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第十二章 再会
第六話
しおりを挟む筆が真っ白なキャンバスを撫でる度に小窓の世界は色づく。
画家の背後から絵の完成を心待ちにしたあの穏やかな時間の居心地の良さといったら、何と例えられるだろうか。
もしかして、誰かの世界を描く画家の手の側面、或いは服の袖に誤って色が付いてはいないだろうか?
気をつけていてもうっかり服の袖とかに絵具をつけてしまうものでね。お気に入りの洋服を着て描くことはまずないが、その時は充分に気を付けなくてはいけない。
私たちは何枚も、何枚も様々な世界を描いているこの手で、絵具のチューブのキャップを回し、目分量の色と色をパレットの上に押し出して小さな世界の理想を追い求め続ける。
絵の具とは便利な物で、液体が乾く前に別の色を混ぜれば欲しい色を作ることが出来る。同じ種類の花を描こうとしても葉や花弁の色に同じ色をした部位はなくて、また時間帯によってその色が変わることだろう。
今日、描き始めた花は明日には違う色をしているのだ。
一輪の花を描くにしても画家は手早くスケッチをし、色を塗って沢山の情報を頭の中に詰め込むことだろう。そして画家自身が心の中で見ている花の色をパレットの上で作る。
人の目は他者と同じ色を見ていない。それなら物の色とはキャンバスの中で如何にそれらしい色をしていられるかどうかが大切なのではないだろうか。
赤と青を混ぜれば紫色に。
黒と白を混ぜれば灰色に。
目が瞬時に認識出来る色の中に黄色など他の色を混ぜ合わせたなら、より一層見たものの色に近づけることが出来るだろう。
私が見ている赤色の花は本当に赤色をしているのか。花弁や葉の脈の色は? その花びらは先に掛けて鮮やかなグラデーションを作り上げてはいないか?
花の赤色は、どんな赤色をしているのだろうか?
色を見極める時、用心深くよく観察しなくてはいけない。
きっとこの世界についても同じことで、一瞬に見えたものを真実であると信じてその本質を探ろうとしないことは浅はかである。
傲慢さを持たない人は人間の指を五本とせず、耳の位置を顔の真横とも決めつけはしない。個の持つ色など最たるもので、髪の色や肌の色、瞳の色に心が陰ることもないだろう。自身が未だ知らぬ色があると理解している画家もまた、個が持つ色や体の部位の数が我々自身の価値になり得ないということを知っている。何故なら、画家にしてみれば髪や肌、瞳の色なんて少量の絵具を混ぜるだけで表現を分けることが出来るほどちっぽけな違いなのだ。
例えばよく似た親子を描こうとしたところで、目が良い画家は親を描くのに使った絵具をそのまま子供を描く時に使わないだろう。
室内で仕事をしている親なら、あまりその肌は日焼けていないのだろうが、一方、連日外遊びをしている子供の肌はよく日に焼けてはいないだろうか?
同じ屋根の下で暮らしている家族であっても、私たちは同じ色をしていない。
画家はこの世界に一つしかない色を見極めなくてはならない。
だから、空の色を青とはせず、海の色を青としない。
描くことを苦手と思う者は、風の色を問われたらなんて答えるだろうか?
風に色はない。それなら思い描く風の色は何色なのだろう?
白。
薄緑。
水色。
青色。
薄桃色。
オレンジ色。
それとも、誰か一人くらいは一色で描きあげてしまうだろうか。
分かっていて欲しいことは、風の色に答えなんてないってこと。
見ることも出来ず、触れることも出来ない風なんてものを知るというのは、描いた人だけが見た色であり、硬さや柔らかさなのだ。
また、色や形の正解を決めるのは、一体誰なのだろうか。
画材の種類によっては色が僅かに濁る。水によく溶ける絵の具はチューブから出した色をそのまま活かして描いた方が、本来その色が持つ鮮やかさを失わせずに色が塗れる。
しかし、画家の数もまた千差万別。その濁りを好ましく思う者もいるのだ。
どうせ描くのなら綺麗で、誰もが癒される絵を追い求めたいと言う者がいるかもしれないが、考えてみて欲しい。
この世界にある殆どの名画は当てはまるものばかりだろうか?
