て来る。
「……ボロネーゼ、食べてみたいです。あと、三種類のドルチェが楽しめるプレートも」
「了解。ここのボロネーゼは本当に美味しいよ。じゃあ、あとは僕がおすすめを頼んでもいいかな?」
お願いします、と告げると小鳥遊がウェイターを呼ぶ。
「食前酒はなしで、お酒は飲まないから炭酸水で。アンティパストはカプレーゼ、プリモ・ピアットはボロネーゼとジェノベーゼとマルゲリータ、セコンド・ピアットは……そうだなぁ、今日はアクアパッツァにしようかな。食後にエスプレッソとこの三種のドルチェのプレートとマチェドニア。以上でお願いします」
すらすらと流れるような注文に感心してしまう。ウェイターが下がるとほどなくして、カプレーゼが運ばれてきて、取り皿が用意される。真理愛が動くより先に小鳥遊がさっと取り分けてくれる。
見た目ももちろんだが、この細やかな気配りがより一層、モテる要因かも知れない。
「ここのモッツァレラ、ミルキーで凄く美味しいんだよ。食べてみて」
「はい。……いただきます」
まずは手を合わせて、それから勧められるままにフォークを手に取り、真っ赤なトマトと白いモッツァレラ、バジルを口へと運ぶ。バジルの爽やかな香り、ついでトマトの程よい酸味と甘みが口いっぱいに広がり、ミルキーな口当たりのモッツァレラがそれを追いかけて来る。オリーブオイルもしつこ過ぎず、コクを添えて黒コショウのアクセントがたまらない。
「……おいしい」
思わず顔が綻んでしまうのが抑えきれない。
シンプルな料理だからこそ、一つ一つの素材が丁寧に選び抜かれているのが分かる。
「口にあったみたいで、良かったよ」
自分のお皿に取り分けながら小鳥遊が言った。
それから続々と料理が運ばれてくる。どれもこれも本当に美味しくて、小鳥遊がジェノベーゼも少し取り分けてくれた。エリート営業マンの小鳥遊の話術は巧みでなかなか表情を引き締めるのが難しく、時々、思わず笑ってしまうこともあった。
「畠中さんは、本当に美味しそうに食べるね」
マルゲリータにぱくりと噛みついた真理愛を見ながら小鳥遊が言った。
口の中にものが入っていて返事ができず、焦ったようにもぐもぐすると小鳥遊が慌てて「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。その言葉に甘えて、トマトソースと生地が美味しいピッツァを堪能し、炭酸水で口を潤す。
「……食べることは好きです。がっつき過ぎていたでしょうか」
「まさか。僕も食べるのが好きだから、こんなに美味しそうにたくさん食べてくれたら嬉しいよ。具合が悪いならともかく、一緒に出掛けた先でダイエット中だからって言って残されるのは、ちょっとね」
「あれは私も苦手です。自分で注文したものを残すのが……作ってくれた人にも食材にも迷惑だし、失礼だと思うんです。それに美味しいものは、いっぱい食べるとその分、幸せになれます」
ぱちりと目を瞬かせた小鳥遊がふわっと笑みをこぼす。
子どもみたいな無邪気な笑顔の威力はすさまじく、きらきらとイケメンパウダーが舞うのが見えた。
「ふふっ、確かに僕も今、幸せだ。畠中さんは?」
「そうですね……美味しいので幸せです」
真理愛は、真面目に答えた。お世辞でも何でもなく本当にそう感じていた。パスタもピッツァも本当に美味しくて、これからやってくるアクアパッツァもドルチェも楽しみだ。
「お待たせいたしました、旬のキンメダイとアサリのアクアパッツァでございます」
タイミングよく、アクアパッツァが運ばれてきてテーブルに置かれる。
美味しそうなキンメダイが堂々と真ん中に鎮座し、周りでぷりぷりのあさりがぱかりと貝を開いている。ニンニクとハーブの良い香りが鼻先を撫でて、見た目と匂いだけでも美味しい。
