14 / 14
一口噺
嵩木と呪いの絵
しおりを挟む
けたたましい蝉の声が耳に響く中、俺は足早に市立美術館へ向かっていた。
「あっつー…‥」
館内に入ると冷房がよく効いていた。
一種の避難所を見つけた気になり、俺はポケットからハンカチを取り出すと顎に伝った汗を拭く。
汗拭きシートで軽く拭いた方がいいだろうか――?
これから会う人物との再会を想像して、その必要性を感じた俺はトイレに向かうことにした。
そういえば、数日前のことだ――。
郵便物を適当に確認していると、ポストカードが紛れていることに気がついた。
「白浜昌二……?」
聞き覚えがあるような、ないような……。
俺は首を傾げつつも、ポストカードをひっくり返す。
『白浜冴子』
宛名に書かれた名前には見覚えがあった。
白浜冴子。大学時代の友人だ。年賀状のやり取りはしていたが、それ以外では殆ど連絡を取っていない。
珍しい人物からの便りに、俺は目を丸める。
宛名の空いたスペースには、丸っこい字で「良かったら来て」とだけ書いていた。
再びハガキを裏返して、マジマジと裏面に描かれた絵を見つめる。
「……展示会とか、久しく行っていないなあ」
ポストカードの絵を暫く眺めていたが、印刷された絵の画風には心当たりがない。
「身内か誰かの展示会か……?」
それにしても、久しぶりの便りが知らない人の展示会だなんて、白浜の家族か誰かであったとしても、少し奇妙に思える。
電話番号は知っているのだから、久しぶりに会って話したいなら連絡を寄越せばよいものの。
俺は白浜の意図が掴めないまま、展示会場である市立美術館までの電車のルートを調べることにした。
トイレの個室に入った俺は、汗拭きシートで体を軽く拭き、ついでに用を足してトイレから出た。
館内は、想像以上の人の姿があった。
己の顎を摩り、小さく息を吐く。
ラフな格好をしている人もいるが、暑い中でもしっかりとした恰好をしている人の方が多く見える。俺は、支度に気を遣って良かったと安堵する。
当日券を買う時に白浜が在廊しているかスタッフの女性に尋ねると「中にいると思います」とだけ返ってきた。
入り口付近にいないということは、他の来客と話しているのかもしれない。
俺は白浜の姿を発見するまでゆっくりと白浜昌二の絵を見て歩くことにした。
展示のテーマは『光』。
白浜昌二が描く絵には、木々や草花の中に、生活感のある家が建っていた。影を濃く描くことで、陽が当たる場所が酷く眩しく見える。彼の目には、日々は尊くも美しく映っていたのだろうか。
次の部屋に行く頃には、ポストカードが売っていたら買おうかと考えていた。
少し進むと、俺は白浜昌二のプロフィールを見つけた。こういうものは入口にあるものではないのか。頭の中で首を傾げるが、自分があまり美術に詳しくない事を思い出し、俺はこういう場合もあるのかと納得した。
白浜昌二の経歴欄には白浜冴子との繋がりは書かれていなかったが、展示のコンセプトを語ったパネルに正解が書かれていた。
画家である白浜昌二は、俺の大学時代の友人である白浜冴子の祖父にあたる人物であった。
『懐かしくも、どこか物寂しさを感じる絵。しかし、祖父の描く絵には、誰一人取りこぼさぬ救いがある』
祖父の展示を企画した本人である白浜冴子は、白浜昌二の絵をそのように評価したらしい。
誰一人取りこぼさぬ救い、か――。
実に彼女らしい言葉だと思い、俺の心は重たくなった。
ひとつ、ひとつと絵の前で足を止め、キャプションを読んでは次に進む。
白浜昌二の絵は、どこか古臭くて、でも優しい雰囲気を感じられる絵であった。
人の姿が描かれていることは少ないが、生活感が溢れ、まるで過去を辿っているような気になる絵だ。
クマのぬいぐるみと赤い三輪車が描かれた絵のタイトルは『孫のおもちゃ』と書かれていた。
俺は鼻から小さく息を吐き出し、目元を細める。
このタイトルが指す孫というのは、白浜冴子のことだろうか。
白浜昌二の展示会は、白浜冴子が自信を持って古い友人を招待できるものだったのだろう。
「……ん?」
ゆっくりと歩いては立ち止まる。何回か繰り返していると、人が集まっている絵に辿り着いた。
人々は立ち止まったまま、中々その場から退いてくれない。
やけに人気だな。一体どんな絵が飾られているんだ――?
俺は体を揺らすようにして、人と人の間から絵を見ようとした。
ちらりと見えた絵は、これまでの絵の柔らかさは成りを潜め、大胆なタッチと奇抜な色で仕上げられていた。
これまでの絵は二、三本後ろに下がって漸く全体が視界に収まったのだが、この絵はサイズが随分と小さい。A4サイズくらいだろうか。
何か人生の転機があったのか、それとも他の作家から影響を受けたのだろうか。何にせよ、どうして人が集まっているのかが分からなかった。
漸く絵の目の前に辿り着いた俺は、じっくりとその絵を見つめる。
他の絵と比べて、筆の跡が荒々しく感じた。
しかし、不思議と絵の端に掛けて筆の跡は目立たなくなっており、真ん中に描かれた良く分からないモチーフだけが凹凸が激しかった。
「2022……」
目を凝らして見ていると、絵の具の下にうっすらと数字が書いていることに気がついた。
それは鉛筆で書かれているようだった。
その近くには、絵の具で日付らしき数字の2019と書かれている。2019年に描き終えた絵なのだろう。
数字の横にはS.S.と書かれていた。これまでの絵には白浜昌二と崩した時で書かれていたが、気分なのか、他に意味があるのか分からないが、この絵のサインはイニシャルにしたらしい。
絵を描き始めた当初は、2022年まで掛かると思っていたのだろうか?