苦しい生活の中一生懸命に生きている人々。
苦しそうな人。
泣いている人。
薄暗い部屋、曇った景色。
そんな絵に惹かれる時はないだろうか?
そうした絵を描く時は鮮やかさに出番はあまりないかな。
負の感情ともいえる絵から目を離せない時に感じるものを例えるなら、それは親近感や既視感ではないだろうか。感情の喜怒哀楽。幸せも、苦労も沢山した人の目や心は、先入観などを持たぬまま、清らかな心で絵を見ることが出来る。
そうした者は通りすがりに見るのではなく、真正面からじっくりと絵を眺めるのだろう。
正しいとは誰が決めつけているのか。
認識の多さによって正しさが決まるのか。
絵はありのまま、描かれたままでしか在ることが出来ない。
絵の中にある沢山の色を見ることが出来る人は幸いだ。多彩な絵は香りや視線、温度さえもが伝わるもので、絵を通して人と出会い、世界を旅することが出来る。
描くことは人生。人生とは描くことのようである。
実のある人生とは、新たなことを発見しようと思う気構えが必要なのだ。
「テオ」
扉の前から親しみ深い名前を呼ぶ。
「あいてる」
部屋の向こうから聞こえた返答に、少しだけ重たく感じるその扉を開けながら、嗚呼、ルカさんもこんな気持ちだったのだろうかと頭の中で考えた。容易く入りたいのに、どうも心が緊張をしていると主張していた。
緊張する自身は可笑しくて、違和感を感じるものなんだね。
「デイジーとのお茶会は終わったのか?」
「うん。お茶のおかわり持って来たよ」
持って行ってあげて、と渡されたのは大きなティーポット。アトリエに籠ると中々出てこない彼の為にデイジーが買ったものだ。
部屋の中でテオは絵を描いてはおらず、鳥の図鑑の様なものを読んでいた。
私は小さなタイヤが付いたワゴンテーブルにティーポットを置いてウッドチェアの背もたれに掛けられた布をどかす。この布が厄介なモノで、乾き切っていない絵の具がついていることを知らず、そのまま椅子に座り背もたれに体を預けたが最後。お気に入りの洋服は台無しになってしまう。
「旅先ではどんな鳥を見た?」
私が椅子に座るとテオは口を開いた。
「色々な鳥を見たよ。トンビもいたしスズメもいた。港にはカモメが飛んでいて、大きな屋敷ではクジャクを飼っていた。……あと、深い森の奥には美しい白銀の羽をもつ子もいてね、歌が上手だったよ」
「ふぅーん……。大きさや見た目が変わっても鳥は何処にでもいるもんだな」
「そうだね。鳥がいない土地は厳しいだろうし、そうした場所に人は居着かないんだろうね」
スカートがめくれ上がらない様にしながら片足を椅子に乗せて膝の上に手と顎を乗せる。
紅茶を運び終えても私が部屋から出て行かないことを悟ったのか、テオは開いていた図鑑を閉じてテーブルに置いていたティーカップに紅茶を淹れた。
「アンタのカップは?」
「さっき沢山飲んだから」
「……そこに使っていないのがあるから飲みたくなったら使えよ」
「うん、ありがとう」
使っていないティーカップとは私と姉が使っていたカップのことだ。
キッチンに置いておけば良いものの、整理整頓された棚に置いているティーカップは定期的に磨かれているのか綺麗であった。私と姉は、紅茶を飲みながらテオの背中越しに描かれる絵を見るのが好きだった。
囁き声で喋っていればいつの間にか彼も会話に入っており、父親になってもテオはお茶目で気さくだった。
「足の調子は?」
私の問いにテオは温かな紅茶を一口飲んだあと、カップを持っていない方の手で膝を撫でた。
「相変わらずだよ」
相変わらず、ということは杖を使わなければ長時間歩いていられないということか。
