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第十章 人成らざる者達
第一話
しおりを挟む一羽の鳥がそこそこの大きさの魚を咥えて飛んでいたところ、うっかりその魚を落としてしまった。空高く飛んでいた為に鳥は魚をどの辺りに落としたのか分からず通り過ぎ、魚はそのまま腐ってしまった。
腐敗した魚の下には運がない花の種が埋まっており、花は酷い悪臭のする重たい魚を掻き分けて、何とか茎を伸ばして蕾をつけた花だったが、花弁は大きく咲き誇ることもないまま枯れてしまった。そして腐りきった魚は骨だけになり、申し訳程度に枯れた花の根っこが土に潜っているだけのその場所を走って来た馬が踏んづけて行った。
魚も花も惨めに死に、馬はそれに気づかず駆け抜けていったのだ。
腐臭を掻き消す様に馬が連れて来た土埃臭い風が命の息吹となり、不運な魚と花が死んだその場所から生まれたのが僕だった。
なんて穢れた出生なんだろうかと思っていたが、その森の精霊は僕を美しき死の精霊、魂を導く者と呼んだ。
数多の死にゆく者の寂しい声を聞き、寄り添い、死を見送る者なのだと言った。精霊は慰めなど言わない。僕は森の精霊がそう言うのならばそうなのだろうと納得した。
初めて死を怖がる声を聞いたのは生まれて直ぐのこと。それはそれは幼い少女の声だった。
酷く怯え、寂しそうなその声が何処か遠くから聞こえて来るのだ。
僕はその声に誘われるように歩いた。
出会った少女は不治の病に伏せており、僕が少女の元に辿り着いた時にはもう目が開かれることはない状態だった。僕はその頃はまだ存在が不十分で幼い姿をしていたから、その少女の親に僕は彼女の友人であると伝えて、よく知りもしない少女が死んでしまうその日まで手を握ったり頭を撫でたりして声を掛け続けた。
そして、少女は僕と出会ってから大した時間を過ごすこともなく死んでしまった。
少女が完全に死に、体から熱が失われ、冷たくなるのを見ていると少女の体から蛍のようにか細くも美しい緑色の光が出てきた。その光は少女の両親の周りを暫く漂い、別れの挨拶を済ませたのか僕の元にやって来た。少女がこちらに来ることはどうしてか想像が出来ていて、まるでそうすることが正しいと分かっているように、僕は鳥の宿り木を作る様に人差し指を差しだした。そうすると、僅かに指の先に触れた光は迷うことなく天に向かって消えた。
なんてことはしていない。ただ、僕が手を差し伸べるだけで魂が還るべき場所に向かうのだと、その仕組みに気づいたのがその瞬間であった。
はじめの少女を見送った後も寂しげな声は絶え間なく聞こえた。
僕は空っぽになった彼女の体の終わりを見届けないまま次の目的地へ歩き出す。
寂しい、悲しいという感情を理解したのもこの時だった。ちゃんと出会った相手でもないのにそんな感情が湧くものかと思うかもしれないが、僕の心はそういう者達に共感するように出来ているらしい。
死を恐れる声が休む間もなく聞こえる。
誰かと話をしている時も、昼寝をしようとする時も、ご飯を食べている時も。その声を煩わしいなんて感じることは一度だってなくて、大丈夫、大丈夫。僕が間に合った時は、手を握って歌を歌ってあげるからね。と励ました。この時の声は届いていないだろうが、どうして悲しむ人を放って置くことが出来ると言うのだろうか。
移動している時に人の中に紛れる為には人の名前が必要だと考えた。色々と考えている時に、未だ鼻の先で香る花の存在を思い出す。それで選んだ名前がアスターであった。
瞳の色すら知らない少女が眠る傍に飾られていた花の名前だ。
僕が生まれるきっかけになった魚と馬は苦手だった。魚よりもステーキが好きだし、長旅ばかりだから仕方ないから馬に乗っていたがあまり速度を出してやることは出来ない。そしてドライフラワーも、見ていると悲しくなるから苦手だ。
これはどうしようもない。これらの存在が僕を生んだ理由ではあるが、あまり望んだ生まれ方ではなかったのだから。
寂しい声の元に向かい、知人のふりをして最期を見届ける。そんな生き方をして随分と時間が過ぎた。時代も名前を変え、汽車というものが出来た。これは最高だった。僕にとって汽車を開発した人たちは偉大だ。
ああ、話が逸れてしまったね。
