【完結】絵の中の人々

遥々岬

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第五章 悪い人

第一話

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 次に目指す町は、乙女の左頬からは随分と離れた場所にあり、汽車を五つも乗り換えなければいけなかった。

 森を抜け、小さな町に辿り着き、汽車に乗り。
 一つ目の汽車を降りた時、風の妖精が「これには乗れない」と言った。客室で一緒にお菓子を食べながら楽しく会話をしていたというのに、どうしたのだろうか。結局、その理由は分からずじまい。私が訳を聞く前に妖精は姿を消してしまった。

 一つ目の汽車を降り、風の妖精と別れるようにして二つ目の汽車に乗り換えた。
 山を潜り、海に添って汽車は何処まで走り続けた。当たり前のことかもしれないが、どんなに汽車が走ろうとも世界の隅っこは見当たらなかった。世界は途方もなく広い。
 見慣れない景色を眺めながら、随分と遠くまで来たものだな、と改めて感心する。

 屋敷の息子さんの所に遊びに行くのはまだまだ後になりそうだね。
 彼も良い年ごろ。次に会う時にはお嫁さんを迎え入れているかもしれない。そうしたら、きっと手紙も少なくなるのだろう。そんな近い未来を想像してわずかに寂しくなる。
 その時は幸せそうに笑う新郎新婦、その家族友人の絵をぜひ描かせて欲しいものだ。

 彼を思い出していると、フと彼から貰った手紙が読みたくなって、シープスキンの鞄にしまっている彼から貰った一通目の手紙を取り出す。

 ――私は、貴女が深い眠りに辿り着けることを願っています。

 死にきれない体質になって人生そのものが夢の中の様なものなのに、彼はそれでも私が深い眠りに就くことを願うと書いた。……それは私の素性を知らないのだから優しさから出た言葉なのだろうが、彼にそれを強いる形を取った私がその願いを拒絶するにはさもしい理由しか思い浮かばなかった。

 彼の字を人差し指で辿り、私が深い眠りに就く時を想像する。
 その時はきっと誰も傍にはいないだろうし、私からの返事が届かなくなり、旅の道中に何かあったのではないか、と心配してくれる人はいたとしても、時は流れ、そして、いずれ私を覚えている者はいなくなるだろう。忘れられるというのは怖いものだ。しかし、寂しく思えることだがそれを含めてこそ”人としての終わり”なのだろう。
 命あるもの全てがそうして来た。だから、私もその全ての中の一つになりたいだけ。

 例えば彼が私という存在を知ったとして、拒絶されることがありませんようにと願わずにはいられない。彼のことだ、受け入れられずとも傷つけられる形で拒絶されることはないだろう、そうであって欲しいと思うのだ。これはただの願望に過ぎない。
 己の心の弱さに乾いた笑みが浮かぶ。

 手紙から顔を上げて、再び窓の外の風景を眺める。
 これから私が故郷に帰ったとして私の顔など覚えている者はもういないだろう。血の繋がった家族にさえ、なんだか私達似ていますね、なんて言われるだけかもしれない。そうであったならば、とっくに故郷に帰ってこの体質の根源になった洞窟に行くことは可能だろう。しかし、銀色のサナギが敷きめくあの洞窟を見つけた後、何をしたらこの奇妙な体質を治すことが出来るのか皆目検討付かない。
 また青い果実を食べれば良いのだろうか。
 確証を得られないまま果実を食べたあの日のように、森が雪に覆われる冬に行くべきなのか。しかし冬の森は危険だ。木の枝から落ちて来た雪の下敷きになったら? 進むべき方向が分からなくなって途方に暮れてしまったら? 雪が降れば一生懸命踏みつけて作った足跡はあっと言う間に消えてしまうだろう。そうして、何も得られないまま森を彷徨い、息絶えてしまったら。私は雪の中でまた生き返ることになるのだろうか。
 冬の森で裸の赤ん坊が生き残れるはずもなく、雪が解けて、誰かが森に入ってくるまで、何度も、何度も、生き死にを繰り返すことになるのではないだろうか。
 
 想像した光景が酷く恐ろしくて、拳を握る。
 
 風の妖精は助けてくれるだろうか。
 誰か、一緒に来てくれる人はいないだろうか。

 こんな独りよがりの願いを叶える為に誰かを頼るなんて、と勇気が出来ない自分に、所詮は私の願いとはそれくらいのものだったのか、と落胆する。
 そもそも自身の死が望みであっても、どんなに長生きをしようが死ぬことは怖いもので、私は結局のところ”人らしい人”でしかなかった。

「……はあ」

 独り生き永らえるのであれば心だけは健やかでありたいと思っていたのに、思考の末に辿り着く感情はあまりにも情けないものだった。

 気持ちを切り替えたくて、首を小さく振る。
 そのおかげか遮断しゃだんしていた音が耳に辿り着くようになった。


『今月に入り、新たな行方不明者が七人となりました。これまでも同様に孤児院にいる子供ばかりがいなくなっている為、警察は外部からの接触と同一犯の可能性があると考え捜査を進めています』