足を悪くしてから随分と時間は経ったが、杖をつく彼の姿には未だ違和感を感じる。
「デイジーに美味しい物を食べさせて貰っていても、若い頃の不衛生と不健康な生活ではこうなるのも仕方ない」
それについては私が身を持って思い知ったことだ。なんていったって住む家も無く粗末なものを食べて不衛生に生活していた三度目の私の人生は、今の彼の年よりも早く終わってしまったのだから。ただ、彼に限ってはそんなことにはならないと信じていたくて言葉を飲み込んだ。
「牛乳飲んでるの?」
「うん? 飲んでいるよ」
「牛乳は骨を強くしてくれるんだから、沢山飲まないとね」
「……あぁ。うん、そうだな」
テオは何を言っているんだ? と言いたげに目を丸めた後、健康に対する足掻きをみせる私の言葉に小さく笑った。分かっているよ。傷んでからでは体のパーツの健康は中々取り戻せない。分かってる。分かっているんだ。でも、大切な人のことほど諦められないものでしょう?
「絵、描かないの?」
「ゆっくり話でもしようと思っていたんだが、なんだ、作業を見たいのか」
「うん。それにテオは私と違って描きながら喋れるでしょ」
「ああ、器用なものでね」
テオは冗談をいうようにワザと鼻につく言い方をして「どれ」と言って薄い木の板を手に取った。先ほどまで絵を描いていたのかパレットには真新しい絵の具が出ていて、彼はその中から絵具を筆の先で掬い取って躊躇することもなく木の板を撫でた。
「最近はずっとこの絵具を使ってるんだ」
「伸びが良いの? それとも発色を気に入ってるの?」
「どちらもかなあ。擦れることなく画面の端と端まで色は続いて、何度か色を混ぜてもそんなに濁らない。……良い絵の具だよ」
へえ、と彼が動かす筆を目で追いかける。確かに気持ち良さそうに色が伸びている。何度も画面を撫でなくても良いほど、しっかりと色は乗っていた。
「夜の絵」
「良く分かったな」
「描く順番にも個性が出る。……君は描き方が変わっていないようだから」
絵を描く画家の傍に座ってその手先を眺めることを許される人は幸福だ。だって、こうして一から世界が造られるのを見守ることが出来るのだから。
テオは人に見られながら絵を描くことに慣れている。道端で絵を描いて生活費を稼いでいた人なのだから、必然的に身についた感覚ともいえるだろう。
世の中には絵が完成するまで見られたくない人もいる。完璧でないものは他者に見せられるものではないと考えているのだろう。下描きなんてもっての外だと。何度も構図を描き直した時なんかは葛藤や迷い、筆の跡から自身のそんなものが見えるようで嫌なんだと。そんなものを感じずに美しい絵だけを見て欲しいと、とある肖像画家は言っていたのだっけ。
肖像画家が言うこともまた、大切なことだろう。
だから、絵を描く過程を見ることが出来るのは幸いなことなのだ。
「青と緑というのは時に見え方に差が出る」
パレットに紺色を出し、筆で何度も撫でる様にして色を毛先に馴染ませながらテオは呟いた。
「描くことを知らない人は色の僅かな違いなんて気にしない。例えば一人の正しい者が湖の底の色は緑色だと言っても、大勢が青色に見えると言えばその色は青色になってしまうんだ。色とは人によって認識が異なる」
「うん」
「大勢の目が湖の底の色さえ正しく認識出来ていなかったとしても、数の多さというのは時に偽りの正解を作ってしまう。そうなれば正しい目を持った者は悔しいだろうし、悲しいだろうな」
「……うん」
大衆とは厄介なもので、心の中で小さく認識していたことを誰かが大きな声で主張し始めると途端に自信を持つ。大きな声を前に、正しさや間違いなどは関係なくて、そうした者たちは物の本質というものが理解が出来ない。ただ、主観で語り、価値を付け、己の自信の糧にする。数秒口を閉ざして知識ある者の話を聞けたなら、もっと世界は輪郭を持って創造されていくだろうに。