兎も角、僕の存在がそうさせるのか、急に駆け付けた見ず知らずの者を怪しむ者はいなかった。家族や友人しかいないその特別な空間に見ず知らずの男が混ざっていても誰も疑問に思わないのだ。
自分のこととはいえ、知らない人が看取りの場にいるっていうのは怖いと思うけどね。それは仕方ない。僕の存在がそうさせてしまうのだから。
とある少女は話が出来る状態であった。そして、僕に願いを口にしたんだ。ここを連れ出して欲しいと。僕にお願いをする人なんて初めてだったから、何でも聞いてやりたい気持ちになった。だから、僕は少女を連れ出した。
それが人攫いの初めての犯行であった。
「人攫いなんぞ随分と地に落ちたものだな。嗚呼、貴様は始めから地よりも下にあったか。全く、星を射抜く精霊とは違ってなんて見っともない精霊か」
汽車の中、遥か昔に旅路で知り合った顔見知りの賢者が嫌味をいう。
「うるさいなあ。君も賢者なら汽車に乗らず馬に乗って移動をしたらどうなんだい?」
「そんな設定はいらないんだよ。君も他の賢者と同じで頭が固いな」
「設定って言うんじゃないよ」
わざわざ僕の向かいに座ってネチネチと嫌味を言っているのは賢者のヒイラギ。本人曰く精霊に育てられた人の子らしい。簡単にいえば精霊と人々の戦いの時に親を亡くした孤児である。この子がいう星を射抜く精霊というのが育ての親なのだと。
「僕はね、貴様を案じているのさ」
元は女であったのに賢者は一人称に僕を選んだ。僕とは僕とも読める。この賢者曰く、星を射抜く精霊の僕であるからこそ自分に存在価値が在るのだと。要するに自らを精霊の持ち物、僕だと周知したがっている訳だ。本当、げんなりするような理由だ。
「君に案じられるなんてねぇ」
「数えきれない程の人の死を見送って、心が壊れてしまいやしないかって心配しているんだよ」
長生きな為、真っ白になってしまった髪の毛が窓の隙間から入りこむ風に靡いていた。
「精霊は生まれながらにして役割がある。増えすぎた星の所為で夜が明るくならないように星の数を管理している君の主人と同じでね。君が僕を案じるのであれば、僕は星を砕く君の主人を案じなくてはいけない」
「まあ、それもそうか」
人の死を見送る者と、星を砕く者。己の役割を果たした時、双方の心は実に寂しいものだろう。
「……精霊とはこの世で一番世界に縛られているのかもしれないね」
自分の主人を思い出しているのか、賢者はフンと小生意気に鼻を鳴らした。
賢者は良い。簡単なことで死んでしまわないから。時間に限りがないから。
己が何者だったのか見失っても、結局は人らしいから。
「そういえば、乙女の左頬に向かう途中で猿型と妖精が共に居るのを見掛けたぞ」
「へえ、珍しいね」
「嗚呼。僕には分からないが、アレは人の成れの果てだったんじゃないかな」
人の成れの果て。
どうも最近そのような存在に出会った気がするな。
「髪や瞳の色はなんだった?」
「あの時ばかりは馬に乗っていたからなあ。……黒髪に、焦げ茶色の目だったんじゃないかな」
「しっかり見ているんじゃないか」
「そりゃあ、おいたをする素振りがないか見ておかないといけないだろう。これでも僕は賢者なのだから」
ははぁ、黒髪に焦げ茶色の目ね。
朝、綺麗に剃っている為に引っ掛かりがない顎を人差し指と親指で撫でる。
何度も産まれ直している人の子と興奮する彼女を引き留めた六枚羽の小さき妖精。あの子達に違いない。
「あの子は悪さをしないよ」
「なんだ、知り合いか?」
「そんなところ。嫌われているだろうけどね」
「僕と話が合いそうだな」
人が残念そうにその人物から嫌われていると話しているのに良い顔で笑うんじゃないよ。本当、性格が悪いんだから。
「あの子はあの子のままだからね。割り切るにはまだまだ時間を要するだろう」
「最近の生まれの子なのか」
「いいや、多分君と差異もないと思うがね」
「……へぇ」
この頃になると賢者は随分と数が減った。
ヒイラギは久々の同士の生まれを喜んだのだろうが、あの子は未だ迷子のまま。誰よりも人らしく、誰よりも平凡で美しき心の持ち主。そのせいで今日に至るまで悩み苦しんでいると本人は考えもしないだろうなあ。
「随分とドMだな」
ドMって……。全く、変な言葉を覚えて、よく考えもせずに使って。仕方のない子だな。
