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第五章
心気下り
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◇ 匠 ◇
夏乃が心気を引っ張り出した。
匠のと涼風の心気。それを近づけるとふぃっと一本の糸になる。
以前、瑞葵に同じことをやられた。体の関係がないとこうはならないと言われ焦ったことがある。
涼風がじっとそれを見ている。
「もう一本作ります」
夏乃がその糸をそっと涼風に渡す。涼風はどこかおっかなびっくりだ。
そういえば、涼風はこの気の糸が作れない。
もう一度、匠の胸のあたりから糸を取り出し、涼風の胸からも取り出す。
そして、またその糸同士をふぃと一本にした。
「兄様、腹から気を取りますね」
夏乃が今度は涼風の腹から糸を引き出す。その引き出した糸を匠の小指に結び付ける。
「二本、道を作っておきます」
念の為なのだろう。涼風も自分の腹から気が伸びていて不思議そうだ。
夏乃が心気をより合わせた二本の糸の端をを手の中に握りこむ。
「口を開けてください」
匠が糸の端を噛む。涼風もそれを噛んだ。
柔らかい、だが、不思議な事に硬さも感じる。
糸なのにどこか筋肉質だ。
始めます。静かに夏乃に言われ、匠は一度、涼風を見て……目を閉じた。
◇
一度目より、二度目の方があっさり下りられたという感じだった。
肩を揺すられ目を開けると……ガタイのいい男が顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か」
ん、と頷きながらも、周りも見回す。
「涼風は?」
「今、あそこだ」
紡が指で上を指した。上?と思い紡の手を見るが、その小指に糸が結んであるのに気が付く。その糸の先に……。
「うおっ?!」
慌てて立ち上がった。涼風が空にいる。意識がないのか、ぐたりと空に両手両足投げ出している。
「なんで?」
「下りている最中だからな」
へ?と紡を見る。そうか……なら、自分もあんな格好で下りてきたのか。
涼風の体はゆっくりとだが匠達の方に下りてくる。手を伸ばせば、届きそうだったので、手を伸ばすと、駄目だと言われた。
「自然に下りるまで待たないと駄目だ。ひっぱると糸が切れる」
「うおいっ?!」
慌てて手を引っ込めた。危ねぇっ!
「まだ子供なのによくやる」
紡が感心したような、少しあきれたような口調で言う。誰の事だと聞いたら、夏乃の事だと言った。
「長……一偉が夏乃の力が強いと言っていた」
「そうだな」
紡がそれでも、と首を振る。立つと匠よりもやはり背が高い。大門ぐらいのガタイの良さだ。
「二人同時に心気下りなんぞ、一偉が聞いたら目を丸くするな」
「……難しいのか」
やはり危険な事だったのだろうか。夏乃が引っ張られたら怖いと言っていたことを思い出す。
「お前が一度、心気下りをしていたから道ができてた。まあ、それに、これもあるしな」
紡が小指の糸を匠に見せる。涼風の体が下りてきた時、やはりその糸の先が涼風の腹から出ているのが見えた。
「涼風を戻さないといけないんだ」
それだけは守る。
「分かっている」
紡が頷いた。涼風の体がそろそろ匠達が立っている場所に着こうとした時、どこからか一人の女性も現れた。
白いワンピースを着ている。裸足だ。綺麗だと思うが、なぜか顔がはっきりしない。その女性が涼風の横に立ち涼風を見守っている。
「……あれは?」
匠が紡に聞くと、紡は顔を軽くしかめた。
「京香だ」
やっぱりそうだと思ったとしか言えないが、なぜ、京香が自分の中にいるのかが、分からない。いつから自分の中にいたんだろうか。
「……まぁ気まぐれと偶然」
「気まぐれで、人の体ン中いるのか」
それに、誰の気まぐれだ?んーと紡が顔をしかめて明後日の方を見る。
「俺が、誘った」
「……さよで」
あきれたとしか言いようがないが、まぁ、色々と人の事は言えない体なので何も言わない。
淫気のねぇちゃんが、もう、大丈夫と頭の中で呼んだ。
◇ 涼風 ◇
噛んでみて思っていたよりも硬いと初めて気が付いた。
心気下り。
夏乃が『うん』と言ってくれてよかったとしか言いようがない。
夏乃に渡した手紙は今はダイニングのテーブルの上だ。もしかしたらと思って、匠が風呂に入っている間に書いた。
自分から言い出したこと。夏乃は無理やり俺に言われてした事。匠も俺が巻き込んだ。
全部、俺の……俺のせいだと書いて封をした。
匠は一度術を受けている。だから、二度目はかかりやすいはず。きっと、戻れる。
だから、危ないのは……俺だ。でも、俺は構わなくていい。
夏乃が狙われている。そして、まだ生まれてもいない夏乃の妹が狙われている。
おそらく、相手が放った術は全て返した。だが、何かが……佐倉の娘、匡代に憑いていた何かが、匠の体の中に飛び込んだ。
言われていたのに。
夢の中で見た男を思い出す。大門みたいにガタイがいい男だった。
紡。
俺は自分の事かと思っていた。まさか、匠が憑かれやすいとは思ってっもいなかった。
だが、あの……おかしな靄は同じ場所にいたのに、俺じゃなくて匠に入った。
匠が入りやすかったからだ。
あの靄をどうにかしないと駄目だ。あの靄は何か術がかけられている。
どうにかしないと、匠が……。
「お前のことばかりだな」
誰かの声がした。そうだなとなぜか、悲しいと言う気持ちが流れ込む。
「関係ないって言うなって言われたそうだ」
そうだ……大門に言われた。瑞葵は関係ない。だから俺を殴っていいって言った時……大門は俺を叱った。
俺は瑞葵にも自分を大事にしてもらいたい。きっと、匠もそう思っている!