こうしなくてはならない、これはこうあるべきだ。
そんな言葉は呪いのようなものだ。
この世界で乙女の輪郭を正しく知る者がいないように、世界の枠を決められる者とていない筈だ。
「だからな、シズリ。アンタは沢山の人と出会って絵を描くんだ」
絶望の中を生きている時、絵を描くことが上手な少年が言った。
――絵のことなら生きることが楽しいと思えるまで教えてやるよ。
彼が生きる為に習得したはずの技術を、彼は惜しみなく私に教えてくれた。
テオは信じて止まないのだ。絵を描くこと。これが私の生きる糧になる、私の生きる理由になり得ると。
「いずれ俺たちはこの世からなくなる。シズリを知る人間は、減る。…………いいか、数の多さは時に身を守ってくれる。心を守ってくれる。アンタは運が良いからきっと出会いには恵まれるだろう。だから、あとは世界中の人の絵を描くんだ。世界の端に行こうがシズリの名前を知る者がいて、アンタを大切にしてくれる人と沢山の縁を結ぶんだ。俺たちの知らない色があるように、俺たちのことを知らない人も沢山いる」
作業テーブルの向かいにある三つ並んだ小窓から色濃い午後の光が射していた。
分厚くなった彼の手の指の先は何十年も筆を握り続け固く盛り上がっている。絵の具を落とす為に入念に手洗いをしているだろうが商売道具のメンテナンスは怠らない為、その指の先まで乾燥し傷んでいる様子はない。
「色の数だけ、人の数がある」
彼は信じて止まない。
絵は人を救う力があると。
テオドール。
それは遠い国の本に記されていた名前。
天にいる綺麗で大きな人からの贈り物をそう呼ぶのだそうだ。
私が知るテオドールは、ぶっきらぼうな物言い、太陽のように明るい人といえば良く聞こえるが、見え方によってはガサツそうな見た目をしている。
しかし、彼は美しい人であった。
キャンバスを見つめる瞳の輝き、繊細に筆を動かす手。太陽の下で絵を描く彼の姿は、一枚の厳かな絵画のようだった。
「だから、たくさん絵を描くんだぞ」
過去に、葉の上で輝く白露を見ながら「一滴でも落ちるのが惜しい」と彼は言った。
葉や花にくっつく水滴はガラスビーズの様に輝き、旅の途中に在る私たちを何度も癒してくれた。
自然が生み出した偶然の産物。明日に見たその雫は今日見たものとは違うのだろうが、同じように植物を濡らしているのだろう。
私たちは傲慢であるからして、美しいものでさえ見慣れた気になる。しかし彼の瞳はいつだって新しいことを見つけることが出来た。
彼の言葉を聞いて、なんだか、私も雫の一滴が儚いもののように思えた。
霜が降りてしまえば、夜を超えた葉の上の小さな輝きとは暫くお別れ。
漠然と思ったのだ。嗚呼、本当だ。なんて惜しいのだろう、と。
今、私たちが見た白露はもう二度と見ることが出来ないのか、と。
「うん。描くよ。美しいと思ったものを全て描く。空を描くよ、森も描く。花や木も描いて、……人を描き続ける」
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夜の森は青色。夜空は紺や紫色で、月は灰色を使って描かれていた。
森の色は緑と決められていない。
夜空は黒でも、月は黄色と決められてもいない。
一般的な答え通りに描いたものが美しい絵という訳ではないのだ。
「覚えていること。なんだか、それが私の望みだと思えるの」