俺はその数字が気になり、作品の解説に答えらしきものが描いていることを期待した。しかし、その絵だけ作品のキャプションが並んでいなかった。
キャプションはなかったが、タイトルは絵と並んで壁にくっついていた。
「嵩木くん」
俺がタイトルと言葉にしようとした時、澄んだ声が俺の名前を呼んだ。
振り向くと、大学時代の頃よりも大人になった白浜が立っていた。
「来てくれたんだね、ありがとう。久しぶり」
「久しぶり。意外なもんが届いたから驚いたよ」
「ふふ、ごめんね。なんだか嵩木くんに来て欲しくなっちゃって」
「相変わらずだな。その妙に期待させるような言葉で、どんだけ周囲に誤解を振り撒いていたのか忘れたのか?」
「あの時は、嵩木くんや昼子くんがいてくれて本当に良かった」
俺の言いたいことが分かっているくせに、白浜は直す気がないらしい。
白浜冴子。
周りの連中は、彼女を高嶺の花だとか絶世の美女と言った。
白浜は美人であるが、どこか掴みどころのない不思議な人間であり、俺はその時々の言動に薄気味悪さを感じていた。しかし周りの人間に言わせると、そんか所もミステリアスで素敵なんだと。昼子は「なんだか分かるよな~」なんて言っていたが、白浜という人間は、厄介な輩に目をつけられたら俺たちが介入しざるを得ない状況にするのだから、俺は「分かるよな~」なんてことは思わなかった。
「昼子は来たの?」
「ううん、招待したのは嵩木くんだけだよ」
白浜が、目を細めながら首を傾げると美しい黒髪がサラりと流れた。
俺は白浜の言葉に眉を顰める。
「なんで?」
「万が一を考えて」
「……また何か厄介なことをやってるんじゃないだろうな」
「どうして?」
「忘れたとは言わせないぞ」
「……勿論、二人と過ごしたことは忘れたことないよ」
そうじゃない。しかし、そう言ったところで白浜冴子はのらりくらりとかわす。ずるい奴なのだ。
俺がムッとしていると、白浜は俺の腕を掴んで人だかりを抜けた。
「絵の前もなんだし、こっち来て話そうか」
「悪い」
「ううん」
白浜は展示場の部屋の隅まで俺の腕を引っ張ってやって来ると、先ほど見ていた絵をチラリと見たあと手を離した。
「あれ、不穏なタイトルなんだな。この先からはそういったモチーフの作品が並んでいるのか?」
「ううん。あれだけだよ。他は、優しくて少し寂しい絵だよ」
白浜は微笑んだまま、小さな絵の方を見ていた。
「どうして、あの絵が人気か分かる?」
「……怖いもの見たさ、とか」
俺は、白浜の問いの意図を考える。
一つだけ、際立って人だかりのある絵。
あの絵のタイトルだけが異質だった。
『呪いの絵』
実にストレートなタイトルだと思った。
「この展示のテーマは光だったよな。救いとか、そんな意味が込められた絵を集めたんじゃないのか?」
呪いの絵を眺めている人々の背中を見つめていた白浜は、ゆっくりと俺に視線を向ける。
白浜は、相変わらず笑みを浮かべていた。
「例えば、あの絵だけが自ら死ぬことを肯定してくれるとしたら? それは、誰かの救いなってはいやしないかな」
「死にたいから、この絵を観にくるって?」
「例え話よ」
「いや……それは、あまりにも飛躍しすぎちゃいないか?」
「嵩木くんはピンと来ないんだね」
白浜の声色は嬉しそうだった。まるで、俺の反応が望んでいたものであったようだ。
「心の奥底では死を渇望しているのに、家族とか友達とか、色んなことを考えちゃったりして、頑張ってる人が多いと思わない? だからなのかなあ。あの絵だけを観に来る人って、結構いるんだよ」
僅かに目を伏せるも、白浜の口角はあがったまま。
こういう表情をしている時の彼女がいかに面倒臭い人間であったか。俺は少しずつ思い出していた。
「それで、そういう人って同じことを聞いてくるの。この絵を見たら死ぬんですかって。だから、私はそうですって答えるの。そうしたらね、その人たち、安心した顔をするんだよ。だから、この絵を見た後に死んでも、本人のせいでも、他人のせいでもないんでしょうねって、私、言ってあげるの。そうしたら、もっと嬉しそうな表情になるの。私ったら、なんだか良いことを教えてあげた気になっちゃって」
鈴を転がすように可愛らしく笑う白浜だが、俺は彼女のことを可愛いとは全く思えなかった。
高嶺の花? こいつが?