怒鳴られて……でもって、俺……。
匠は……俺のせいで。
「ん……」
ごそっと何か柔らかい物の上で寝返りを打った。ひどく……甘い香りがする。
手がゆっくりと頭を撫でている。その柔らかい手にぼんやりと意識が戻る。
「気がついた?」
霞んだ視界に女がいる。ふわふわの髪の白のワンピースの女。
会いたいなんて……思ったことなんてないのに。なぜか、ひどく……切ないほど会いたかったと思う。
「うーっ……」
手を伸ばすと、大丈夫だと女が俺を抱きしめてくれた。俺はその女、淫気のねぇちゃんの細い腰にしがみついて……しばらく泣いた。
◇
俺から離れた場所に匠と……あのガタイの良い男、紡がいる。
二人は何か話し合っている。顎を手に当てて話している姿が良く似ている。
「淫気?」
「そうだ」
匠がだが、と言った。いや、考えた。
「匂いがしなかった。淫気は匂いがするだろう?」
俺はそういえばと、ここでは感じる甘い香りをくんと嗅ぐ。俺は淫気のねぇちゃん、京香の膝に頭をのせていた。頭がぼんやりする。体がひどく重い。
「涼風は分からないが、俺も、夏乃も瑞葵もいた。三人が気が付かないってことあるのか?」
そうか……こんなに甘い香りがするのに、俺、わかんないのな。
「あんたの中に、紡の気があったからよ」
京香が俺の髪を撫でながら教えてくれる。
「紡はあんたの母ちゃんの事が好きだったの」
紡がおい、と言いかけたがやめたらしい。少し顔が赤くなっている。
「俺の母ちゃんが?」
「そう。別に悪い事でもなんでもないわ」
毎日、毎日、顔を合わせていた。紡に優しかった。
好きになってもおかしい事ではない。
「……俺はその頃はもう、体もこんなで」
紡が頭を掻きながら言う。
「どちらかと言えば、性欲過多だったんだ」
性欲過多……。
「えっちぃってことか」
思わず口を開いて聞いてしまって、悪いと謝った。だって、どちらかと言えば……。
俺もえっちぃ。
三人がぶほっと吹き出す。
「……なんだよ」
紡と匠は俺から顔を背けて笑っている。京香はこのねんねがと俺の頭をぐりぐりと小突く。
「あんたのえっちぃなんて、赤ちゃんみたいなもんよ?」
「赤ちゃんが、えっちいわけがあるか」
言い返したら、もういい、と匠が苦笑いする。
「紡がお前の中に気を送る時に、どうしてもお前の母ちゃん好き、と言う気持ちを抑えきれなかったんだと」
ふーんと頷き、そうかと京香を見る。京香の顔は見えそうで、見えない。
靄が掛かっている。
「大事にしたいと想ったのよ」
京香の言葉が俺の心にひどく沁みる。
でも……俺……。
「京香、そいつはいい」
匠が声を出して言った。そいつと言われ……ちょっと不安になる。匠が怒っている気がする。
「戻ってから俺が話をする」
戻ってから……。そうだよ。
俺、何のためにここに来たんだよ!
◇
起き上がった俺を京香が支えてくれた。
「なんか、来たろ?」
何かが匠の中に入った。俺はそれを確かめに来たんだ。
「来た……というより、呼んだんだな」
呼んだ?と紡を見ると、紡が上を指さした。上を見ると……。
「……あれは、なんだ?」
良く分からなくて首を傾げる。何かが浮いている。風船みたいだ。
「あのおばさんにくっついていたモノよ」
よく見れば風船の中に靄がある。靄がぐるぐると渦巻いている?
「陰気だろ?」
感情に合わせて大きくなったり、小さくなったりしていた。瑞葵もそう思ったはずだ。
「よくできている」
紡がうーんと靄を見て唸る。
「陰気の中に淫気の核がある」
「……へ?」
そう、と京香が頷き手を上げた。ふわりと風船が下りてくる。
でかい……。
「饅頭みたいにか」
匠が聞き、まぁそうね、と京香が答えた。そして、驚くことに、ずぽっとその風船の中に腕を突っ込んだ。
しばらく何かを探しているように腕を回して……そっと何かを持ち上げた。
また、風船だ。
「これが真ん中。核ね」
え?とその腕の中に収まるぐらいの大きさの風船を見る。
「これが淫気?」
「え?この風船のまんま?」
見たことがない。だが、どこからかしくしくと泣く声が聞こえ始める。
「どこだ?」
匠が俺の腕を取りながらあたりを窺う。俺は後ろを振り返った。後ろから?そして、そこにあったモノを見た瞬間、思わず匠に寄った。
怖い。
匠も俺の後ろを振り返る。そして、俺をぐっと抱きしめた。
「え……」
人形がぽつんと落ちていた。その人形がしくしく泣いていた。おかしな風に腕と足をねじ上げられている。
京香がそちらに向かい、その人形を抱き上げ胸に包む。
「別に人形が泣いているんじゃないの。無理やりこの形に押し込められてる淫気が泣いてるの」
人形……。人形の中に淫気。
「あらかじめ、淫気を人形にいれて縛る。その人形をさらにまじないでこの風船みたいなものに入れる」
それを……さらに陰気で包む。
「あの喜屋という男についていたのは、妖気でできた饅頭だったの」
「妖気……」
妖気の中に淫気の核があった。その核に、あらかじめ夏乃を狙うように術をかけてた。あそこに竹内の関係者がいると知ったからだ。
「この淫気は誰を狙う予定だったんだ?」
匠が目を細めて人形を見ながら紡に聞く。俺も人形が気になったが、匠に捕まえられてて動けない。
「佐倉翁の妻。匡代が喪主になる予定だから」
喪主……。何かが触る。なんだ?
京香が俺を見た。
「あのばあさん、あんたの事、気に入ってるわね」
『面白いモノが見れますよ』『見逃したわね』
何の時にだ?
「涼風」
匠が先に気が付いた。俺が顔を上げると、目を丸くして俺を見下ろしている。
「亡くなる時じゃないか?」
亡くなる時……。喪主……。何が動く……。政治……違う。それはもう、匡代の旦那に移った。
「金」
紡が言う。そうだ……金。いや、なんの金だ……。
『あの……』
大門がなんか言ってた。なんだ?なんだ?