「見て下さい、小鳥遊さん。幸せが目視できます」
「ははっ、そうだね。なら早速、美味しい内に食べよう」
軽やかな笑い声に、はしゃぎ過ぎてしまったと反省したのは、一瞬で、小鳥遊が脂の乗ったキンメダイを切り分け、取り皿に乗せてくれた時には真理愛の意識は全てキンメダイに向けられていた。
はいどうぞ、と差し出されたお皿を受け取って、早速、フォークで切り分け口へと運ぶ。
キンメダイの美味しさが最大限に引き出され、そこに一緒に煮込まれたトマトの旨味が加わり、ニンニクとハーブの香りが口いっぱいに広がる。正に幸せだ。
「美味しいね」
小鳥遊の言葉に真理愛は、こくこくと精一杯、頷いた。
アクアパッツァを堪能し、真理愛がアサリを貝から外していると、小鳥遊が急に少し強張った表情で口を開いた。
「僕、一度、こうやって畠中さんとゆっくり話してみたかったんだ。今日は強引に誘ってごめんね。……それと帰り際、水原さんたちに囲まれていたのも助けられなくて、ごめん」
予想外の言葉に眼鏡の奥で目を瞬かせる。
「……見ていたんですか?」
「僕も丁度、帰るタイミングだったんだ。間に入ろうかと思ったんだけど……こじれるかな、と」
「ありがとうございます」
真理愛は思わずお礼を言っていた。
だが、小鳥遊の判断には感謝しかない。万が一、小鳥遊が間に入って来ていたら、年明けも真理愛は、あの人たちに難癖をつけられていたに違いない。
「女同士のいざこざに男性が参加するとあまりいい結果にはなりませんから。英断です。ありがとうございます」
小鳥遊は、虚をつかれたような顔をしていたが、ぷっと噴き出して安心したように笑いだした。
「やっぱり、こうやって君と話す時間がもてたことは嬉しいな。畠中さんの仕事はいつも丁寧で迅速で、対応も真面目で、すごく良い子なんだろうなって思って、こうしてゆっくり話がしてみたかったんだ。……でも、もしかして男が苦手なのかなって」
真理愛が黙っていると、困ったように眉を下げた小鳥遊が先を続ける。
「女性社員相手にはそうでもないけど、男性社員が相手だとちょっと緊張しているっていうか、身構えているみたいだったし、最初の頃は僕のこともかなり身構えていただろう? だから苦手なのかなって。ああ、違ったらごめんね」
ぱちり、ぱちり、と目を瞬かせる。
こんな鉄仮面と呼ばれているような女の機微に気付くなんて、やはり社内一、モテる男は違うなといっそ感動する。
「態度に出していたつもりはなかったのですが……その、昔、色々とあって苦手なんです」
「なら、今、僕と居るのも嫌かな? 早く帰りたい? 会社にいる時は、あんまり僕と一緒にいたくないみたいだったから」
その問いかけに真理愛は首を傾げつつ考える。貝から外したアサリをぱくりと食べ、ゆっくり咀嚼しながら考えをまとめた。ふっくらとしたアサリはとても美味しい。
「嫌、ではないです。……小鳥遊さんは、どうしてか怖くないので平気です。お仕事も丁寧ですし、領収書もきちんと管理して下さっていますし……ただ、私は目立つのが苦手なんです。こう言ったら失礼かも知れませんが、小鳥遊さんはとてもモテますからお話しているだけでも目立つでしょう? でも、だからこそこうして一緒にお食事ができるのかもしれないです」
「……それは、どういう意味か聞いても?」
「小鳥遊さんほどおモテになる方でしたら、よりどりみどりでしょうから、私みたいな地味な女は相手にならないでしょう? その点が安心できると言うか……」
何故か小鳥遊が頬を引き攣らせ、両手で顔を覆うと項垂れてしまった。
「……どうしました?」
「まさか、ここまで全然、伝わってないとは……僕、割と露骨だったと思うんだけどなぁ」