美醜だけを指して例えるなら、一先ず納得してやろう。しかし、この女は花は花でも猛毒を宿した花だ。
「……お前、悪趣味だぞ」
「どうして? 嵩木くん、この展示会のコンセプトをちゃんと読んでくれた?」
「光だろ」
「うん、そうだね」
「……他は」
――誰一人取りこぼさぬ救い。
俺は思い切り眉を顰める。
「……死に救いを見出す奴がいるか」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えつつも、白浜を睨む。そして、喉の辺りで蟠っているモヤモヤを静かに吐き出した。
白浜は、俺が苛立っていることに気がついている癖に、意に介さないといった様子で続ける。
「どんなことにも、どんな人にも、どんな時にも励ましは必要だよ。誰もが、必ず訪れる自分の結末のために頑張ってる。大往生するまでの過程も大切だと考えている人がいれば、最期だけは望む形にしたいって思う人もいる。前者の方が前向きでいいね。でも、後者を悪く言う必要はないでしょう?」
白浜の語り口調を聞いている内に、俺は大学時代の白浜を思い出した。
素直にならなきゃ――、白浜はそういってギリギリで踏みとどまっていた他者の欲望を無邪気に引き摺り出すような人間だった。
その中には取り返しのつかないこともあり、白浜が引き金となって犯罪を犯した者までもいた。
しかし白浜は言葉で唆すだけであったため、咎められることはなかった。しかも、周囲の人間と関係が壊れることがなければ、犯罪を犯した者までもが白浜を恨むようなことはなかった。
寧ろ、重大なことを犯す者ほど、タガを外してくれた優しい人として白浜にのめり込んでいった。
「この絵を見た人は呪われて、時々の人は死んでしまう。多くの人に望まれてそうなっていくのよ。他者に責められることを想像して躊躇するのなら、自らの死を肯定できるような理由を作ってあげればいいんだって、私の考えは行き着いたの」
白浜冴子は、白浜昌二の絵を使って呪いを世に広めようとしている。
あの絵は、呪いという名を背負ってこその所以とされようとしているのだ。
「あの絵は、これからもっと知名度が上がって、呪いの力が強まっていく。この絵を見たら死ぬ、この絵を見たら死ねる。この絵はね、誰にも言えない願いを叶えるきっかけになるのよ」
「確かに、自らの死を望む人にとって、この世の中は肩身の狭い場所ばかりかもしれない。けど、生死に関わる行動を決めて良いのは本人のみであるべきだ。白浜が後押しをしていいものじゃない」
「嵩木くんは、どうして怒っているの? 私は人が望むことしかしてないのよ? 恨まれるようなことはしてない。それなら、悪いことなんて一つもしていないじゃない」
白浜冴子は頭が可笑しい。
他者の行動を否定しろとは言わない。色々な考え方があることだって、俺は理解しているつもりだ。
しかし、白浜が考える慈善活動は似て非なるもであり、易々と認めて良いものではない。
人に与える影響力が増した白浜冴子は、危険以外の何者でもない。
「白浜さん、少し良いですか?」
「あぁ、分かりました」
どのような言葉をかければこのような事を止めるのか、俺が考えあぐねていると、展示会場のスタッフらしき人物が白浜の元にやって来た。
白浜は、スタッフがチラリと振り向いた先にいる人物を見ると納得したように頷く。
「嵩木くん、ごめんね。ちょっと離れるね」
「ん」
「帰らないで待っててね」
「はいはい、分かったよ」
俺が適当に返事をすると、白浜は「絶対だよ」と念を押してその場を離れて行った。
知り合いらしき人物と一緒に絵を見て回り始めた白浜を見て、俺は途中になっていた絵の観覧を再開した。
呪いの絵以外は、やはり物寂しさを感じるものの、優しく、人のぬくもりを感じるような絵ばかりであった。
最後の絵に辿りつくと、俺はじっくりとその絵を目に焼き付ける。
細い川からは水光の輝きが見え、木々と密接している木造の家からは家鳴りが聞こえてきそうであった。
『我が家』
最後の絵につけられたタイトルは、至ってシンプルなものであった。
俺は、この絵のタイトルを気に入った。
これまでの絵では、誰の家か分からないものの、確かに感じる人の影を探し続けた。
誰かのあたたかな記憶の中に立って、少し埃臭い田舎の風景を見渡すと、誰かが傍にいた気がするのだ。そして、一枚、一枚と絵を見て回ることは、家を一軒、一軒と見て回っているような感覚に近かった。
『我が家』とは、白浜昌二の家なのだろう。
この絵から感じられるのは、長閑の中にあるより一層リアルな人の営みであった。
自分の家なら、家の横に生えている木の歴史も、転がっているおもちゃが誰のものかも、家の中に誰がいるのかも、全て知り尽くしているはずだ。だからこそ、説得力のあるリアリティーが描かれた。
一つだけ物騒な絵が飾られていたが、あの絵を抜きにすれば、とても良い展示だったな――。
少し萎えていた気持ちが元気を取り戻したことで、俺は『我が家』と名付けられた絵のポストカードが売っていたら購入しようと心に決めた。
この時、すっかり気分を良くした俺は、この展示を企画した人物が誰であったか忘れていた。
「まだ続いてるのか」
後は展示場を出るだけだと思っていた俺は、ポツンと寂しく壁に貼られているキャプションを見つけた。