「あの竹内だぞ。金なら腐るほど……じゃなかったか?」
ぴたりと、何かがはまった。
◇
佐倉翁が亡くなる時、竹内には大きなお金が入った。即金でマンションが買えるぐらいの金だ。
順番で言ったら、次はおそらく佐倉翁の妻だろう。
そして、あのばばぁは『私の時にもお願いしますね』と確か言った。
それを長は受けた。取引は成立した。
また、大きな金が動く。
それを……誰かが横から取ろうとしている。
「佐倉の家に近づける。妖気を扱える。西だ……」
そして、子供。
「子供がいる。それもかなり力が強い子供が表にいる。これだけ分かればいい。あとは有川が探してくれる」
いや、もう、気が付いているかもしれない。有川も動いている。
「……急がないと」
呪詛返しのまじないが動いた。夏乃が襲われた瞬間、鏡に反射するように、まじないは術をかけた人間に戻る。
それに瑞葵がさらにまじないをかけた。大門の所の膨れ上がっていた妖道の妖気をそれに繋いだ。
今、夏乃に術をしかけた人間は自分が放った術と、妖気を被っている。
本当に、子供ならもたない。大人でも危ない。
「匠、戻るぞ」
そう言いかけて……ふと、京香の手の中の人形が気になった。
「……なんで、それを?」
ん?と京香が泣き続ける人形をあやすようにして揺する。
喜屋についていた妖気の饅頭は匠にぶつかった後、霧散した。なんで、今度は……入れたのだろう。
「まぁ、前はこっちも何がなんだか、分かっていなかったからね」
京香が人形を抱いたまま、陰気の風船に向かう。その中に人形を沈める。
泣き声が聞こえなくなる。
「……私も淫気だから」
そうだけど……。京香はふわりと風船をまた上に上げた。
「簡単にね。吹っ飛ばされるの」
風船を見上げて京香が呟く。そうかと思う。今こそ京香はなにか形作られているが、外では靄でしかない。
除霊と言われ、吹っ飛ばされたことがあると言っていた。
「痛いのよ?結構」
そうなのかと三人が思う。知らなかった。
「捕まえられて、あんな人形に押し込められて。襲えとまじないをかけられた上に、吹っ飛ばされて」
紡が京香の側に寄った。京香が大丈夫と手を上げる。
「この子はまだ自由になれないの」
「え?」
匠がなぜ?と聞くが、俺には分かった。
ひでぇ……。
「吹っ飛んでないからよ」
匠の手が俺の肩に食い込む。ひでぇまじないだ。俺も匠の胸に顔を埋める。
「……どうしたら自由になれる?」
匠が聞くが、京香は首を横に振った。
「もう、吹っ飛ぶしかないの。狙った者に当たって散れとまじないがかけられてるの」
でも、と京香が上を見る。
「間に合った」
京香が匡代の家でこの淫気に気が付いた。京香は必死にこの淫気を呼んだ。
だからか、と匠が口を押えた。どうしたのかと思うと、体が引っ張られておかしかったと言う。
「散るまじないからは自由にならない」
京香が呟く。
「でも、どこで散るかは選べる」
くすっと京香が笑った。
「涼風」
紡が名前を呼び、そちらを振り返る。
「熨斗をつけてお返しする。黒幕を引きずり出せ」
それまで、京香がこれを育てる。
俺は、え?となった。匠の中でそれを育てる?だが、匠はためらいもなく頷いた。
「皆が傷ついた。もういい。……もう、いい」
あ、と京香に向かい手を伸ばす。
「俺が」
その手を匠が掴んだ。
「帰るぞ」
でも……。陰気が。淫気が……。
「帰りなさい」
京香が振り返って手を振る。大丈夫だからと笑う。
「ちゃんと帰って、ぐちゃぐちゃにしてもらいなさい」
ん?
「ん?」
ぐちゃぐちゃって……なんだ?
一瞬、きょとんとした。匠の顔を見ようとして。
俺は吹っ飛ばされた。
◇ 匠 ◇
すさまじい喧嘩が始まっていた。
取っ組み合いって言うのだろう。さすがに、起きたばかりの視界にこれが目に入ったら、唖然とするしかない。
「このっ!ばっ、かっ!」
「おじさま!やめて!やめて!」
倒れた涼風の上に瑞葵が馬乗りになって涼風を殴っている……って?
「おい?!瑞葵!やめろ!」
その瑞葵を夏乃が泣きながら止めに入り、大門が涼風の体を守ろうと身を伏せている。
「……いったい……なんだ」
「匠?!」
ようやく起きたのかと言う顔で大門に怒鳴られはっとした。
「涼風っ?!」
涼風の腕が動かない。瑞葵が馬乗りになり、大門に覆いかぶされているのに、涼風が動かない。
「涼風!起きろ!起きろ!」
一体どうなっている?どうなっている?!
心気下りだ。下で会った。会えた。『帰るぞ』と手を掴んだ。そして、どうした?
「涼風!」
瑞葵が叫ぶ。その傍らに心気下りを始める前に夏乃に渡した封筒が裂かれていた。
「起きないと、もう一発殴る!」
「やめてぇっ!」
夏乃が悲鳴を上げる。大門が涼風の上で体を丸める。慌てて匠は瑞葵の振り上げた腕を掴んだ。
「匠!そっちはだめだっ!」
「おわっ!」
そうだった!こっちは怪我かっ?!瑞葵はならと右手を振り上げる。
「涼風っ!」
「起きろっ!戻れっ!」
殴られちまう!
瑞葵の上半身を羽交い絞めにしようとして、腹を蹴られる。
「寄るなっ!」
「ちぃおじさまーっ!」
態勢が崩れた。前につんのめり、そのまま大門の上に潰れる。潰れた匠の襟を今度は鷲掴みにされる。
「瑞葵!そっちの腕を使うなっ!」
「どけっ!」
「落ち着け!」
瑞葵は真っ青だ。振り上げた腕も震えている。とうとう夏乃が瑞葵の頭に飛びついてしがみつく。
「やめてっ!おじさま!やめて!」
げほっ、とおかしな音がした。
大門が凄まじい腕の力で匠ごと自分の体を持ち上げる。その勢いで、今度は匠が瑞葵の腹に突っ込み、夏乃ごとひっくり返る。
「涼風!」
大門が涼風の体を持ち上げ反転させた。そのまま、ちょうど肩甲骨の間を激しく叩く。
まさか……。匠が青ざめた。
息、してなかったのか?