まあ、間違いではないのだろうけどね。
「しかしどうして髪が黒いんだ。そんな昔の生まれなら僕のように髪は真っ白になる筈だろう。白髪染めでもやってるのか? 女の子だったみたいだし、そう言うものか」
自分だって元は女の子だっただろうに、ヒイラギはすっかり何者でもなくなってしまっていた。
此処まで己を手放せればあの子も悩まずにいられただろうにね。
「あの子は長生きではないからね。人として決められた時間の中で生きて、そして死ぬ。産まれ直しって奴だよ。だから生成される体は君と違ってピカピカの新品って訳だ」
「髪と目は白いが肌はピチピチだよ」
そういうことを言い始めると若者ではなくなるんだよ。
「もし会うことがあったら友達になりなよ」
「えぇ、無理だろう。急いでいたとはいえあの子達の直ぐ脇を駆け抜けていっちゃったからね。怖がらせてしまったかもしれない。それに見下ろしたのを睨んでたって思われたかも……。まさかあんな所に猿型がいるとは思わなかったから仕方ないんだけどさ」
ブツブツと”友達になれっこない”理由を呟くヒイラギの様子は、満更でもない、その一言に尽きた。
素直じゃないなあ。
「君も元は女の子。女子会となるものが出来るじゃないの」
「じょし、かい」
これはこれは、もう一押しかな?
星を射抜く精霊もそうだが、ヒイラギは新しいことが好きだ。賢者なのに。
カフェでお茶をしながら"キャッキャウフフ"と色々な話をする、これを女子会と言うのだろう?
「話が合うだろうか」
深刻そうな顔をして顎を擦るヒイラギに、嗚呼、と心の中で落胆した声を漏らす。
それはどうかな……。
「あの子も長生きしているしそれなりに合うんじゃない?」
二人が楽しそうに話をしている光景が思い浮かばなくて適当なことを言っておく。
生真面目で繊細な人らしい筆。
軟派に見えて何者でもなくなったヒイラギ。
賢者とは人と精霊の中間に立つ者だが、妖精の次に残酷で恐ろしい存在といえるだろう。精霊はこの世界を統べる者であり、世界そのものである。自然に仇名すのは人ばかりで、過ちは繰り返される。
ヒイラギが己を精霊の使用物と考えるのと似ていて、賢者とはどちらかと言うと精霊側の人間なのだ。
「まあ、また出会えたとしてだ。もし友人になれたなら貴様の誤解を少しは解いてやろう」
「それはありがたいけど、どういう風の吹き回しだい?」
ヒイラギの白い髪は雲のように柔らかく、風に吹かれる。経年により混濁した白っぽい目は楽しそうに弧を描いていた。
「人攫いの精霊であっても、貴様はこの世界にいなくてはいけない。貴様が生まれたことで、これまでの迷える魂は正しい場所に還ることが出来るようになった。その者が人の成れの果てというのならば、その誤解を解いてやるのも良いと考えたまでだ」
友人は「決して女子会をしてみたいとか、そんなことではないぞ」とふんぞり返る。
だから、僕は人攫いの精霊って異名はないって。そう呼ぶのは君と星を射抜く精霊くらいだよ。
ヒイラギ。
その葉には棘があり、時として小さな野の生き物や幼子を傷つけてしまうだろう。
僕は体を出た魂にしか道を示せないから、どうしたってあの子の心を救ってやることは叶わない。勿論、同等であっても他の精霊が彼女に与えた悪戯の解き方を教えてやることも出来ない。悪戯も、呪いも、他者が関与するものではないのだ。
ヒイラギとて、それは分かっているだろうに。しかし、会話とは、すればするほど実りあるもので、終わりなき者との話はあの子にとっても為になる。
あの子は半分こっち側の人間だ。見放してしまうのは勿体ない。
あの時、テンションが上がってしまったとは言え、随分とあの子を煽ってしまったからね。
生きている者に指針を教えてやることは難しい。僕にとっては専門外だ。
「心配をするな。性格が合わないのなら女子会を諦める。しかし貴様も分かっていると思うが、仇名す者も時として必要だぞ」
白く濁ったヒイラギの目は何処まで先を見ているのだろうか。
結局、僕と一賢者の考えだって交わることはない。
寂しげな声に誘われるばかりの僕と、精霊や人々の為に常に何かを思案している者の考え方など同じである筈がないのだ。
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