そのキャプションには白浜冴子の言葉で白浜昌二の人となり、そして二人の思い出が綴られていた。
白浜冴子は、祖父のことが大好きだったのだろう。
だから、こうして展示会を開いた。
白浜昌二は大きな絵を描いた。数歩下がらないと全体が視界に入らないほどの、大きな絵だ。
好奇心だけで行動を起こすには、大変な苦労もあっただろう。
俺は白浜冴子のこの展示の真意を測りかねていたが、この会場に飾られる作品の全てに疑いを向けてしまったことには反省した。
一体この家にはどんな思い出があるのだろうか。白浜が戻ってきたら、『我が家』の絵について話を聞いてみよう。
――なんだか、懐かしいな。
俺の口角が僅かに上がる。ふと、祖父母の家を思い出したのだ。
しかし、ノスタルジーに耽るのも束の間、最後のキャプションに辿り着いてその内容を読みんだ俺は思い切り顔を顰めた。
――2019 白浜昌二 死去。
そこには、太い字で白浜昌二が死んだ年が書かれていた。その後、白浜冴子の言葉が続き、白浜昌二の死因が明かされた。
白浜昌二の最期は――自殺。
まるで白昼夢を見るように、見知らぬ誰かの思い出に入って立ち尽くしていたような感覚が、強引に引き戻される。
2019年といえば、『我が家』を描き終えた年だ。その『2019』という数字に、喉に魚の骨が引っかかっているような気持ち悪さを感じた。
俺は確かめるべくして来た道を戻り、呪いの絵の前に立つ人々の間を割って入る。先ほどまで、礼儀正しく順番を待って進んでいたのがウソのような行動だ。
誰かの不満げな声が聞こえたが、俺に声をかける者はいない。
俺は絵に顔を近づけて、絵の隅にうっすらと浮かんでいた数字を探す。
絵の具で完璧に塗り潰すことのできなかった下書きがうっすらと見えた。
S.S.と丸っこい字で書かれたサインの近くには2022と書かれている。
白浜昌二も丸っこい方の字を書いていたが、他の作品に書かれた筆跡とは違って見えた。
俺はカバンからポストカードを取り出し、宛名の字と絵に描かれた字を見比べる。
「やっぱり……この字は」
「何か気になった?」
ある仮説に辿り着いた直後、後ろから白々しい声が聞こえた。
振り返ると、白浜冴子が後ろに立っていた。
俺は白浜の腕を掴み、人だかりの中を抜ける。
白浜を半ば引き摺るようにして出口まで連れてくると、俺は白浜の腕から手を離し、目を釣り上げながら彼女を振り向いた。
「……これは何かの実験か? それとも、他人が作ったステージを利用してまで、自分の絵を知らしめたかったのか」
俺に睨まれようとも、白浜は怯むことなくうっすらと笑みを浮かべていた。
「白浜昌二が死んだきっかけは……」
「やだなぁ、人聞き悪いよ」
鈴を転がすように笑う白浜冴子に、俺は冷たい汗が背中に流れたのを感じた。
「私は祖父を勇気づけただけだよ。死んで欲しいと思って描いたわけじゃない。本当だよ。……ただ、切に願ってばかりでは苦しいでしょ」
「じゃあ、本当に……」
「真逆の励ましを与えられることの苦痛がどれほどのものか、嵩木くんは理解することができる? たった一枚の絵から本当の勇気を得られるというのなら、絵が持つ力は偉大だよ」
「人は臆病なくらいが丁度いい。絵だって、観る側に及ぼす力はたかたが知れてる。全て思い込みだ。白浜があの絵を使って人々に刷り込もうとしているんだ」
「うん、そうだね。でもやっぱり、あの絵は救いの中に在るべきなの。私がおじいちゃんの救いとなったようにね」
白浜冴子の意図することには、誰も気づかない。
昔からそうだった。
この女は、人の弱い部分につけ込み、自分が望むままに他人を動かそうとする。そしてその通りになると、嬉しくて仕方ない。
それが例え近しい人間の生死に関わろうが、この女は己の好奇心に勝てないのだ。
「あの絵は必要とされてる。必要とする人がいるの。それに、死を選ぶ時くらい後ろめたさなんて感じたくないでしょ。あの絵の存在は救いになるの。だから、呪いという名前こそが重要なのよ」
俺は言葉を失った。
目の前ではにかむように笑う女は、あの絵の行く末を思い描いてしまったらしい。こうなった白浜冴子は、簡単には立ち止まらない。
完璧な呪いが完成するまで、満足することはないのだろう。
「嵩木くんは昔から変わらないね。人の為に行動して、人の為に怒って……私みたいな人間にすら飽きもせずに。すごく良いと思うよ。君のそういうのが好きだから、だから、呪いが生まれる瞬間を見せてあげようって思ったんだよ」
この会場で白浜冴子を遠巻きに見ている人間は、知り合いと楽しげに談笑している美しい女性にしか見えていないだろう。
白浜冴子を美しい人と評することに異論はない。しかし、この女は猛毒だ。
視界に入れただけで他者を死に至らせる程の力を手に入れた――毒の花。
――白浜昌二が描いた『呪いの絵』は瞬く間に有名となり、展示会が開かれると多くの人が押し寄せた。
その大勢の中にあの絵だけを観に来た人間は、どれくらいいるのだろうか。
白浜冴子からは、相変わらず年賀状は届き続けている。
「あっつー…‥」
館内に入ると冷房がよく効いていた。
一種の避難所を見つけた気になり、俺はポケットからハンカチを取り出すと顎に伝った汗を拭く。
汗拭きシートで軽く拭いた方がいいだろうか――?