げふ、げふっ、と続けざまにおかしな咳をして、涼風はようやく薄く目を開けた。
その目を息を飲んで三人が見つめる。涼風がこりゃなんだと言うように、口の端から垂れた血を拭った。
本当に、瑞葵は涼風を殴ったのだろう。拭った手に血が付いたことに気が付いた涼風が顔をしかめる。ようやく痛いと気が付いたらしい。
もういちど、壁に貼り付いて動けない三人を見る。そして、そうかと頭を掻いた。
「確かに……ぐちゃぐちゃだわな」
「あ……」
何を言えばいいのかもわからなかったが。匠の後ろで瑞葵が声を殺して泣き出し、夏乃がそれにつられて大声で泣いた。
◇
今度は夏乃も瑞葵もおこもり様だ。キッチンで裂かれた手紙を大門に渡され、匠も強く目を閉じた。
涼風は今、本宅に連絡している。有川とは連絡が取れなかった。
瑞葵は瑞葵の部屋で。夏乃は書斎で。涼風は自分の部屋で。
匠が思わず握り潰した手紙をテーブルに置き、深く溜息を吐く。
全部、俺が言い出した。夏乃は無理やりやらされた。匠も俺が無理を言って頼んだ。
だから、何かあっても、夏乃は責めるな。匠は頼む。
俺は、自業自得だから放っておいていい。
捨て置いていい。
「まぁ、怒るわな」
怒るというよりも……悲しい。
「……俺は、涼風の事が大事だとずっと言っているんですが」
「……瑞葵も、そういうところがある」
人から大事だと言われることに慣れてない。自分の事を大事な物だと思ってもいない。わかっていない。
「根が深い……」
大門が、火のついていない煙草を口に咥えて溜息を吐く。
「根が深いですか……」
どのぐらいの深さだろうかと考えて、強く目をつぶる。涼風が生まれた時からかもしれない。
母親を亡くしたのも自分のせい。瑞葵が一人暮らしをできなかったのも自分のせい。
何もかも俺のせい。
「俺はあいつは必死にやっていると思うんですけどね」
「皆、必死だ」
そうだと思う。皆がそれぞれ……必死なのに。
泣きたくなる。なんで……なんで一人でいこうとしてしまうんだろう。ちゃんと、助けを求めてくれないのだろう。
「まぁ、愛情不足はあるわな」
愛情不足。
「有川さんが育ててくれたと言うが、仕事しながら男三人なんて育てられるはずがない。現に涼風は小さい頃に子供らしい遊びはしていない」
テーブルの上に投げられていた薄汚れたサイコロを大門が転がす。
「だから、二人共、夏乃を可愛がるんだ」
自分と同じような事にならないように。
サイコロを見ながらどうしたらいいのだろうと考える。
「どうにもできない」
大門が苦い顔をして言う。その顔を見る。
「どうにも……できないんですか?」
「過去には戻れない」
その言葉に、そうかと思う。今から……しかない。
「育て直すっていう感じだな」
「涼風を?」
「ああ」
心気下りの時、涼風が京香にすがって泣いているのを見て不思議になった。変な話だが、涼風は京香が匠の中にいることを怒るだろうと思っていた。
それなのに、涼風は気が付いた瞬間、小さい子が母親に抱きつくようにして泣き出した。
「……俺、母ちゃんにはなれませんよ」
さすがにそれは無理だ。母性など欠片があるかもわからない。
大門が顔をしかめた。そういえば、大門はゲイで女の話題すら駄目だと言う。
「お前でいいんじゃないか?要はあれを大事に思って、守りたいって、俺はいつも思ってんだからと根気よく言う奴が必要だってことだろ」
大事に思って守りたい。
「根気強く、だな」
そこが大事だと、大門が二度言い、火を点けなかった煙草を箱に戻す。
匠がそうかと口を押える。根気強く、大事だと、守りたいと言い続けて育て直す。ふと、以前、涼風が匠に言ったことを思い出す。フェンスの向こうで、涼風は少しはにかんで笑っていた。
『俺の事、甘やかしてくんないかなって思った』
『お前なら、げっぷがでるほど甘やかしてくれそうだ』
会ったばかりの頃、涼風が匠にそう言った。
甘やかしてくれる存在が欲しいと、そういえばあれは言った。
「……甘やかす」
そう言えば、甘やかすってどうすんだ?
「どうした?」
「……甘やかすって、どうすんですかね?」
「ん?」
ん?と二人で考え込んでいたところに、涼風が飛びこんできた。
「夏乃!瑞葵!……どこだ?」
んー、と匠と大門が涼風を見る。涼風はなぜ二人の姿が見えないのか分かっていないらしい。頬に湿布が貼られていて口端が切れている。
「夏乃は書斎だ。瑞葵は……」
ばんっ!とドアが開き三人がそちらを見た。膨れるだけ膨れた瑞葵がまっすぐに涼風に向かう。
またか!と大門が慌てて涼風の体を庇おうとし、匠も瑞葵の前に立つ。
「瑞葵、もう、いい!怒ってんのは分かるが、もう、いいだろう!」
「あんんまし、怒るな!お前、怪我してんだぞ?」
二人に庇われ、涼風が大門の背中でおおう……と小さくなる。ようやく、先程殴られたのを思い出したらしい。
「どけ」
瑞葵の声が聞いたことのない低さだ。
ああ……と大門が両手を上げてどく。瑞葵には逆らえないという顔だ。さらに一歩、近づいた瑞葵を今度は匠が止める。
「悪かった!涼風には、俺が言うから!今、それどころじゃないだろう?!」
心気下りでいろいろ分かったこともある。それも話さなくちゃならないのに!
「……瑞葵」
匠の背中に隠れていた涼風がちょこっと顔を覗かせた。なんで怒っているかはわかってるんだぞ、と言う顔で、真面目に言う。
「ものすごく心配かけたな?俺。ごめん」
ごめんと言ったか。まさか、涼風の口から『ごめん』が出るとは思っていなかった匠が思わず仰け反る。
ちゃんと謝ることができるようになっている!