カタン、と筆をパレットに置いて、温くなっているだろう飲みかけの紅茶が入っているティーカップに口をつけてテオはゆっくりと目を閉じ、可愛らしくカールした長い彼の睫毛が健気にふるりと震えた。
「柔軟にいればいいさ。また嫌になったり疲れたりしたら休めばいい。物書きではないが休筆ってやつだ。自分に描くことを強要したって良い絵は描けないからな」
「うん」
「あと、心挫けることがあっても描いた絵は破いたり燃やしては駄目だぞ」
「そんなことしないよ」
「分からないぞ? 長い時を過ごすことは容易ではないからな。なんでこんなことをしてるんだって思う日が訪れるかもしれない」
ゆっくりと開かれた瞳は描き途中の絵を真っ直ぐに見た。
「どんな理由があっても、描いて来たものを壊してしまうのは駄目だ。後悔して泣くのはお前だけだからな。持っているのが辛くなったらリュックの底に仕舞ってしまえ」
この先、描くことが辛くなる日なんて来るのだろうか。
描きながら涙が出ることはあるが、描きたくないと思うことが、いつか……。
「自分を疑ってこんな絵は見たくないと思ったとしても、ふとした時に見たくなるもんだ」
絵から視線を外して私の方に笑顔を向けるテオにゆっくりと頷く。
「テオにも描きたくないと思う日があったの?」
「あるさ」
「その時はどうしたの?」
「食うのに困るから描くことはやめられないが、そうした時は出来が悪いものが生まれる。俺を頼ってやって来た依頼主には申し訳なさでいっぱいになってな。……そんな気持ちになるのは嫌だから温かいもん飲んで早めに寝る。明日にはちゃんと絵と向き合おう、そう念じながら寝るんだ。早起きして見る日の出はいいもんだろ?」
テオでも描きたくないと思う日があるのか……。
絵を沢山描いてきた人でも、そう思う日があるんだ。
「日の出のことをどっかの国では彼者誰とも言うそうでな。日が昇らない時間にあれは誰だ、と人の顔を見分けられない時間帯をそう言うんだと。その時ばかりは絵描きの坊主ではなくて、顔も分からぬ知らない人になれる。俺にとって、それは大切な時間だった」
「誰か分からないなんて、誰も自分のことが分からないなんて怖くはない?」
「シズリは怖いのか」
「怖いよ。私は私でなくなることが怖い」
「絵は輪郭から描かない場合、靄の様な曖昧としたものから物体が浮かび上がるだろう? 下塗りをして沢山の色を重ねていけば徐々に見慣れたものが現れてくる。そんなものだと思えばどうだろうかな、怖いことなんてない筈じゃないか? 絵は描くことを止めなければいずれ完成する。俺たちもそういう存在と思っていればいいさ。生きることを止めなければ、俺たちは意図せずとも自分にしかなれん。そういうもんだと、俺は思うよ」
朝の暗がり隠れている人に近づいて、それが知り合いだった時、きっと凄く嬉しいだろう。その人が座って日の出を見ていたのなら横に座って辺りが完全に明るくなるのを一緒に見届けたい。お互いの姿が漸く見えたなら簡単な会話をして、私たちは互いの生活に戻っていくのだろう。大きな変化がある訳ではないが、きっとその一日は良い始まりを迎えられる。
だって、嬉しい気持ちで一日を始められるはずだから。
「絵の完成が近づいた時、やっと本当の自分を生きられるのかな」
「何も、完成しなければいけないことはないだろう。輪郭を持たずとも頭の中で描くものを見た時、すでに自分はキャンバスの中にいるんだよ」
今の私を例えるなら、未だ輪郭を与えられていない姿だろう。目や鼻、口もまだなくて、目元の窪みが分かるくらいだろうか。衣服の色も定まっておらず髪は風に靡いているのか、大人しく流れているのかすら決まっていない。
でも、そうか。