 他に届いていた手紙を含め、お返事を書く為に絵葉書とペンを取り出して小さなテーブルの上に出していれば、天井の左右に取り付けられている三台のテレビから不穏なニュースが流れていた。こうした事件は戦争があろうがなかろうが、飢えがあろうがなかろうが、飽きもせずに起こる。生活が変わっても人は変わらない。
 恵まれようがなかろうが、身近な場所で不必要な事件は起きる。

 行方不明ということは、まだ生きている可能性はあるというわけか。痛ましいことになっていなければ良いのだけど。
 テレビに映る行方不明の少女達は屈託ない笑顔をこちらに向けている。

 一人目の少女は黄色のチェックのワンピースを着ていた。
 二人目の少女は水色のスカーフをヘアバンドのように頭に巻いていた。
 三人目の少女は首元のレースが美しい白いワンピースを着ていた。
 四人目の少女はクマの人形をギュッと抱きしめて笑っていた。
 五人目の少女は丸い眼鏡が真面目そうで、眉上で揃えて斬られた前髪が可愛らしい。
 六人目の少女は花束を柔らかく抱え照れくさそうに笑っていた。
 七人目の少女は飼い犬らしき犬の肩を抱いてこちらに向かってピースをしていた。

「今回の行方不明者で七人目になったそうだね」

 丁度見ていたテレビとリンクするような声が間近から聞こえ、驚いて振り返ると私の座る席の真横、つまり直ぐ近くの通路に男性が立っていた。
 その距離に気が付かない程、テレビに集中してしまっていたらしい。

「失礼。驚かせてしまいましたね」
「いいえ。少しぼんやりとしていたので」
「相席をしても宜しいですか? 此処最近、誰とも話していないもので。お邪魔じゃなければ、ですが」

 書きかけの手紙をチラリと見て、男性は私が断るだろうと決めつけたような顔をして控えめに笑った。
 暗い気持ちを切り替えようとしてテレビを見始めたのに、その内容も薄暗いもので、私も誰かと話でもして気分転換をした方が良いのかもしれない。
 広げていた絵葉書をしまい「どうぞ」と向かいの席に目を向ける。

「ありがとう」

 穏やかで低い声が脳の奥を刺激する。彼の声は何処かさとされている様な気にさせられた。それはなんとも不思議な感覚だった。

「少女趣味の犯行ですかね」
「さあ、今月はたまたまじゃないかな。少年もいなくなっているようだし」

 少年もいなくなっているのか。
 ラジオを聞くことは好きなのだが、最近聞く機会がなかったことに気が付く。
 彼はこの事件を知っていたようだ。

「それで貴方は旅の方ですか?」

 テレビのニュースの内容が変わり、私達の会話の内容も同じように変わった。

「そんな所です。貴方は旅行か何かですか?」

 汽車の中で手紙を書いている者がいれば、旅人と考えても可笑しくはない。
 それに比べて、私が彼についてこの数秒で得た情報といえば、大した鞄などを持っていないのを見ると、私と同様に部屋を借りているのだろう、ということだけだった。

「男一人で旅行なんて寂しいでしょう。仕事ですよ。絵を描いていましてね」
「へえ。絵ですか」

 その割には油臭い画材の臭いがしない。寧ろ、彼が横切った時はシトラスの爽やかな香りがした。

「貴方も絵描きですよね」
「どうして?」

 随分と確証を得たような言葉に眉をひそめれば、彼は可笑しそうに笑い、私の手を指さす。

「絵具が付いている。油絵ですか? 手の側面やちょっとした袖は洗い残しがあっても気が付きにくい」

 自分の手を見てみれば、言われた通りに右手の小指近くの側面にわずかに黄色い絵の具が付いていた。
 こんな場所についた絵の具なんて良く見つけたものだ、と感心する。

「名探偵ですね」
「はは、大げさですよ。まあ、警察はその小さな絵の具にすら気づけないのかもしれないですけどね」

 丁度、気味が悪いニュースを見ていた為、突然出た”警察”という単語をいぶかしく思い、それはどういう意味か、と顔をしかめて首を傾げて見せる。しかしそれには大した意味はないと言うように男は曖昧に笑って誤魔化した。
 どうも彼は人当たりが”良すぎる”雰囲気を持っていた。それは違和感を覚える程、完璧な人に見せた。
 
 人の目は言葉よりも真実を表す。
 私は、彼がどのような人なのか読み取ろうと目の奥を見つめてみるが、パッと顔を明るくした彼が私から疑心を反らす。

「なんて、ね」

 まあ、旅先での小さな出会いで終わるなら宜しい。
 私の視線こそ相手に良い印象を与えないことだろう。

「それより、貴方はどんな絵を描いているのですか?」
「人物画です」
「へえ! 僕と同じだ。画材は?」
「描くものによって変えます。油絵や水彩、点描なんかもやりますよ。貴方は?」
「テンペラが主かな。色せず、細かな表現をするのに最適だろう? 僕は生きているような絵を描きたいんだ」