「……ん」
しばらく、どうしようかと迷っていたらしい瑞葵が、しぶしぶ両手を広げる。こちらはこちらで何やらあったらしい。匠がぽかんとなる。お?と大門が一重の目を見開いた。仲直りのハグだろうか。こちらも今まで匠が見たことのない瑞葵の行動だ。
涼風がにぱと笑い、瑞葵の腕の中に飛び込んだ。
夏乃が心気を引っ張り出した。
匠のと涼風の心気。それを近づけるとふぃっと一本の糸になる。
以前、瑞葵に同じことをやられた。体の関係がないとこうはならないと言われ焦ったことがある。
涼風がじっとそれを見ている。
「もう一本作ります」
夏乃がその糸をそっと涼風に渡す。涼風はどこかおっかなびっくりだ。
そういえば、涼風はこの気の糸が作れない。
もう一度、匠の胸のあたりから糸を取り出し、涼風の胸からも取り出す。
そして、またその糸同士をふぃと一本にした。
「兄様、腹から気を取りますね」
夏乃が今度は涼風の腹から糸を引き出す。その引き出した糸を匠の小指に結び付ける。
「二本、道を作っておきます」
念の為なのだろう。涼風も自分の腹から気が伸びていて不思議そうだ。
夏乃が心気をより合わせた二本の糸の端をを手の中に握りこむ。
「口を開けてください」
匠が糸の端を噛む。涼風もそれを噛んだ。
柔らかい、だが、不思議な事に硬さも感じる。
糸なのにどこか筋肉質だ。
始めます。静かに夏乃に言われ、匠は一度、涼風を見て……目を閉じた。
◇
一度目より、二度目の方があっさり下りられたという感じだった。
肩を揺すられ目を開けると……ガタイのいい男が顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か」
ん、と頷きながらも、周りも見回す。
「涼風は?」
「今、あそこだ」
紡が指で上を指した。上?と思い紡の手を見るが、その小指に糸が結んであるのに気が付く。その糸の先に……。
「うおっ?!」
慌てて立ち上がった。涼風が空にいる。意識がないのか、ぐたりと空に両手両足投げ出している。
「なんで?」
「下りている最中だからな」
へ?と紡を見る。そうか……なら、自分もあんな格好で下りてきたのか。
涼風の体はゆっくりとだが匠達の方に下りてくる。手を伸ばせば、届きそうだったので、手を伸ばすと、駄目だと言われた。
「自然に下りるまで待たないと駄目だ。ひっぱると糸が切れる」
「うおいっ?!」
慌てて手を引っ込めた。危ねぇっ!
「まだ子供なのによくやる」
紡が感心したような、少しあきれたような口調で言う。誰の事だと聞いたら、夏乃の事だと言った。
「長……一偉が夏乃の力が強いと言っていた」
「そうだな」
紡がそれでも、と首を振る。立つと匠よりもやはり背が高い。大門ぐらいのガタイの良さだ。
「二人同時に心気下りなんぞ、一偉が聞いたら目を丸くするな」
「……難しいのか」
やはり危険な事だったのだろうか。夏乃が引っ張られたら怖いと言っていたことを思い出す。
「お前が一度、心気下りをしていたから道ができてた。まあ、それに、これもあるしな」
紡が小指の糸を匠に見せる。涼風の体が下りてきた時、やはりその糸の先が涼風の腹から出ているのが見えた。
「涼風を戻さないといけないんだ」
それだけは守る。
「分かっている」
紡が頷いた。涼風の体がそろそろ匠達が立っている場所に着こうとした時、どこからか一人の女性も現れた。
白いワンピースを着ている。裸足だ。綺麗だと思うが、なぜか顔がはっきりしない。その女性が涼風の横に立ち涼風を見守っている。
「……あれは?」
匠が紡に聞くと、紡は顔を軽くしかめた。
「京香だ」
やっぱりそうだと思ったとしか言えないが、なぜ、京香が自分の中にいるのかが、分からない。いつから自分の中にいたんだろうか。
「……まぁ気まぐれと偶然」
「気まぐれで、人の体ン中いるのか」
それに、誰の気まぐれだ?んーと紡が顔をしかめて明後日の方を見る。
「俺が、誘った」
「……さよで」
あきれたとしか言いようがないが、まぁ、色々と人の事は言えない体なので何も言わない。
淫気のねぇちゃんが、もう、大丈夫と頭の中で呼んだ。
◇ 涼風 ◇
噛んでみて思っていたよりも硬いと初めて気が付いた。
心気下り。
夏乃が『うん』と言ってくれてよかったとしか言いようがない。
夏乃に渡した手紙は今はダイニングのテーブルの上だ。もしかしたらと思って、匠が風呂に入っている間に書いた。
自分から言い出したこと。夏乃は無理やり俺に言われてした事。匠も俺が巻き込んだ。
全部、俺の……俺のせいだと書いて封をした。
匠は一度術を受けている。だから、二度目はかかりやすいはず。きっと、戻れる。
だから、危ないのは……俺だ。でも、俺は構わなくていい。
夏乃が狙われている。そして、まだ生まれてもいない夏乃の妹が狙われている。
おそらく、相手が放った術は全て返した。だが、何かが……佐倉の娘、匡代に憑いていた何かが、匠の体の中に飛び込んだ。
言われていたのに。
夢の中で見た男を思い出す。大門みたいにガタイがいい男だった。
紡。
俺は自分の事かと思っていた。まさか、匠が憑かれやすいとは思ってっもいなかった。
だが、あの……おかしな靄は同じ場所にいたのに、俺じゃなくて匠に入った。
匠が入りやすかったからだ。
あの靄をどうにかしないと駄目だ。あの靄は何か術がかけられている。
どうにかしないと、匠が……。
「お前のことばかりだな」
誰かの声がした。そうだなとなぜか、悲しいと言う気持ちが流れ込む。
「関係ないって言うなって言われたそうだ」
そうだ……大門に言われた。瑞葵は関係ない。だから俺を殴っていいって言った時……大門は俺を叱った。
俺は瑞葵にも自分を大事にしてもらいたい。きっと、匠もそう思っている!