ぼそぼそと何事かを呻いている小鳥遊に真理愛はおろおろと視線を彷徨わせる。
だが、少しして顔を上げた小鳥遊は、ふっと笑って首を横に振った。
「僕は未熟だったみたい。まだまだ頑張らないといけないね。なかなか手強い相手みたいだから」
「小鳥遊さんでも苦戦される相手なんですね。でも、営業成績ナンバーワンの小鳥遊さんならきっと契約が取れると思います」
何でいきなり仕事の話になったのだろうと思いつつ、心からそう思っているので、両手をぎゅっと握って拳を作り応援する。
小鳥遊は、何とも言えない顔をしていたが、ドルチェが運ばれてきて空気が変わる。
白い大きな丸皿にティラミスとパンナコッタ、ジェラートがフルーツやソースに彩られて並んでいる。そして小さなカップには濃いエスプレッソ。香ばしい匂いは好きなのだが、少し苦手な飲み物だ。
「エスプレッソは砂糖を入れても苦くて、苦手です」
「それは砂糖が足りてないんだよ。最低でもこれくらいいれなきゃ」
そう言って小鳥遊は砂糖をティースプーンに山盛り三杯もたっぷりと入れた。真理愛は、おそるおそるそれを真似る。ぐるぐるとよくかき混ぜて、口を付ける。
すると今までとまるで違った美味しさに目を瞠る。
「チョコレートみたいです」
「良かった。デザートも食べようか、僕のも食べてみる? マチェドニアは、イタリアのフルーツポンチみたいなものだよ。お酒の香りはするけど、ここのはノンアルコールワインを使っているから安心してね」
綺麗なガラスの器に入れられたマチェドニアは、苺やキウイ、オレンジとパイナップルと様々なフルーツが小さくカットされている。欲に負けて素直にスプーンを伸ばす。
苺を捕まえて口に運ぶ。
ふんわりとワインの香りが抜けていき、少し甘めのシロップが甘酸っぱいフルーツによく合っている。
多分、もうどうにもならないから頬が緩むのを引き締めるのを諦めた。
「美味しいです」
「可愛いなぁ」
「はい。苺とかキウイとかカラフルで、宝石箱みたいですね」
「……そっちじゃないんだけど、まあいいや。ほら、ジェラートが溶けない内に食べないと」
そう促されて、はっと我に返った真理愛は、慌ててジェラートにスプーンを伸ばしたのだった。
真理愛は、お礼を言ったり、謝ったりしながら漸く席に着く。
「真理愛ちゃん、災難だったわね、大丈夫?」
ふぅ、と息を吐いたところで隣から声を掛けられて顔を上げる。
日野十和子は心配そうに、けれど、好奇心を抑えきれないといった様子だった。彼女は、真理愛より大分年上で、そのふわんとした見た目とは裏腹に無理難題を笑顔で捌き、バリバリと仕事をこなすベテランであり、三人の子を持つ母でもある。新人の頃の真理愛の教育係も務めてくれた人でもあった。
「ありがとうございます、大丈夫です。小鳥遊さんがとても誠実に対応して下さったので」
「そうみたいね。そのワンピース、小鳥遊くんが?」
「はい、下のショップで買って来てくれたんです」
真理愛の答えに十和子は椅子を引いて少し距離を取り、全体を見る。そして、何かに納得したのか、ふふっと笑いながら戻って来た。
「うん、似合ってるわ。真理愛ちゃん、スタイルがとてもいいのね。とっても似合うわよ。背が高いからモデルさんみたい」
「いえ、そんなことは……」
「あ、椎崎課長がそわそわしながらこっち見てる」
ふふっと笑いながら十和子が仕事へ戻る。ちらりと見た先で椎崎課長が言葉通り、そわそわしていたので軽く頭を下げて真理愛もパソコンの画面に顔を向ける。直接、注意ができない所が気の弱い椎崎課長らしい。
とりあえず今日は目の前の仕事を片付けて、お財布だけは返してもらわなければならない。そう自分に言い聞かせて、真理愛は数字との格闘を始めるのだった。
