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前編
1 幕開け
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北野雄一は旅行が趣味な男だった。
毎年夏になると、ボストンバックを片手に一人で列車に乗る。
一人旅に渋い顔をしていた彼の妻も、今では何年か前に始めたテニスサークルに興じているし、高校生になった一人息子も、家族よりは友達との時間を大切にするようになっていた。
そのため、家庭だのと何も煩わしいことは考えず、一人でいる時間が心地良くなった近年では、旅行という趣味も格段に楽しくなっていたのであった。
行先も特にこだわりはなく、たまたまテレビや雑誌で見かけた町や、読んだ本に登場した舞台などに心を惹かれては、毎年何となく決めていた。日常の中に潜む旅の目的地へのヒントを探すことも、雄一の楽しみの一つである。
三十代の時にこの趣味を始めて、今年で十二年が経つ。中には二、三度と訪れた場所もあったが、列車から降りて見知らぬ土地の空気や風に触れるその瞬間は何にも代え難く、それこそ映画や小説の舞台に飛び込んだ気持ちになっては、自分を物語の主人公に仕立て上げ、その世界の中を冒険することに彼は幸せを感じていたのだ。
雄一の今年の目的地は熱海であった。
熱海は今回で二度目となる。ひと月ほど前に乗った電車で熱海のポスターを見かけたからであった。そのようにして、彼は毎年ふらっと旅先を決めているのだ。
一度目は四年前のことで、今年と同じく真夏の暑い日であった。
愛用のグリーン色をしたボストンバックは、彼が大学生の時に大流行したブランドで、今では三代目の相棒となっている。独特な深緑の生地が、雄一を虜にしてしまったのだった。
東京から特急に乗って一時間弱。
都心から徐々に消えていくビルたちを眺めるのも旅の醍醐味で、夏色に輝く窓外の景色たちは、目的に近づくにつれて雄一の心を少年に戻していく。
駅に到着してホームから出ると、雄一は暑い潮風を一杯に吸い込んだ。
今回の旅のはじまりが告げられた。妻や子供、面倒な会社のお勤め事を忘れ、非日常を噛み締める。
夏も盛りで、普段から日の光が良く当たるこの地域ではあるが、今日は格段と暑いらしい。アスファルトの地面は真珠のように真っ白に輝き、その白さと晴天の青さがこれ以上もない美しいコントラストを描いているように見えた。
陽炎で揺れる駅前の商店街は、観光客で活気に溢れていた。
雄一はポケットからハンカチを取り出して、さっそく掻き始めた汗を拭った。
駅前からだとまだ海は見えないけれど、商店街を抜けるとすぐに見えてくるはずだ。
「さあ、行こうか」
彼は相棒のボストンバックを握る手に力を込めて、これから始まる大冒険へと歩き始めた。
両手に土産物を一杯もった観光客の中を潜って、雄一は商店街を出た。一つの曲がり角を曲がると、もう水平線が見える。
海岸へと続く曲がった大きな道路沿にはあちこちに宿が建っていて、各々の大きな煙突からは温泉の湯気も昇っていた。
錆びの目立つ白いガードレールに沿って歩いていると、雄一は人影のほとんどない裏道への入り口を見つけた。
宿と宿とが隣接する路地裏には、従業員が使うような割烹着やビニール手袋などが物干し竿に掛かっていたり、配達用のバイクがエンジンをかけたまま停まっていたりと、彼は観光地である熱海の生活の裏側を見た気がして、その路地裏の方へ引き寄せられるように入っていった。
見知らぬ土地の見知らぬ人。そして見知らぬそれらの生活に触れることが、雄一の好奇心を一番に刺激するのだ。
この世界には数えきれないほどの出会いや別れがある。人間一人なんて砂漠の一つの砂粒に過ぎないけれど、砂漠の砂は必ず四方八方と別の砂粒たちに覆われている。
風が吹けばまた違う砂粒とも出会うこともあるだろう。
それが「縁」であり「運命」なのだということが、雄一のモットーだった。信念と言っても良いのかも知れない。
尖った砂や丸い砂。良い縁もあれば当然悪い縁もある。しかし、彼はどんなことでも「運命だから」、「何かの縁だから」と簡単に決めてしまうのだ。
五十メートルほどの陰った路地裏を堪能し、もう少しで出口であるというところで、建物の影から一人の少女とぶつかった。慌てているらしいその少女は、突然の雄一の姿に驚いたものの、ブレーキは間に合わなかったのだ。
「大丈夫かい?」
彼女はまだ驚いているらしく、大きな丸い瞳でしばらく見つめてくると、何も言わずにそそくさと脇を通り過ぎて行った。
雄一はその少女の後ろ姿を目で追った。
おかっぱに近い黒髪が白いワンピースに良く似合っている。「中学生くらいかな?」となんとなく考えてみた。
そしていつものように「これも何かの縁」だと思い、路地裏から出ようとしたその時――つま先が何かを蹴ってしまった。
それは淡いピンク色をした小さな巾着袋であった。
さっきの少女の落とし物だな、と、雄一はそれを拾い上げた。手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさで、何か固いものが入っているらしく、揺らすたびにカチカチと音がした。
ビー玉かしら?