怒鳴られて……でもって、俺……。
匠は……俺のせいで。
「ん……」
ごそっと何か柔らかい物の上で寝返りを打った。ひどく……甘い香りがする。
手がゆっくりと頭を撫でている。その柔らかい手にぼんやりと意識が戻る。
「気がついた?」
霞んだ視界に女がいる。ふわふわの髪の白のワンピースの女。
会いたいなんて……思ったことなんてないのに。なぜか、ひどく……切ないほど会いたかったと思う。
「うーっ……」
手を伸ばすと、大丈夫だと女が俺を抱きしめてくれた。俺はその女、淫気のねぇちゃんの細い腰にしがみついて……しばらく泣いた。
◇
俺から離れた場所に匠と……あのガタイの良い男、紡がいる。
二人は何か話し合っている。顎を手に当てて話している姿が良く似ている。
「淫気?」
「そうだ」
匠がだが、と言った。いや、考えた。
「匂いがしなかった。淫気は匂いがするだろう?」
俺はそういえばと、ここでは感じる甘い香りをくんと嗅ぐ。俺は淫気のねぇちゃん、京香の膝に頭をのせていた。頭がぼんやりする。体がひどく重い。
「涼風は分からないが、俺も、夏乃も瑞葵もいた。三人が気が付かないってことあるのか?」
そうか……こんなに甘い香りがするのに、俺、わかんないのな。
「あんたの中に、紡の気があったからよ」
京香が俺の髪を撫でながら教えてくれる。
「紡はあんたの母ちゃんの事が好きだったの」
紡がおい、と言いかけたがやめたらしい。少し顔が赤くなっている。
「俺の母ちゃんが?」
「そう。別に悪い事でもなんでもないわ」
毎日、毎日、顔を合わせていた。紡に優しかった。
好きになってもおかしい事ではない。
「……俺はその頃はもう、体もこんなで」
紡が頭を掻きながら言う。
「どちらかと言えば、性欲過多だったんだ」
性欲過多……。
「えっちぃってことか」
思わず口を開いて聞いてしまって、悪いと謝った。だって、どちらかと言えば……。
俺もえっちぃ。
三人がぶほっと吹き出す。
「……なんだよ」
紡と匠は俺から顔を背けて笑っている。京香はこのねんねがと俺の頭をぐりぐりと小突く。
「あんたのえっちぃなんて、赤ちゃんみたいなもんよ?」
「赤ちゃんが、えっちいわけがあるか」
言い返したら、もういい、と匠が苦笑いする。
「紡がお前の中に気を送る時に、どうしてもお前の母ちゃん好き、と言う気持ちを抑えきれなかったんだと」
ふーんと頷き、そうかと京香を見る。京香の顔は見えそうで、見えない。
靄が掛かっている。
「大事にしたいと想ったのよ」
京香の言葉が俺の心にひどく沁みる。
でも……俺……。
「京香、そいつはいい」
匠が声を出して言った。そいつと言われ……ちょっと不安になる。匠が怒っている気がする。
「戻ってから俺が話をする」
戻ってから……。そうだよ。
俺、何のためにここに来たんだよ!
◇
起き上がった俺を京香が支えてくれた。
「なんか、来たろ?」
何かが匠の中に入った。俺はそれを確かめに来たんだ。
「来た……というより、呼んだんだな」
呼んだ?と紡を見ると、紡が上を指さした。上を見ると……。
「……あれは、なんだ?」
良く分からなくて首を傾げる。何かが浮いている。風船みたいだ。
「あのおばさんにくっついていたモノよ」
よく見れば風船の中に靄がある。靄がぐるぐると渦巻いている?
「陰気だろ?」
感情に合わせて大きくなったり、小さくなったりしていた。瑞葵もそう思ったはずだ。
「よくできている」
紡がうーんと靄を見て唸る。
「陰気の中に淫気の核がある」
「……へ?」
そう、と京香が頷き手を上げた。ふわりと風船が下りてくる。
でかい……。
「饅頭みたいにか」
匠が聞き、まぁそうね、と京香が答えた。そして、驚くことに、ずぽっとその風船の中に腕を突っ込んだ。
しばらく何かを探しているように腕を回して……そっと何かを持ち上げた。
また、風船だ。
「これが真ん中。核ね」
え?とその腕の中に収まるぐらいの大きさの風船を見る。
「これが淫気?」
「え?この風船のまんま?」
見たことがない。だが、どこからかしくしくと泣く声が聞こえ始める。
「どこだ?」
匠が俺の腕を取りながらあたりを窺う。俺は後ろを振り返った。後ろから?そして、そこにあったモノを見た瞬間、思わず匠に寄った。
怖い。
匠も俺の後ろを振り返る。そして、俺をぐっと抱きしめた。
「え……」
人形がぽつんと落ちていた。その人形がしくしく泣いていた。おかしな風に腕と足をねじ上げられている。
京香がそちらに向かい、その人形を抱き上げ胸に包む。
「別に人形が泣いているんじゃないの。無理やりこの形に押し込められてる淫気が泣いてるの」
人形……。人形の中に淫気。
「あらかじめ、淫気を人形にいれて縛る。その人形をさらにまじないでこの風船みたいなものに入れる」
それを……さらに陰気で包む。
「あの喜屋という男についていたのは、妖気でできた饅頭だったの」
「妖気……」
妖気の中に淫気の核があった。その核に、あらかじめ夏乃を狙うように術をかけてた。あそこに竹内の関係者がいると知ったからだ。
「この淫気は誰を狙う予定だったんだ?」
匠が目を細めて人形を見ながら紡に聞く。俺も人形が気になったが、匠に捕まえられてて動けない。
「佐倉翁の妻。匡代が喪主になる予定だから」
喪主……。何かが触る。なんだ?
京香が俺を見た。
「あのばあさん、あんたの事、気に入ってるわね」
『面白いモノが見れますよ』『見逃したわね』
何の時にだ?