曖昧な姿しか得られていないけど、それは私なのか。私の手は私を作るために何度も色を重ねている訳であり、描くことは決まっていることなのだ。
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
オウム返しの様な返答をするテオが可笑しくて「ふふ」と小さな笑いが零れた。
私はなんだか気分が良くなり、立ち上がって棚に置いている小さなティーカップを手に取ってすっかり冷めているだろう紅茶を淹れて一口飲んだ。先ほどデイジーと飲んでいた紅茶はダージリン。今飲んでいるのはアールグレイ。きっとデイジーが被らない様に気を使ってくれたのだろう。
「新しいのを貰ってこようか?」
「ううん。これでいいよ」
「面倒臭がりだな」
「面倒とかじゃなくって、今みたいに話し込んで冷めた紅茶を飲むたびに、こうしてテオと話した内容を思い出せる気がするの」
テオは片眉を上げて、仕方ないなあ、って言いたげな顔をしていた。もしかすると、ずぼらな奴だ、とでも思っているかもしれない。
「私、絵の具がこの世に在り続ける限りテオのこと覚えていられる自信があるよ」
「それなら絵の具臭い奴がそばに寄るだけで俺と勘違いしちゃったりしてな」
「んっふふ……! それは実にマヌケなもんだ」
「ああ、マヌケだよ。……本当」
目を細めて笑うテオのその眼差しはデイジーや姉、私たち家族が揃っている頃によく見た表情だった。
私はその表情を見て酷く安堵した。自分もちゃんと彼にとって家族だったんだなと、そう思えたのだ。
よっこいせ、なんて言って立ち上がったテオに手を貸そうとしたが手の平をこちらに向けて制されてしまった。彼は杖とティーポットを持ち、こちらを振り向く。
「扉をあけてくれ」
「紅茶なら私が淹れて来るって」
「これくらいは俺にも出来る。アンタは扉を開けたら座って待ってろ」
デイジーが淹れてくれる紅茶も美味しいがテオが淹れる紅茶もまた美味しい。
同じ食器と葉を使っている筈なのに少しだけ味や香りが違うのだ。デイジーが淹れる紅茶は香りが強くて、テオのは甘い。不思議だ。
「冷めた紅茶も美味いが、アンタが俺との時間を思い出すなら温かい紅茶を飲んだ時の方が、俺は良い」
ポツリと独り言のようにそう言ってテオはゆっくりと部屋を出て行った。多分、照れているのだろう。
私は椅子に座り直してカップに入れた冷たい紅茶を一気に飲んでテーブルに置き、椅子の上にもう片方の足を乗せて膝を抱えた。
膝に片頬を乗せて太陽の光が射す三つ並んだ小窓を眺めれば、キッチンからは三人の声が聞こえた。ああ、ルカさんはデイジーと一緒にいたのか。
遠くに聞こえる聞き慣れた声に耳を傾けながら、睫毛にくっつきそうな太陽の光をひっぺ剥すように瞼を閉じる。
――泣くのはお前なんだぞ。
テオはよくこの言葉を言った。
私が自暴自棄になっていたとき、希望を見失っていたとき。
自分なんてどうでも良い、と私が私を見捨てようとしたとき、彼は私に繰り返し言い聞かせた。
他者は芽吹いた花に水やりをしてくれるだろうが、身を挺してまで嵐からは守ってくれない。
だから、彼は私に自分を大切に想えと教えた。
ゆりかごを揺らすようにゆらり、ゆらりと二回ほど体を前後に揺らせば、ギィ、ギィと椅子が軋んだ。まるで私の椅子に対する扱いに文句を言っているようだった。
「……そりゃそうか」
こんなことで椅子は壊れないだろうが、長く一緒にいる為に優しくしてやらなければいけないね。
温かいものは優しくて愛おしい。
私も、彼を思い出すのはそんな温かなものに触れた時がいい。
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