Sugar ＆ Cacao〜甘さの比率〜

第5章 砂糖の美味しい食し方85％

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　昔から良く嗅ぎ慣れた匂いが鼻先に触れる。ツーンと刺すようなそれはアルコール消毒液の匂い。
　時折すれ違う白衣姿の人々は、ハッとしたように立ち止まると静かに会釈をする。それに尾鷹が応えることはない。
　清潔感を漂わせる白い無機質な静まり返った廊下を尾鷹は靴底を響かせながら足早に進むと、ピタリと立ち止まり白い扉のノブを遠慮なく開いた。

「これは坊っちゃん、お早いお着きで」
「ああ、それで結果は？」

　尾鷹は七瀬に挨拶もそこそこに、急かすように要件を伝えた。
　乱雑に紙の山が所々に目立ち、花一つない味気ない白い空間。真っ白で清潔感がある建物は、尾鷹からすれば黒い塊にしか見えない。
　好きでもない場所にわざわざ訪れたのは、一週間ほど前に郁哉から採血した検査結果の確認のためだ。

「到着されたばかりで急かさないでくださいよ。コーヒーでもどうです？」
「いや、ここの香りは好きじゃない」
「嫌よ嫌よも好きのうちってね。昔から言われませんでした？　それに、嫌いになられても坊っちゃんはここを放棄することはできないでしょ？　そろそろ腹を括ったらどうです？」

　五年前、父から無理やり押し付けられた研究所だ。
　医薬品、食品、化粧品と幅広く手を広げた事業は、尾鷹の手に委ねられたときにはすでに火の車だった。
　破綻寸前の業績悪化した会社を譲渡されたところで、当時高校生だった尾鷹になにができるというのか。まるで父に自らの命で恩を返せと言われているようだった。
　腹でも切って叩き返してやる……と、自暴自棄に夜の街を毎日のように彷徨い怒りを性欲で散らしていた。そんなとき、たまたま立ち寄ったバーで七瀬と出会ったのだ。

　マスターに酒を頼み、一夜を共にする相手から声が掛かれば店を出るつもりでいた。
　舐めるような視線を感じ横を窺うと、訝しむ顔付きで尾鷹を覗き込む男と目が合った。男でも構いはしないが尾鷹はネコを演じるつもりなどない。
　無視を決め込もうと構えていると『未成年はとっとと帰れ』と、親が怒るように注意をされ、気付けば互いに人生について語っていた。
　傷の舐め合いだったとしても、どん底同士の尾鷹と男は意気投合した。
　この男を研究所に招いたらなにかが変わるかもしれない……そう直感すると名刺を差し出し、その日は性欲を発散させることなくマンションへと帰った。

　たまたまバーで出会った男──七瀬透からの連絡は、案外早くやって来た。
　トントン拍子で話は纏まり、正式に七瀬と雇用関係を結んだ。けれど研究所に優秀な七瀬を迎え入れたからといって、最初から上手くいった訳ではない。
　学業と平行しながらも、時間が許す限り研究所に通い詰めた。
　新規開発は試行錯誤の連続で、互いに何度もぶつかり合った。七瀬が開発し尾鷹が販売戦略を立てる。尾鷹がニーズを探り提案し、七瀬が提案に合わせて開発する。
　寝る間も惜しみ苦戦を強いられながら、やっと二年ほど前に発売した美容食品が軌道に乗り今では黒字の業績だ。それに合わせて父の態度は一変したが、いまさら返せと言われても尾鷹は返すつもりなどさらさらない。