綺麗な透き通る音で、固い音なのに優しい海の波の音を連想させる。その音が心地よくて、雄一は耳元で何度も巾着袋を振ってみた。
さて、どうしたものか、と、雄一は少女が逃げた道を振り返ってみたけれど、すでに彼女の背中は見えなくなっていた。
追いかけるべきか否か。あたふたと考えているうちに、彼の悪い癖がまた働いて、「まあ、どうにかなるだろう」と、相棒のボストンバックに仕舞い込んでしまったのだ。
宿の勝手口から手拭い鉢巻きをした青年が出てきた。彼は中に居る人に挨拶をすると、雄一とも目が合った。雄一は笑みを作って軽く頭を下げると、青年も雄一から目を離さずに軽く会釈を返した。
そして、さっきからエンジンがかかりっぱなしのバイクに乗って走り出していった。
二度目の熱海旅行で出会ったこの数奇な運命は、少女の落とし物を拾い、そしてすぐに追いかけなかった雄一の選択によって、進むべき線路から大きく脱線していく。
雄一はその列車に、はからずとも乗ってしまった訳なのだ。
毎年夏になると、ボストンバックを片手に一人で列車に乗る。
一人旅に渋い顔をしていた彼の妻も、今では何年か前に始めたテニスサークルに興じているし、高校生になった一人息子も、家族よりは友達との時間を大切にするようになっていた。
そのため、家庭だのと何も煩わしいことは考えず、一人でいる時間が心地良くなった近年では、旅行という趣味も格段に楽しくなっていたのであった。
行先も特にこだわりはなく、たまたまテレビや雑誌で見かけた町や、読んだ本に登場した舞台などに心を惹かれては、毎年何となく決めていた。日常の中に潜む旅の目的地へのヒントを探すことも、雄一の楽しみの一つである。
三十代の時にこの趣味を始めて、今年で十二年が経つ。中には二、三度と訪れた場所もあったが、列車から降りて見知らぬ土地の空気や風に触れるその瞬間は何にも代え難く、それこそ映画や小説の舞台に飛び込んだ気持ちになっては、自分を物語の主人公に仕立て上げ、その世界の中を冒険することに彼は幸せを感じていたのだ。
雄一の今年の目的地は熱海であった。
熱海は今回で二度目となる。ひと月ほど前に乗った電車で熱海のポスターを見かけたからであった。そのようにして、彼は毎年ふらっと旅先を決めているのだ。
一度目は四年前のことで、今年と同じく真夏の暑い日であった。
愛用のグリーン色をしたボストンバックは、彼が大学生の時に大流行したブランドで、今では三代目の相棒となっている。独特な深緑の生地が、雄一を虜にしてしまったのだった。
東京から特急に乗って一時間弱。
都心から徐々に消えていくビルたちを眺めるのも旅の醍醐味で、夏色に輝く窓外の景色たちは、目的に近づくにつれて雄一の心を少年に戻していく。
駅に到着してホームから出ると、雄一は暑い潮風を一杯に吸い込んだ。
今回の旅のはじまりが告げられた。妻や子供、面倒な会社のお勤め事を忘れ、非日常を噛み締める。
夏も盛りで、普段から日の光が良く当たるこの地域ではあるが、今日は格段と暑いらしい。アスファルトの地面は真珠のように真っ白に輝き、その白さと晴天の青さがこれ以上もない美しいコントラストを描いているように見えた。
陽炎で揺れる駅前の商店街は、観光客で活気に溢れていた。
雄一はポケットからハンカチを取り出して、さっそく掻き始めた汗を拭った。
駅前からだとまだ海は見えないけれど、商店街を抜けるとすぐに見えてくるはずだ。
「さあ、行こうか」
彼は相棒のボストンバックを握る手に力を込めて、これから始まる大冒険へと歩き始めた。