やっぱり今日は、運勢最悪の厄日なのだと真理愛は、何とか溜め息を呑み込んだ。
目の前には、本日真理愛がカレーうどんを被ることになった原因を作った水原姫奈が二人の取り巻きを連れて立ちはだかっていた。
彼女たちは、日本人女性の平均身長なので、睨まれていても自然と見下ろす形になってしまう。それが余計に人の怒りを煽ってしまうのだが、しゃがむわけにもいかないので、難しい。
既にお互い帰り支度は終えている。更衣室を出て、エレベーターにむかう途中で声を掛けられ、休憩室に連れてこられたのだ。
可愛らしいコートに身を包んだ彼女らは、真理愛のコートの下を透視しようとしているのではないかというくらいに凝視している。
「……何か、ご用ですか?」
淡々と真理愛は首を傾げた。肩の上で切りそろえられた黒髪がさらりと揺れた。
「用ですって? あなた、あの後、小鳥遊さんに抱えられて医務室に行った上、服まで買ってもらったとか」
「……」
無言で先を促すように彼女を見下ろす。
これでもかと盛られたまつ毛にグロスによって輝くぽってりとした唇。計算し尽くされた位置に乗せられたチーク。ラメによって輝く瞼は、芸術的なグラデーションだ。
地味であることをモットーとしているため薄化粧になりがちな真理愛とは違う、女性らしく可愛く綺麗に見えるように研究しつくされたメイクだ、と暢気な感想を抱く。いや、分かっている。これは現実逃避だ。
「経理課の鉄仮面の分際で、小鳥遊さんの手を煩わせるなんて、ちゃんと断りなさいよ」
「っていうか、どうせ小鳥遊さんに無理やり買わせたんじゃない? 弁償しろとか言って」
「さすがは厚かましい鉄製の面の皮ね」
平和主義者の真理愛も、これはイラっとする。そもそもは、水原が起こした事故だ。カレーうどんを被った真理愛も、真理愛にカレーうどんをかけた小鳥遊も悪くない。
もしもメイク落とし(ウェットティッシュタイプ)が真理愛の手の中にあったら、目の前の女の顔を綺麗さっぱりぬぐってやるのに、と真理愛はメガネの奥で目を細めた。
「お話はそれだけでしょうか?」
「はぁ?」
マスカラで武装されたまつ毛がぱちりと瞬く。
「友人と約束があるので、ご用がないのでしたら失礼いたします」
真理愛は、会釈して、彼女たちの間をすり抜ける。颯爽と歩き出すが、後ろから「待ちなさいよ!」と呼び止める声がする。
真理愛は、潔く聞こえなかった振りをして、さっさとエレベーターに乗り込む。ラッキーなことに水原たちが乗り込む隙間はなくドアが閉まり、鉄の箱は勢いよく下降していく。エレベーターから降りたら、エントランスを通り抜けて、外へ出た。
幸い、明日からは年末年始の休暇に入る。その間に綺麗さっぱり忘れてほしい。
帰路に着く人波から外れた街路樹の下で、ポケットから取り出したスマホに視線を落とし、メッセージアプリを確認して溜め息を零す。
「……食費を見捨てることはできないわ」
ぽつりと呟き、気合を入れて顔を上げる。
小鳥遊からお財布を返したいという旨で連絡がきたのは、午後の休憩時間だった。
いっそ、その食費が洋服代にならないかな、とも思ったが真理愛の節約に慣れ親しんだ食費では、このワンピースは絶対に買えない。小鳥遊が損をするだけである。
故に真理愛は、とりあえず食費は食費ということで返してもらおうと決意し、小鳥遊から提示された待ち合わせ場所と時間に了解の返事を送ったのだ。
まずはコンビニに寄ってお金をおろし、それから待ち合わせ場所でワンピース代とクリーニング代を渡して、お財布を返してもらう。そうしてさっさと帰る。
「年末年始は引きこもり三昧よ、真理愛」
自分を鼓舞するように拳を握りしめ、真理愛は力強く一歩を踏み出したのだった。