「涼風」
匠が先に気が付いた。俺が顔を上げると、目を丸くして俺を見下ろしている。
「亡くなる時じゃないか?」
亡くなる時……。喪主……。何が動く……。政治……違う。それはもう、匡代の旦那に移った。
「金」
紡が言う。そうだ……金。いや、なんの金だ……。
『あの……』
大門がなんか言ってた。なんだ?なんだ?
「あの竹内だぞ。金なら腐るほど……じゃなかったか?」
ぴたりと、何かがはまった。
◇
佐倉翁が亡くなる時、竹内には大きなお金が入った。即金でマンションが買えるぐらいの金だ。
順番で言ったら、次はおそらく佐倉翁の妻だろう。
そして、あのばばぁは『私の時にもお願いしますね』と確か言った。
それを長は受けた。取引は成立した。
また、大きな金が動く。
それを……誰かが横から取ろうとしている。
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京香が人形を抱いたまま、陰気の風船に向かう。その中に人形を沈める。
泣き声が聞こえなくなる。
「……私も淫気だから」
そうだけど……。京香はふわりと風船をまた上に上げた。
「簡単にね。吹っ飛ばされるの」
風船を見上げて京香が呟く。そうかと思う。今こそ京香はなにか形作られているが、外では靄でしかない。
除霊と言われ、吹っ飛ばされたことがあると言っていた。
「痛いのよ?結構」
そうなのかと三人が思う。知らなかった。
「捕まえられて、あんな人形に押し込められて。襲えとまじないをかけられた上に、吹っ飛ばされて」
紡が京香の側に寄った。京香が大丈夫と手を上げる。
「この子はまだ自由になれないの」
「え?」
匠がなぜ?と聞くが、俺には分かった。
ひでぇ……。
「吹っ飛んでないからよ」
匠の手が俺の肩に食い込む。ひでぇまじないだ。俺も匠の胸に顔を埋める。
「……どうしたら自由になれる?」
匠が聞くが、京香は首を横に振った。
「もう、吹っ飛ぶしかないの。狙った者に当たって散れとまじないがかけられてるの」
でも、と京香が上を見る。
「間に合った」
京香が匡代の家でこの淫気に気が付いた。京香は必死にこの淫気を呼んだ。
だからか、と匠が口を押えた。どうしたのかと思うと、体が引っ張られておかしかったと言う。
「散るまじないからは自由にならない」
京香が呟く。
「でも、どこで散るかは選べる」
くすっと京香が笑った。
「涼風」
紡が名前を呼び、そちらを振り返る。
「熨斗をつけてお返しする。黒幕を引きずり出せ」
それまで、京香がこれを育てる。
俺は、え?となった。匠の中でそれを育てる?だが、匠はためらいもなく頷いた。
「皆が傷ついた。もういい。……もう、いい」
あ、と京香に向かい手を伸ばす。
「俺が」
その手を匠が掴んだ。
「帰るぞ」
でも……。陰気が。淫気が……。
「帰りなさい」
京香が振り返って手を振る。大丈夫だからと笑う。
「ちゃんと帰って、ぐちゃぐちゃにしてもらいなさい」
ん?
「ん?」
ぐちゃぐちゃって……なんだ?
一瞬、きょとんとした。匠の顔を見ようとして。
俺は吹っ飛ばされた。
◇ 匠 ◇
すさまじい喧嘩が始まっていた。
取っ組み合いって言うのだろう。さすがに、起きたばかりの視界にこれが目に入ったら、唖然とするしかない。
「このっ!ばっ、かっ!」
「おじさま!やめて!やめて!」
倒れた涼風の上に瑞葵が馬乗りになって涼風を殴っている……って?
「おい?!瑞葵!やめろ!」
その瑞葵を夏乃が泣きながら止めに入り、大門が涼風の体を守ろうと身を伏せている。
「……いったい……なんだ」
「匠?!」
ようやく起きたのかと言う顔で大門に怒鳴られはっとした。
「涼風っ?!」
涼風の腕が動かない。瑞葵が馬乗りになり、大門に覆いかぶされているのに、涼風が動かない。
「涼風!起きろ!起きろ!」
一体どうなっている?どうなっている?!
心気下りだ。下で会った。会えた。『帰るぞ』と手を掴んだ。そして、どうした?
「涼風!」
瑞葵が叫ぶ。その傍らに心気下りを始める前に夏乃に渡した封筒が裂かれていた。
「起きないと、もう一発殴る!」
「やめてぇっ!」
夏乃が悲鳴を上げる。大門が涼風の上で体を丸める。慌てて匠は瑞葵の振り上げた腕を掴んだ。
「匠!そっちはだめだっ!」
「おわっ!」
そうだった!こっちは怪我かっ?!瑞葵はならと右手を振り上げる。
「涼風っ!」
「起きろっ!戻れっ!」
殴られちまう!
瑞葵の上半身を羽交い絞めにしようとして、腹を蹴られる。
「寄るなっ!」
「ちぃおじさまーっ!」
態勢が崩れた。前につんのめり、そのまま大門の上に潰れる。潰れた匠の襟を今度は鷲掴みにされる。
「瑞葵!そっちの腕を使うなっ!」
「どけっ!」
「落ち着け!」
瑞葵は真っ青だ。振り上げた腕も震えている。とうとう夏乃が瑞葵の頭に飛びついてしがみつく。
「やめてっ!おじさま!やめて!」
げほっ、とおかしな音がした。
大門が凄まじい腕の力で匠ごと自分の体を持ち上げる。その勢いで、今度は匠が瑞葵の腹に突っ込み、夏乃ごとひっくり返る。
「涼風!」
大門が涼風の体を持ち上げ反転させた。そのまま、ちょうど肩甲骨の間を激しく叩く。
まさか……。匠が青ざめた。
息、してなかったのか?