これから会う人物との再会を想像して、その必要性を感じた俺はトイレに向かうことにした。
そういえば、数日前のことだ――。
郵便物を適当に確認していると、ポストカードが紛れていることに気がついた。
「白浜昌二……?」
聞き覚えがあるような、ないような……。
俺は首を傾げつつも、ポストカードをひっくり返す。
『白浜冴子』
宛名に書かれた名前には見覚えがあった。
白浜冴子。大学時代の友人だ。年賀状のやり取りはしていたが、それ以外では殆ど連絡を取っていない。
珍しい人物からの便りに、俺は目を丸める。
宛名の空いたスペースには、丸っこい字で「良かったら来て」とだけ書いていた。
再びハガキを裏返して、マジマジと裏面に描かれた絵を見つめる。
「……展示会とか、久しく行っていないなあ」
ポストカードの絵を暫く眺めていたが、印刷された絵の画風には心当たりがない。
「身内か誰かの展示会か……?」
それにしても、久しぶりの便りが知らない人の展示会だなんて、白浜の家族か誰かであったとしても、少し奇妙に思える。
電話番号は知っているのだから、久しぶりに会って話したいなら連絡を寄越せばよいものの。
俺は白浜の意図が掴めないまま、展示会場である市立美術館までの電車のルートを調べることにした。
トイレの個室に入った俺は、汗拭きシートで体を軽く拭き、ついでに用を足してトイレから出た。
館内は、想像以上の人の姿があった。
己の顎を摩り、小さく息を吐く。
ラフな格好をしている人もいるが、暑い中でもしっかりとした恰好をしている人の方が多く見える。俺は、支度に気を遣って良かったと安堵する。
当日券を買う時に白浜が在廊しているかスタッフの女性に尋ねると「中にいると思います」とだけ返ってきた。
入り口付近にいないということは、他の来客と話しているのかもしれない。
俺は白浜の姿を発見するまでゆっくりと白浜昌二の絵を見て歩くことにした。
展示のテーマは『光』。
白浜昌二が描く絵には、木々や草花の中に、生活感のある家が建っていた。影を濃く描くことで、陽が当たる場所が酷く眩しく見える。彼の目には、日々は尊くも美しく映っていたのだろうか。
次の部屋に行く頃には、ポストカードが売っていたら買おうかと考えていた。
少し進むと、俺は白浜昌二のプロフィールを見つけた。こういうものは入口にあるものではないのか。頭の中で首を傾げるが、自分があまり美術に詳しくない事を思い出し、俺はこういう場合もあるのかと納得した。
白浜昌二の経歴欄には白浜冴子との繋がりは書かれていなかったが、展示のコンセプトを語ったパネルに正解が書かれていた。
画家である白浜昌二は、俺の大学時代の友人である白浜冴子の祖父にあたる人物であった。
『懐かしくも、どこか物寂しさを感じる絵。しかし、祖父の描く絵には、誰一人取りこぼさぬ救いがある』
祖父の展示を企画した本人である白浜冴子は、白浜昌二の絵をそのように評価したらしい。
誰一人取りこぼさぬ救い、か――。
実に彼女らしい言葉だと思い、俺の心は重たくなった。
ひとつ、ひとつと絵の前で足を止め、キャプションを読んでは次に進む。
白浜昌二の絵は、どこか古臭くて、でも優しい雰囲気を感じられる絵であった。
人の姿が描かれていることは少ないが、生活感が溢れ、まるで過去を辿っているような気になる絵だ。
クマのぬいぐるみと赤い三輪車が描かれた絵のタイトルは『孫のおもちゃ』と書かれていた。
俺は鼻から小さく息を吐き出し、目元を細める。
このタイトルが指す孫というのは、白浜冴子のことだろうか。
白浜昌二の展示会は、白浜冴子が自信を持って古い友人を招待できるものだったのだろう。
「……ん?」
ゆっくりと歩いては立ち止まる。何回か繰り返していると、人が集まっている絵に辿り着いた。
人々は立ち止まったまま、中々その場から退いてくれない。
やけに人気だな。一体どんな絵が飾られているんだ――?
俺は体を揺らすようにして、人と人の間から絵を見ようとした。
ちらりと見えた絵は、これまでの絵の柔らかさは成りを潜め、大胆なタッチと奇抜な色で仕上げられていた。
これまでの絵は二、三本後ろに下がって漸く全体が視界に収まったのだが、この絵はサイズが随分と小さい。A4サイズくらいだろうか。
何か人生の転機があったのか、それとも他の作家から影響を受けたのだろうか。何にせよ、どうして人が集まっているのかが分からなかった。
漸く絵の目の前に辿り着いた俺は、じっくりとその絵を見つめる。
他の絵と比べて、筆の跡が荒々しく感じた。
しかし、不思議と絵の端に掛けて筆の跡は目立たなくなっており、真ん中に描かれた良く分からないモチーフだけが凹凸が激しかった。
「2022……」
目を凝らして見ていると、絵の具の下にうっすらと数字が書いていることに気がついた。
それは鉛筆で書かれているようだった。
その近くには、絵の具で日付らしき数字の2019と書かれている。2019年に描き終えた絵なのだろう。
数字の横にはS.S.と書かれていた。これまでの絵には白浜昌二と崩した時で書かれていたが、気分なのか、他に意味があるのか分からないが、この絵のサインはイニシャルにしたらしい。
絵を描き始めた当初は、2022年まで掛かると思っていたのだろうか?