 チラリ、と窓の外に視線を向ける男の言葉に良く心の中で頷く。彼の言葉はよく理解が出来た。
 絵に終着はない。
 世界が私の最期に描いた絵を見て、この絵は彼女の集大成だ! と言おうが、つねづね本人はそんなことを思っていないだろうと思っていた。
 生きている内にそんな絵が完成すれば、画家本人が声高らかに、これぞ私の集大成だ、と言える絵が生まれるかもしれないがその境地に辿り着けた者は一体これまで何人いるのだろうか。
 この世界に数多くいる画家の集大成を決めるのはいつだって他人であった。
 これで完成だ、と画家が心から満足しないと絵は完成しない。それに、その時は完成したと思っていても絵の終わり時は変わる可能性がある。色は何度でも足せるのだ。
 また、好きな絵と自分が納得する自分の絵というのは意外と違ったりするもので、世界中の芸術作品を見て回ったとしても、己の画風ものを得ることは難しかったりする。
 だから、これ以上にない、完成された絵を描きたい、という願望は多くの絵を描く者の目標のひとつでもあるだろう。……なんて、まるで全ての画家の心境を分かっているとでも思っているような、この考え方は大衆を見て個を見ていない浅はかな考えだろう。何故なら、これでは殆どの者が完成した絵を描けていないと言っているように聞こえてしまうだろうから。
 絵と向き合えば向き合う程、完成された絵を探求する心は潤いを知らないだろう。しかし、誰の目にも映らず、誰の心も魅了しない絵であろうが、画家が完成だと言えばそれがその絵の完成である。
 それは上手いだとか、下手だとかの次元の話ではない。
 絵を完成させられず死んだ者がいれば、沢山の完成した絵を生み出した者もいる。それを決められるのは他者ではなくて描いた本人だけだと言いたかったのだ。

「それで、貴方は何処から来たのですか?」
「私は」

 乙女の左頬から、そう言おうとして口を閉じる。
 乙女の左頬に行ったことは隠すことでもないが、では、何しに行ったのか、と会話が続くのであれば安直に話しても良い気はしなかった。
 曖昧となったリゥラン達の存在を私の言動で広めてしまことに気が引けたのだ。……こんな些細な会話の中であっても。

「線路の終わりの町に用事があって」
「絵のお仕事?」
「まあ、そんなところですね。あと、町の名物の揚げパン食べたり」

 駅の終点がある町には殆ど滞在しなかったのだが、折角ここまで来たのだからと町の名物を買って風の妖精と食べたのだ。シナモンと溶けない生クリームの様なものが練り込まれた物が中に入っていて、それがとっても美味しかった。確か、クデュオという名前だったかな。ああ、あの溶けない生クリームの様な物の正体が知りたい。その場で食べなかったからお店の人に聞く機会がなかったのだ。
 レーズンが入っている方も美味しそうだったなあ。パンがとても大きかったから食べきれないかもしれないと思って一つだけ買ったのだが、惜しむくらいなら買っておけば良かった。

「ポコラニベベが入っているパンだろうか」
「ぽこらに、べべ?」

 町で食べたパンの味を思い出していれば、なんとも聞きなれない単語が彼の口から出て来た。

「ミルクの木から取れる樹液をシナモンに混ぜたものだよ。溶けない生クリーム、みたいな」
「そ、それだと思います! ぽこら、に、べべ? というのですね」
「うん、あの地方の名物らしいね。言語も聞きなれないものばかりで覚えるのが大変だよね」

 そうか、あの美味で摩訶不思議な食べ物の正体は樹液だったのか。

「メモに残しておこう」
「はは、そんなに美味しかったんだ」
「そりゃあもう、もう一つ買っておけば良かったと後悔するくらいには」

 手紙類を入れている鞄をもう一度開いて、真っ新な便箋の端に”ポコラニベベ”と書いて鞄の中にしまう。よし、これで忘れてもメモを見ればいつでも思いだせる。
 再びあの地方に行かなければ食べられない物なのかもしれないが、風の妖精と合流したら教えてあげよう。

「そうだ。今日一緒に夕飯を食べないかい? 連日一人で食べていてね、こうして話をするのも久々で楽しいよ」

 名案だと言いたげに彼は笑った。
 楽しげに話す姿はまるで無垢な子供のようで、彼の持つ独特な雰囲気から腹の底を探るようなことをしていた自分が馬鹿馬鹿しく感じた。

「ぜひ、見たいです」
「じゃあ約束だ」

 小指を私に向ける姿を見て、それが意外なのと可笑しくて吹き出してしまった。「あれ? 何が可笑しかったの」と僅かに手を引っ込めた男性の小指を追って、絵の具が付いていない左手の小指を絡める。彼が左利きで良かった。

「指きりなんて久々でして……。約束しましょう」
「……あぁ! では、作業を中断させてしまっていたからね、僕はそろそろ部屋に戻ることにするよ。話に付き合ってくれてありがとう」

 小指を絡ませれば、彼は嬉しそうに屈託のない顔で笑った。
 大した会話をしていた訳でもないのだが、今更気を使ったのか、彼は立ち上がり、被っていない帽子を上げる仕草をして客室が並ぶ車両の方に去って行った。

 片づけられた机に肘を突いて、顎を掌に乗せて再び窓の外を眺める。

 「……変わった人」


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