コミュニケーション能力に難ありの人見知りが、営業成績トップのエリートに勝てるわけがないと思い知ったのは、終業後「お財布を返すよ」と呼び出された喫茶店でお財布を返してもらったのに、洋服代を聞いてもはぐらかされ、気が付いたら隠れ家的イタリアンレストランにて、向かいの席に座る小鳥遊が満足げに笑っていた時だった。
「ここなら、半個室でプライバシーも守られるから安心して。それに何より美味しいんだよ。好きなだけ食べてね」
「…………はい」
もうどうすることも出来なくて、真理愛は仕方なしに頷いた。
小鳥遊に連れてこられたイタリアンレストランは、観葉植物とパーテションでテーブルがそれぞれ区切られていて、彼の言う通り半個室になっている。
真理愛に向けてメニューが開かれる。
「お酒は飲める?」
「苦手なので……すみません」
「大丈夫、僕もあんまり強くないんだ。だから飲まされないように車出勤なんだよ。あ、嫌いなものはある?」
「とくにはないです」
「そっか。じゃあコースと、好きなのを好きなだけ頼むのどっちがいい?」
メニューに視線を落としながら彼の言葉に悩む。
コースも気になるが、どれもこれも美味しそうだ。ドルチェの種類も豊富で魅力的だ。さきほど席に案内された時にすれ違ったウェイターが運んでいたティラミスがとても美味しそうだった。だが、他のものも楽しみたい欲求がむくむくと湧き出て来る。
「……ボロネーゼ、食べてみたいです。あと、三種類のドルチェが楽しめるプレートも」
「了解。ここのボロネーゼは本当に美味しいよ。じゃあ、あとは僕がおすすめを頼んでもいいかな?」
お願いします、と告げると小鳥遊がウェイターを呼ぶ。
「食前酒はなしで、お酒は飲まないから炭酸水で。アンティパストはカプレーゼ、プリモ・ピアットはボロネーゼとジェノベーゼとマルゲリータ、セコンド・ピアットは……そうだなぁ、今日はアクアパッツァにしようかな。食後にエスプレッソとこの三種のドルチェのプレートとマチェドニア。以上でお願いします」
すらすらと流れるような注文に感心してしまう。ウェイターが下がるとほどなくして、カプレーゼが運ばれてきて、取り皿が用意される。真理愛が動くより先に小鳥遊がさっと取り分けてくれる。
見た目ももちろんだが、この細やかな気配りがより一層、モテる要因かも知れない。
「ここのモッツァレラ、ミルキーで凄く美味しいんだよ。食べてみて」
「はい。……いただきます」
まずは手を合わせて、それから勧められるままにフォークを手に取り、真っ赤なトマトと白いモッツァレラ、バジルを口へと運ぶ。バジルの爽やかな香り、ついでトマトの程よい酸味と甘みが口いっぱいに広がり、ミルキーな口当たりのモッツァレラがそれを追いかけて来る。オリーブオイルもしつこ過ぎず、コクを添えて黒コショウのアクセントがたまらない。
「……おいしい」
思わず顔が綻んでしまうのが抑えきれない。
シンプルな料理だからこそ、一つ一つの素材が丁寧に選び抜かれているのが分かる。
「口にあったみたいで、良かったよ」
自分のお皿に取り分けながら小鳥遊が言った。
それから続々と料理が運ばれてくる。どれもこれも本当に美味しくて、小鳥遊がジェノベーゼも少し取り分けてくれた。エリート営業マンの小鳥遊の話術は巧みでなかなか表情を引き締めるのが難しく、時々、思わず笑ってしまうこともあった。
「畠中さんは、本当に美味しそうに食べるね」
マルゲリータにぱくりと噛みついた真理愛を見ながら小鳥遊が言った。
口の中にものが入っていて返事ができず、焦ったようにもぐもぐすると小鳥遊が慌てて「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。その言葉に甘えて、トマトソースと生地が美味しいピッツァを堪能し、炭酸水で口を潤す。