俺はその数字が気になり、作品の解説に答えらしきものが描いていることを期待した。しかし、その絵だけ作品のキャプションが並んでいなかった。
キャプションはなかったが、タイトルは絵と並んで壁にくっついていた。
「嵩木くん」
俺がタイトルと言葉にしようとした時、澄んだ声が俺の名前を呼んだ。
振り向くと、大学時代の頃よりも大人になった白浜が立っていた。
「来てくれたんだね、ありがとう。久しぶり」
「久しぶり。意外なもんが届いたから驚いたよ」
「ふふ、ごめんね。なんだか嵩木くんに来て欲しくなっちゃって」
「相変わらずだな。その妙に期待させるような言葉で、どんだけ周囲に誤解を振り撒いていたのか忘れたのか?」
「あの時は、嵩木くんや昼子くんがいてくれて本当に良かった」
俺の言いたいことが分かっているくせに、白浜は直す気がないらしい。
白浜冴子。
周りの連中は、彼女を高嶺の花だとか絶世の美女と言った。
白浜は美人であるが、どこか掴みどころのない不思議な人間であり、俺はその時々の言動に薄気味悪さを感じていた。しかし周りの人間に言わせると、そんか所もミステリアスで素敵なんだと。昼子は「なんだか分かるよな~」なんて言っていたが、白浜という人間は、厄介な輩に目をつけられたら俺たちが介入しざるを得ない状況にするのだから、俺は「分かるよな~」なんてことは思わなかった。
「昼子は来たの?」
「ううん、招待したのは嵩木くんだけだよ」
白浜が、目を細めながら首を傾げると美しい黒髪がサラりと流れた。
俺は白浜の言葉に眉を顰める。
「なんで?」
「万が一を考えて」
「……また何か厄介なことをやってるんじゃないだろうな」
「どうして?」
「忘れたとは言わせないぞ」
「……勿論、二人と過ごしたことは忘れたことないよ」
そうじゃない。しかし、そう言ったところで白浜冴子はのらりくらりとかわす。ずるい奴なのだ。
俺がムッとしていると、白浜は俺の腕を掴んで人だかりを抜けた。
「絵の前もなんだし、こっち来て話そうか」
「悪い」
「ううん」
白浜は展示場の部屋の隅まで俺の腕を引っ張ってやって来ると、先ほど見ていた絵をチラリと見たあと手を離した。
「あれ、不穏なタイトルなんだな。この先からはそういったモチーフの作品が並んでいるのか?」
「ううん。あれだけだよ。他は、優しくて少し寂しい絵だよ」
白浜は微笑んだまま、小さな絵の方を見ていた。
「どうして、あの絵が人気か分かる?」
「……怖いもの見たさ、とか」
俺は、白浜の問いの意図を考える。
一つだけ、際立って人だかりのある絵。
あの絵のタイトルだけが異質だった。
『呪いの絵』
実にストレートなタイトルだと思った。
「この展示のテーマは光だったよな。救いとか、そんな意味が込められた絵を集めたんじゃないのか?」
呪いの絵を眺めている人々の背中を見つめていた白浜は、ゆっくりと俺に視線を向ける。
白浜は、相変わらず笑みを浮かべていた。
「例えば、あの絵だけが自ら死ぬことを肯定してくれるとしたら? それは、誰かの救いなってはいやしないかな」
「死にたいから、この絵を観にくるって?」
「例え話よ」
「いや……それは、あまりにも飛躍しすぎちゃいないか?」
「嵩木くんはピンと来ないんだね」
白浜の声色は嬉しそうだった。まるで、俺の反応が望んでいたものであったようだ。
「心の奥底では死を渇望しているのに、家族とか友達とか、色んなことを考えちゃったりして、頑張ってる人が多いと思わない? だからなのかなあ。あの絵だけを観に来る人って、結構いるんだよ」
僅かに目を伏せるも、白浜の口角はあがったまま。
こういう表情をしている時の彼女がいかに面倒臭い人間であったか。俺は少しずつ思い出していた。
「それで、そういう人って同じことを聞いてくるの。この絵を見たら死ぬんですかって。だから、私はそうですって答えるの。そうしたらね、その人たち、安心した顔をするんだよ。だから、この絵を見た後に死んでも、本人のせいでも、他人のせいでもないんでしょうねって、私、言ってあげるの。そうしたら、もっと嬉しそうな表情になるの。私ったら、なんだか良いことを教えてあげた気になっちゃって」
鈴を転がすように可愛らしく笑う白浜だが、俺は彼女のことを可愛いとは全く思えなかった。
高嶺の花? こいつが?