げふ、げふっ、と続けざまにおかしな咳をして、涼風はようやく薄く目を開けた。
その目を息を飲んで三人が見つめる。涼風がこりゃなんだと言うように、口の端から垂れた血を拭った。
本当に、瑞葵は涼風を殴ったのだろう。拭った手に血が付いたことに気が付いた涼風が顔をしかめる。ようやく痛いと気が付いたらしい。
もういちど、壁に貼り付いて動けない三人を見る。そして、そうかと頭を掻いた。
「確かに……ぐちゃぐちゃだわな」
「あ……」
何を言えばいいのかもわからなかったが。匠の後ろで瑞葵が声を殺して泣き出し、夏乃がそれにつられて大声で泣いた。
◇
今度は夏乃も瑞葵もおこもり様だ。キッチンで裂かれた手紙を大門に渡され、匠も強く目を閉じた。
涼風は今、本宅に連絡している。有川とは連絡が取れなかった。
瑞葵は瑞葵の部屋で。夏乃は書斎で。涼風は自分の部屋で。
匠が思わず握り潰した手紙をテーブルに置き、深く溜息を吐く。
全部、俺が言い出した。夏乃は無理やりやらされた。匠も俺が無理を言って頼んだ。
だから、何かあっても、夏乃は責めるな。匠は頼む。
俺は、自業自得だから放っておいていい。
捨て置いていい。
「まぁ、怒るわな」
怒るというよりも……悲しい。
「……俺は、涼風の事が大事だとずっと言っているんですが」
「……瑞葵も、そういうところがある」
人から大事だと言われることに慣れてない。自分の事を大事な物だと思ってもいない。わかっていない。
「根が深い……」
大門が、火のついていない煙草を口に咥えて溜息を吐く。
「根が深いですか……」
どのぐらいの深さだろうかと考えて、強く目をつぶる。涼風が生まれた時からかもしれない。
母親を亡くしたのも自分のせい。瑞葵が一人暮らしをできなかったのも自分のせい。
何もかも俺のせい。
「俺はあいつは必死にやっていると思うんですけどね」
「皆、必死だ」
そうだと思う。皆がそれぞれ……必死なのに。
泣きたくなる。なんで……なんで一人でいこうとしてしまうんだろう。ちゃんと、助けを求めてくれないのだろう。
「まぁ、愛情不足はあるわな」
愛情不足。
「有川さんが育ててくれたと言うが、仕事しながら男三人なんて育てられるはずがない。現に涼風は小さい頃に子供らしい遊びはしていない」
テーブルの上に投げられていた薄汚れたサイコロを大門が転がす。
「だから、二人共、夏乃を可愛がるんだ」
自分と同じような事にならないように。
サイコロを見ながらどうしたらいいのだろうと考える。
「どうにもできない」
大門が苦い顔をして言う。その顔を見る。
「どうにも……できないんですか?」
「過去には戻れない」
その言葉に、そうかと思う。今から……しかない。
「育て直すっていう感じだな」
「涼風を?」
「ああ」
心気下りの時、涼風が京香にすがって泣いているのを見て不思議になった。変な話だが、涼風は京香が匠の中にいることを怒るだろうと思っていた。
それなのに、涼風は気が付いた瞬間、小さい子が母親に抱きつくようにして泣き出した。
「……俺、母ちゃんにはなれませんよ」
さすがにそれは無理だ。母性など欠片があるかもわからない。
大門が顔をしかめた。そういえば、大門はゲイで女の話題すら駄目だと言う。
「お前でいいんじゃないか?要はあれを大事に思って、守りたいって、俺はいつも思ってんだからと根気よく言う奴が必要だってことだろ」
大事に思って守りたい。
「根気強く、だな」
そこが大事だと、大門が二度言い、火を点けなかった煙草を箱に戻す。
匠がそうかと口を押える。根気強く、大事だと、守りたいと言い続けて育て直す。ふと、以前、涼風が匠に言ったことを思い出す。フェンスの向こうで、涼風は少しはにかんで笑っていた。
『俺の事、甘やかしてくんないかなって思った』
『お前なら、げっぷがでるほど甘やかしてくれそうだ』
会ったばかりの頃、涼風が匠にそう言った。
甘やかしてくれる存在が欲しいと、そういえばあれは言った。
「……甘やかす」
そう言えば、甘やかすってどうすんだ?
「どうした?」
「……甘やかすって、どうすんですかね?」
「ん?」
ん?と二人で考え込んでいたところに、涼風が飛びこんできた。
「夏乃!瑞葵!……どこだ?」
んー、と匠と大門が涼風を見る。涼風はなぜ二人の姿が見えないのか分かっていないらしい。頬に湿布が貼られていて口端が切れている。
「夏乃は書斎だ。瑞葵は……」
ばんっ!とドアが開き三人がそちらを見た。膨れるだけ膨れた瑞葵がまっすぐに涼風に向かう。
またか!と大門が慌てて涼風の体を庇おうとし、匠も瑞葵の前に立つ。
「瑞葵、もう、いい!怒ってんのは分かるが、もう、いいだろう!」
「あんんまし、怒るな!お前、怪我してんだぞ?」
二人に庇われ、涼風が大門の背中でおおう……と小さくなる。ようやく、先程殴られたのを思い出したらしい。
「どけ」
瑞葵の声が聞いたことのない低さだ。
ああ……と大門が両手を上げてどく。瑞葵には逆らえないという顔だ。さらに一歩、近づいた瑞葵を今度は匠が止める。
「悪かった!涼風には、俺が言うから!今、それどころじゃないだろう?!」
心気下りでいろいろ分かったこともある。それも話さなくちゃならないのに!
「……瑞葵」
匠の背中に隠れていた涼風がちょこっと顔を覗かせた。なんで怒っているかはわかってるんだぞ、と言う顔で、真面目に言う。
「ものすごく心配かけたな?俺。ごめん」
ごめんと言ったか。まさか、涼風の口から『ごめん』が出るとは思っていなかった匠が思わず仰け反る。
ちゃんと謝ることができるようになっている!
「……ん」
しばらく、どうしようかと迷っていたらしい瑞葵が、しぶしぶ両手を広げる。こちらはこちらで何やらあったらしい。匠がぽかんとなる。お?と大門が一重の目を見開いた。仲直りのハグだろうか。こちらも今まで匠が見たことのない瑞葵の行動だ。
涼風がにぱと笑い、瑞葵の腕の中に飛び込んだ。
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