両手に土産物を一杯もった観光客の中を潜って、雄一は商店街を出た。一つの曲がり角を曲がると、もう水平線が見える。
海岸へと続く曲がった大きな道路沿にはあちこちに宿が建っていて、各々の大きな煙突からは温泉の湯気も昇っていた。
錆びの目立つ白いガードレールに沿って歩いていると、雄一は人影のほとんどない裏道への入り口を見つけた。
宿と宿とが隣接する路地裏には、従業員が使うような割烹着やビニール手袋などが物干し竿に掛かっていたり、配達用のバイクがエンジンをかけたまま停まっていたりと、彼は観光地である熱海の生活の裏側を見た気がして、その路地裏の方へ引き寄せられるように入っていった。
見知らぬ土地の見知らぬ人。そして見知らぬそれらの生活に触れることが、雄一の好奇心を一番に刺激するのだ。
この世界には数えきれないほどの出会いや別れがある。人間一人なんて砂漠の一つの砂粒に過ぎないけれど、砂漠の砂は必ず四方八方と別の砂粒たちに覆われている。
風が吹けばまた違う砂粒とも出会うこともあるだろう。
それが「縁」であり「運命」なのだということが、雄一のモットーだった。信念と言っても良いのかも知れない。
尖った砂や丸い砂。良い縁もあれば当然悪い縁もある。しかし、彼はどんなことでも「運命だから」、「何かの縁だから」と簡単に決めてしまうのだ。
五十メートルほどの陰った路地裏を堪能し、もう少しで出口であるというところで、建物の影から一人の少女とぶつかった。慌てているらしいその少女は、突然の雄一の姿に驚いたものの、ブレーキは間に合わなかったのだ。
「大丈夫かい?」
彼女はまだ驚いているらしく、大きな丸い瞳でしばらく見つめてくると、何も言わずにそそくさと脇を通り過ぎて行った。
雄一はその少女の後ろ姿を目で追った。
おかっぱに近い黒髪が白いワンピースに良く似合っている。「中学生くらいかな?」となんとなく考えてみた。
そしていつものように「これも何かの縁」だと思い、路地裏から出ようとしたその時――つま先が何かを蹴ってしまった。
それは淡いピンク色をした小さな巾着袋であった。
さっきの少女の落とし物だな、と、雄一はそれを拾い上げた。手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさで、何か固いものが入っているらしく、揺らすたびにカチカチと音がした。
ビー玉かしら?
綺麗な透き通る音で、固い音なのに優しい海の波の音を連想させる。その音が心地よくて、雄一は耳元で何度も巾着袋を振ってみた。
さて、どうしたものか、と、雄一は少女が逃げた道を振り返ってみたけれど、すでに彼女の背中は見えなくなっていた。
追いかけるべきか否か。あたふたと考えているうちに、彼の悪い癖がまた働いて、「まあ、どうにかなるだろう」と、相棒のボストンバックに仕舞い込んでしまったのだ。
宿の勝手口から手拭い鉢巻きをした青年が出てきた。彼は中に居る人に挨拶をすると、雄一とも目が合った。雄一は笑みを作って軽く頭を下げると、青年も雄一から目を離さずに軽く会釈を返した。
そして、さっきからエンジンがかかりっぱなしのバイクに乗って走り出していった。
二度目の熱海旅行で出会ったこの数奇な運命は、少女の落とし物を拾い、そしてすぐに追いかけなかった雄一の選択によって、進むべき線路から大きく脱線していく。
雄一はその列車に、はからずとも乗ってしまった訳なのだ。
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