美醜だけを指して例えるなら、一先ず納得してやろう。しかし、この女は花は花でも猛毒を宿した花だ。
「……お前、悪趣味だぞ」
「どうして? 嵩木くん、この展示会のコンセプトをちゃんと読んでくれた?」
「光だろ」
「うん、そうだね」
「……他は」
――誰一人取りこぼさぬ救い。
俺は思い切り眉を顰める。
「……死に救いを見出す奴がいるか」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えつつも、白浜を睨む。そして、喉の辺りで蟠っているモヤモヤを静かに吐き出した。
白浜は、俺が苛立っていることに気がついている癖に、意に介さないといった様子で続ける。
「どんなことにも、どんな人にも、どんな時にも励ましは必要だよ。誰もが、必ず訪れる自分の結末のために頑張ってる。大往生するまでの過程も大切だと考えている人がいれば、最期だけは望む形にしたいって思う人もいる。前者の方が前向きでいいね。でも、後者を悪く言う必要はないでしょう?」
白浜の語り口調を聞いている内に、俺は大学時代の白浜を思い出した。
素直にならなきゃ――、白浜はそういってギリギリで踏みとどまっていた他者の欲望を無邪気に引き摺り出すような人間だった。
その中には取り返しのつかないこともあり、白浜が引き金となって犯罪を犯した者までもいた。
しかし白浜は言葉で唆すだけであったため、咎められることはなかった。しかも、周囲の人間と関係が壊れることがなければ、犯罪を犯した者までもが白浜を恨むようなことはなかった。
寧ろ、重大なことを犯す者ほど、タガを外してくれた優しい人として白浜にのめり込んでいった。
「この絵を見た人は呪われて、時々の人は死んでしまう。多くの人に望まれてそうなっていくのよ。他者に責められることを想像して躊躇するのなら、自らの死を肯定できるような理由を作ってあげればいいんだって、私の考えは行き着いたの」
白浜冴子は、白浜昌二の絵を使って呪いを世に広めようとしている。
あの絵は、呪いという名を背負ってこその所以とされようとしているのだ。
「あの絵は、これからもっと知名度が上がって、呪いの力が強まっていく。この絵を見たら死ぬ、この絵を見たら死ねる。この絵はね、誰にも言えない願いを叶えるきっかけになるのよ」
「確かに、自らの死を望む人にとって、この世の中は肩身の狭い場所ばかりかもしれない。けど、生死に関わる行動を決めて良いのは本人のみであるべきだ。白浜が後押しをしていいものじゃない」
「嵩木くんは、どうして怒っているの? 私は人が望むことしかしてないのよ? 恨まれるようなことはしてない。それなら、悪いことなんて一つもしていないじゃない」
白浜冴子は頭が可笑しい。
他者の行動を否定しろとは言わない。色々な考え方があることだって、俺は理解しているつもりだ。
しかし、白浜が考える慈善活動は似て非なるもであり、易々と認めて良いものではない。
人に与える影響力が増した白浜冴子は、危険以外の何者でもない。
「白浜さん、少し良いですか?」
「あぁ、分かりました」
どのような言葉をかければこのような事を止めるのか、俺が考えあぐねていると、展示会場のスタッフらしき人物が白浜の元にやって来た。
白浜は、スタッフがチラリと振り向いた先にいる人物を見ると納得したように頷く。
「嵩木くん、ごめんね。ちょっと離れるね」
「ん」
「帰らないで待っててね」
「はいはい、分かったよ」
俺が適当に返事をすると、白浜は「絶対だよ」と念を押してその場を離れて行った。
知り合いらしき人物と一緒に絵を見て回り始めた白浜を見て、俺は途中になっていた絵の観覧を再開した。
呪いの絵以外は、やはり物寂しさを感じるものの、優しく、人のぬくもりを感じるような絵ばかりであった。
最後の絵に辿りつくと、俺はじっくりとその絵を目に焼き付ける。
細い川からは水光の輝きが見え、木々と密接している木造の家からは家鳴りが聞こえてきそうであった。
『我が家』
最後の絵につけられたタイトルは、至ってシンプルなものであった。
俺は、この絵のタイトルを気に入った。
これまでの絵では、誰の家か分からないものの、確かに感じる人の影を探し続けた。
誰かのあたたかな記憶の中に立って、少し埃臭い田舎の風景を見渡すと、誰かが傍にいた気がするのだ。そして、一枚、一枚と絵を見て回ることは、家を一軒、一軒と見て回っているような感覚に近かった。
『我が家』とは、白浜昌二の家なのだろう。
この絵から感じられるのは、長閑の中にあるより一層リアルな人の営みであった。
自分の家なら、家の横に生えている木の歴史も、転がっているおもちゃが誰のものかも、家の中に誰がいるのかも、全て知り尽くしているはずだ。だからこそ、説得力のあるリアリティーが描かれた。
一つだけ物騒な絵が飾られていたが、あの絵を抜きにすれば、とても良い展示だったな――。
少し萎えていた気持ちが元気を取り戻したことで、俺は『我が家』と名付けられた絵のポストカードが売っていたら購入しようと心に決めた。
この時、すっかり気分を良くした俺は、この展示を企画した人物が誰であったか忘れていた。
「まだ続いてるのか」
後は展示場を出るだけだと思っていた俺は、ポツンと寂しく壁に貼られているキャプションを見つけた。
そのキャプションには白浜冴子の言葉で白浜昌二の人となり、そして二人の思い出が綴られていた。
白浜冴子は、祖父のことが大好きだったのだろう。
だから、こうして展示会を開いた。
白浜昌二は大きな絵を描いた。数歩下がらないと全体が視界に入らないほどの、大きな絵だ。
好奇心だけで行動を起こすには、大変な苦労もあっただろう。
俺は白浜冴子のこの展示の真意を測りかねていたが、この会場に飾られる作品の全てに疑いを向けてしまったことには反省した。
一体この家にはどんな思い出があるのだろうか。白浜が戻ってきたら、『我が家』の絵について話を聞いてみよう。
――なんだか、懐かしいな。
俺の口角が僅かに上がる。ふと、祖父母の家を思い出したのだ。
しかし、ノスタルジーに耽るのも束の間、最後のキャプションに辿り着いてその内容を読みんだ俺は思い切り顔を顰めた。
――2019 白浜昌二 死去。
そこには、太い字で白浜昌二が死んだ年が書かれていた。その後、白浜冴子の言葉が続き、白浜昌二の死因が明かされた。