「……食べることは好きです。がっつき過ぎていたでしょうか」
「まさか。僕も食べるのが好きだから、こんなに美味しそうにたくさん食べてくれたら嬉しいよ。具合が悪いならともかく、一緒に出掛けた先でダイエット中だからって言って残されるのは、ちょっとね」
「あれは私も苦手です。自分で注文したものを残すのが……作ってくれた人にも食材にも迷惑だし、失礼だと思うんです。それに美味しいものは、いっぱい食べるとその分、幸せになれます」
ぱちりと目を瞬かせた小鳥遊がふわっと笑みをこぼす。
子どもみたいな無邪気な笑顔の威力はすさまじく、きらきらとイケメンパウダーが舞うのが見えた。
「ふふっ、確かに僕も今、幸せだ。畠中さんは?」
「そうですね……美味しいので幸せです」
真理愛は、真面目に答えた。お世辞でも何でもなく本当にそう感じていた。パスタもピッツァも本当に美味しくて、これからやってくるアクアパッツァもドルチェも楽しみだ。
「お待たせいたしました、旬のキンメダイとアサリのアクアパッツァでございます」
タイミングよく、アクアパッツァが運ばれてきてテーブルに置かれる。
美味しそうなキンメダイが堂々と真ん中に鎮座し、周りでぷりぷりのあさりがぱかりと貝を開いている。ニンニクとハーブの良い香りが鼻先を撫でて、見た目と匂いだけでも美味しい。
「見て下さい、小鳥遊さん。幸せが目視できます」
「ははっ、そうだね。なら早速、美味しい内に食べよう」
軽やかな笑い声に、はしゃぎ過ぎてしまったと反省したのは、一瞬で、小鳥遊が脂の乗ったキンメダイを切り分け、取り皿に乗せてくれた時には真理愛の意識は全てキンメダイに向けられていた。
はいどうぞ、と差し出されたお皿を受け取って、早速、フォークで切り分け口へと運ぶ。
キンメダイの美味しさが最大限に引き出され、そこに一緒に煮込まれたトマトの旨味が加わり、ニンニクとハーブの香りが口いっぱいに広がる。正に幸せだ。
「美味しいね」
小鳥遊の言葉に真理愛は、こくこくと精一杯、頷いた。
アクアパッツァを堪能し、真理愛がアサリを貝から外していると、小鳥遊が急に少し強張った表情で口を開いた。
「僕、一度、こうやって畠中さんとゆっくり話してみたかったんだ。今日は強引に誘ってごめんね。……それと帰り際、水原さんたちに囲まれていたのも助けられなくて、ごめん」
予想外の言葉に眼鏡の奥で目を瞬かせる。
「……見ていたんですか?」
「僕も丁度、帰るタイミングだったんだ。間に入ろうかと思ったんだけど……こじれるかな、と」
「ありがとうございます」
真理愛は思わずお礼を言っていた。
だが、小鳥遊の判断には感謝しかない。万が一、小鳥遊が間に入って来ていたら、年明けも真理愛は、あの人たちに難癖をつけられていたに違いない。
「女同士のいざこざに男性が参加するとあまりいい結果にはなりませんから。英断です。ありがとうございます」
小鳥遊は、虚をつかれたような顔をしていたが、ぷっと噴き出して安心したように笑いだした。
「やっぱり、こうやって君と話す時間がもてたことは嬉しいな。畠中さんの仕事はいつも丁寧で迅速で、対応も真面目で、すごく良い子なんだろうなって思って、こうしてゆっくり話がしてみたかったんだ。……でも、もしかして男が苦手なのかなって」
真理愛が黙っていると、困ったように眉を下げた小鳥遊が先を続ける。
「女性社員相手にはそうでもないけど、男性社員が相手だとちょっと緊張しているっていうか、身構えているみたいだったし、最初の頃は僕のこともかなり身構えていただろう? だから苦手なのかなって。ああ、違ったらごめんね」
ぱちり、ぱちり、と目を瞬かせる。
こんな鉄仮面と呼ばれているような女の機微に気付くなんて、やはり社内一、モテる男は違うなといっそ感動する。
「態度に出していたつもりはなかったのですが……その、昔、色々とあって苦手なんです」
「なら、今、僕と居るのも嫌かな? 早く帰りたい? 会社にいる時は、あんまり僕と一緒にいたくないみたいだったから」
その問いかけに真理愛は首を傾げつつ考える。貝から外したアサリをぱくりと食べ、ゆっくり咀嚼しながら考えをまとめた。ふっくらとしたアサリはとても美味しい。
「嫌、ではないです。……小鳥遊さんは、どうしてか怖くないので平気です。お仕事も丁寧ですし、領収書もきちんと管理して下さっていますし……ただ、私は目立つのが苦手なんです。こう言ったら失礼かも知れませんが、小鳥遊さんはとてもモテますからお話しているだけでも目立つでしょう? でも、だからこそこうして一緒にお食事ができるのかもしれないです」
「……それは、どういう意味か聞いても?」
「小鳥遊さんほどおモテになる方でしたら、よりどりみどりでしょうから、私みたいな地味な女は相手にならないでしょう? その点が安心できると言うか……」
何故か小鳥遊が頬を引き攣らせ、両手で顔を覆うと項垂れてしまった。
「……どうしました?」
「まさか、ここまで全然、伝わってないとは……僕、割と露骨だったと思うんだけどなぁ」
ぼそぼそと何事かを呻いている小鳥遊に真理愛はおろおろと視線を彷徨わせる。
だが、少しして顔を上げた小鳥遊は、ふっと笑って首を横に振った。
「僕は未熟だったみたい。まだまだ頑張らないといけないね。なかなか手強い相手みたいだから」
「小鳥遊さんでも苦戦される相手なんですね。でも、営業成績ナンバーワンの小鳥遊さんならきっと契約が取れると思います」
何でいきなり仕事の話になったのだろうと思いつつ、心からそう思っているので、両手をぎゅっと握って拳を作り応援する。
小鳥遊は、何とも言えない顔をしていたが、ドルチェが運ばれてきて空気が変わる。
白い大きな丸皿にティラミスとパンナコッタ、ジェラートがフルーツやソースに彩られて並んでいる。そして小さなカップには濃いエスプレッソ。香ばしい匂いは好きなのだが、少し苦手な飲み物だ。
「エスプレッソは砂糖を入れても苦くて、苦手です」
「それは砂糖が足りてないんだよ。最低でもこれくらいいれなきゃ」
そう言って小鳥遊は砂糖をティースプーンに山盛り三杯もたっぷりと入れた。真理愛は、おそるおそるそれを真似る。ぐるぐるとよくかき混ぜて、口を付ける。
すると今までとまるで違った美味しさに目を瞠る。
「チョコレートみたいです」
「良かった。デザートも食べようか、僕のも食べてみる? マチェドニアは、イタリアのフルーツポンチみたいなものだよ。お酒の香りはするけど、ここのはノンアルコールワインを使っているから安心してね」
綺麗なガラスの器に入れられたマチェドニアは、苺やキウイ、オレンジとパイナップルと様々なフルーツが小さくカットされている。欲に負けて素直にスプーンを伸ばす。
苺を捕まえて口に運ぶ。
ふんわりとワインの香りが抜けていき、少し甘めのシロップが甘酸っぱいフルーツによく合っている。
多分、もうどうにもならないから頬が緩むのを引き締めるのを諦めた。
「美味しいです」
「可愛いなぁ」
「はい。苺とかキウイとかカラフルで、宝石箱みたいですね」
「……そっちじゃないんだけど、まあいいや。ほら、ジェラートが溶けない内に食べないと」
そう促されて、はっと我に返った真理愛は、慌ててジェラートにスプーンを伸ばしたのだった。
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