白浜昌二の最期は――自殺。
まるで白昼夢を見るように、見知らぬ誰かの思い出に入って立ち尽くしていたような感覚が、強引に引き戻される。
2019年といえば、『我が家』を描き終えた年だ。その『2019』という数字に、喉に魚の骨が引っかかっているような気持ち悪さを感じた。
俺は確かめるべくして来た道を戻り、呪いの絵の前に立つ人々の間を割って入る。先ほどまで、礼儀正しく順番を待って進んでいたのがウソのような行動だ。
誰かの不満げな声が聞こえたが、俺に声をかける者はいない。
俺は絵に顔を近づけて、絵の隅にうっすらと浮かんでいた数字を探す。
絵の具で完璧に塗り潰すことのできなかった下書きがうっすらと見えた。
S.S.と丸っこい字で書かれたサインの近くには2022と書かれている。
白浜昌二も丸っこい方の字を書いていたが、他の作品に書かれた筆跡とは違って見えた。
俺はカバンからポストカードを取り出し、宛名の字と絵に描かれた字を見比べる。
「やっぱり……この字は」
「何か気になった?」
ある仮説に辿り着いた直後、後ろから白々しい声が聞こえた。
振り返ると、白浜冴子が後ろに立っていた。
俺は白浜の腕を掴み、人だかりの中を抜ける。
白浜を半ば引き摺るようにして出口まで連れてくると、俺は白浜の腕から手を離し、目を釣り上げながら彼女を振り向いた。
「……これは何かの実験か? それとも、他人が作ったステージを利用してまで、自分の絵を知らしめたかったのか」
俺に睨まれようとも、白浜は怯むことなくうっすらと笑みを浮かべていた。
「白浜昌二が死んだきっかけは……」
「やだなぁ、人聞き悪いよ」
鈴を転がすように笑う白浜冴子に、俺は冷たい汗が背中に流れたのを感じた。
「私は祖父を勇気づけただけだよ。死んで欲しいと思って描いたわけじゃない。本当だよ。……ただ、切に願ってばかりでは苦しいでしょ」
「じゃあ、本当に……」
「真逆の励ましを与えられることの苦痛がどれほどのものか、嵩木くんは理解することができる? たった一枚の絵から本当の勇気を得られるというのなら、絵が持つ力は偉大だよ」
「人は臆病なくらいが丁度いい。絵だって、観る側に及ぼす力はたかたが知れてる。全て思い込みだ。白浜があの絵を使って人々に刷り込もうとしているんだ」
「うん、そうだね。でもやっぱり、あの絵は救いの中に在るべきなの。私がおじいちゃんの救いとなったようにね」
白浜冴子の意図することには、誰も気づかない。
昔からそうだった。
この女は、人の弱い部分につけ込み、自分が望むままに他人を動かそうとする。そしてその通りになると、嬉しくて仕方ない。
それが例え近しい人間の生死に関わろうが、この女は己の好奇心に勝てないのだ。
「あの絵は必要とされてる。必要とする人がいるの。それに、死を選ぶ時くらい後ろめたさなんて感じたくないでしょ。あの絵の存在は救いになるの。だから、呪いという名前こそが重要なのよ」
俺は言葉を失った。
目の前ではにかむように笑う女は、あの絵の行く末を思い描いてしまったらしい。こうなった白浜冴子は、簡単には立ち止まらない。
完璧な呪いが完成するまで、満足することはないのだろう。
「嵩木くんは昔から変わらないね。人の為に行動して、人の為に怒って……私みたいな人間にすら飽きもせずに。すごく良いと思うよ。君のそういうのが好きだから、だから、呪いが生まれる瞬間を見せてあげようって思ったんだよ」
この会場で白浜冴子を遠巻きに見ている人間は、知り合いと楽しげに談笑している美しい女性にしか見えていないだろう。
白浜冴子を美しい人と評することに異論はない。しかし、この女は猛毒だ。
視界に入れただけで他者を死に至らせる程の力を手に入れた――毒の花。
――白浜昌二が描いた『呪いの絵』は瞬く間に有名となり、展示会が開かれると多くの人が押し寄せた。
その大勢の中にあの絵だけを観に来た人間は、どれくらいいるのだろうか。
白浜冴子からは、相変わらず年賀状は届き続けている。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
怪物どもが蠢く島
湖城マコト
ホラー
大学生の綿上黎一は謎の組織に拉致され、絶海の孤島でのデスゲームに参加させられる。
クリア条件は至ってシンプル。この島で二十四時間生き残ることのみ。しかしこの島には、組織が放った大量のゾンビが蠢いていた。
黎一ら十七名の参加者は果たして、このデスゲームをクリアすることが出来るのか?
次第に明らかになっていく参加者達の秘密。この島で蠢く怪物は、決してゾンビだけではない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
#彼女を探して・・・
杉 孝子
ホラー
佳苗はある日、SNSで不気味なハッシュタグ『#彼女を探して』という投稿を偶然見かける。それは、特定の人物を探していると思われたが、少し不気味な雰囲気を醸し出していた。日が経つにつれて、そのタグの投稿が急増しSNS上では都市伝説の話も出始めていた。
短な恐怖(怖い話 短編集)
邪神 白猫
ホラー
怪談・怖い話・不思議な話のオムニバス。
ゾクッと怖い話から、ちょっぴり切ない話まで。
なかには意味怖的なお話も。
※追加次第更新中※
YouTubeにて、怪談・怖い話の朗読公開中📕
https://youtube.com/@yuachanRio
【死に文字】42文字の怖い話 【ゆる怖】
灰色猫
ホラー
https://www.alphapolis.co.jp/novel/952325966/414749892
【意味怖】意味が解ると怖い話
↑本編はこちらになります↑
今回は短い怖い話をさらに短くまとめ42文字の怖い話を作ってみました。
本編で続けている意味が解ると怖い話のネタとして
いつも言葉遊びを考えておりますが、せっかく思いついたものを
何もせずに捨ててしまうのももったいないので、備忘録として
形を整えて残していきたいと思います。
カクヨム様
ノベルアップ+様
アルファポリス様
に掲載させていただいております。
小説家になろう様は文字が少なすぎて投稿できませんでした(涙)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる