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第一章 画家の筆
第五話
しおりを挟む小さな花が混じった原っぱに見覚えのある川が平行線の向こうまで伸びていて、俺の裸足はその川に沈んでいた。
ああ、これは夢か。だって足の先はちっとも冷たくないんだから。
こんなに意識がはっきりとした夢を見るのは久しぶりかもしれない。
川の流れを見つめていればナンテンの実が流れて来て、俺の足を避けて通り過ぎて行った。
振り返ってもそこには誰もいなくて、ただ赤い実が続いて何個も何個も流れてきた。
手にはイチジクの葉が一枚。その葉には小さな穴が二つ並んであいていた。好奇心からそれを顔に当ててみれば、酷く懐かしい気持ちになった。
「君は……?」
イチジクの仮面を顔に当てて辺りを見渡すと、少し離れたところで女の子がこちらに向かって手を振っていた。その少女の姿をよく見ようと思って仮面を外そうとしたが、夢の中の俺がそれを許さなかった。
俺は諦めて仮面をつけたままその女の子を見つめる。
誰だろう、知り合いだろうか。とても楽しそうに笑っているように見えるが遠すぎてはっきりと表情が見えない。
夢の中の俺は、あの子を知っていた。
俺は分からないのに、そう思った。
しかし俺自身はあの子を思い出せない。
知っているのに思い出せないなんて変なことだと思う。
それにこのイチジクの葉についても見覚えがあった。そうだ、これは小さい頃に良く作って顔に当てて遊んだ玩具の一つだったか。
葉を握る手がふくらみ、小さなものに変化する。それはまるで子供の手であった。この子供の指があけた穴だから、仮面の目が小さいのだろう。
少女はこちらに向かって笑っていた。
何がそんなに楽しいのだろうか。
あの子の声は俺の耳に届いているのに、不思議なものでどんな声をしているのか分からなかった。
俺は少女の声が分からないことが酷く悲しかった。知っていると思うんだ。
そう、あの子。
あの子の声を知らないなんて、そんなことがある筈ない。
だけど、瞳の色も、髪色も、何も見えない。
ぼやける視界があの子を隠そうとするから必死に瞬きをする。
そんなにこの仮面が面白いのかい? ああ、このイチジクの仮面はさ、俺の妹も好きだったんだよ。
俺の声は、君に届くだろうか?
仮面を持っている手はまだ下ろす事が出来ないまま、俺の瞳から出て行った雫は川に流れていった。
「窓……?」
遮られる視界をクリアにする為にギュッと瞼を閉じ、よおく涙を追い出してから瞼を再び上げると、目の前に見覚えのある窓が少女と俺を挟むようにして浮かんでいた。
俺は一瞬のことに驚く。
ガラス越しに見えるのは少女がいる景色ではなく、よくよく見なれた庭だった。
俺の足は川に沈んだまま。川の流れに気をつけながら少し踵を浮かせて窓を覗き込めば、庭のイチジクの木から大きな葉が落ちていた。
枝と別れを惜しんだ葉が空を仰ぎ見る。
画家がキャンバスに筆を滑らせる音。
川のせせらぎ。
誰かが泣いている声。
楽しげな子供の声。
赤ん坊の産声。
木枯らしに乗ってその音は届いた。
頑なに動かなかった手が漸く自分の意思を取り戻す。
向こうに立っていた少女を俺は知っていた。
俺と同じ飴色の髪の毛。
髪の先が跳ねやすくて、前髪が真ん中で分かれてしまう所も同じ。
瞳は薄い琥珀色。俺より少し薄い色なんだ。
両親のパーツをほぼ同じく受け継いだ俺たちはひと目で『兄妹』だと分かるだろう。
思い出せない筈がない。忘れるはずがなかった。
だって、あの子は俺のたった一人の妹なのだから。
「どうして、今まで忘れていたんだろう」
あの子が産まれた時、俺は確かに妹の産声を聞いた。
随分と俺も幼かったが、忘れるはずがない。だって、凄く嬉しかったんだ。
イチジクの葉の仮面を使って赤ん坊のあの子に"いないいないばあ"をしてやれば喜んでくれたから、俺はイチジクの果実よりも葉が欲しくて、庭に出ては葉を拾って帰ったんだ。
嗚呼、ああ。そうだ、そうだ。
”ある日”、妹は高熱に魘されベッドに寝ていた。
妹を元気づけようとイチジクの葉を拾って来たが、その日は俺だけが会わせて貰えなかった。
母さんが付きっきりであの子に寄り添って看病をしていた。
俺と父さんは先に夕飯を食べていてくれと母さんに言われて二人でご飯を食べ始めたんだ。
それで、妹はいつ元気になったんだったか。
一緒にご飯を食べ始めた父さんは、結局、我慢ならずに妹の部屋に行ってしまった。
それで、俺は、独りきりの食卓がどうしてか怖くて、そんな気持ちで好きなおかずを食べる気にもなれなくて、どうせなら父さんと母さんが戻ってきたら食べようと思ったんだ。
でも、二人は暫く食卓には戻ってこなかった。
そうそう、その頃の妹は本物と作りは変わらないおままごとの様な小さなティーセットで遊んでいたんだ。それで温い紅茶を入れてご馳走してくれてね。温いその紅茶が、俺は少し嫌だったんだ。筆が使っていたあの小さなティーカップがそれだ。今度、馳走してくれるって言っていたのに、その約束が果たされる事はなかった。
手に持っていたイチジクの葉はカサカサになって砕ける。
まるで活躍が出来ず放置されて枯れてしまったあの日の葉のように。
目の前に浮かぶ窓の向こう側に、庭の景色から曇天と強風に波打つ芝生の景色に変わり、ぼんやりと大勢の人が現れる。
俺はいつの間にか黒い服を着ていた。
窓の向こうには同じように黒一色の服を着た両親が肩を抱き合いながら泣いていて、両親の周りに居るこれまた黒い服を着た人たちが二人を労わるように順番に話しかけていた。
次第に、その後の記憶が曖昧になっていったように、窓の外の光景が朧げにぼやけてゆく。
宙ぶらりんの窓を開けようと手を伸ばした瞬間、湖に張った薄い氷がオルゴールの弁を抑えながら弾いたような音をあげ、ヒビを広げて、割れた。
目を庇うように瞼を閉じたのは一瞬だった。
ガラスが弾けた窓の向こうにいた少女は、もう、いなかった。
目を覚まして体を起こす。
酷い真実に、手で顔を抑えれば夢の中と同じように涙が溢れていた。
あの子が失われて、あの日のことを考えれば考える程、体に不調が出た。
だから、いつしか思い出す事を止めてしまった。
夢の中でイチジクの葉の仮面を手放せなかったのは、たった二人きりの兄妹なのに、薄情にも忘れてしまおうとした幼い俺が、あの子に顔向け出来なかったからだろうか。
筆が話していた”あの日”とは、妹が死んだ日のことなのだろう。
彼が話すあの部屋の隅々に至る物は、あの子の物だったのだろう。
川面に浮かぶナンテンを手で掬うように、筆は俺が手放した記憶を拾い続けてくれた。
水に浸かる手は酷く凍えただろうに、何度も手を入れて、一粒も取り残すことが無い様に掬い続けてくれていたんだ。
そのナンテンを川に投げたのが俺自身だと知っていても。
「筆……」
そうだ、筆は今日には飛び立つと言っていた。
彼のことだ。もしかするとお別れも言わずに行ってしまうかもしれない。
だって、俺を傷つけるかもしれないと言っていたのだから。
俺は慌てて布団から飛び出てパジャマを着替えて、ロクに毛布を整えないまま部屋を飛び出した。
談話室に向かえば既に両親が部屋におり、完成した絵を父さんが手に持ち、それを覗き込むように母さんが絵を見ていた。
二人に近づくと母の肩が震えていることに気が付いた。
絵を見て泣いているのか? と慌てて視線を父が手に持つ絵に移す。親の泣き顔をマジマジと見るものじゃないと思ったんだ。
描かれていたのは花が舞う中、クリーム色のドレスを纏いこちらを振り向きながら手を振る妹の姿だった。
その姿はまるで夢の中でこちらに手を振っていた妹の姿と重なる。
成長したらこんな顔立ちになっていたのだろうか。
奥に見える灰色のタキシードを着た男の顔はぼやけていたが口元は穏やかに笑みを作っていた。至極嬉しそうに頬を赤らめ目尻に涙を浮かべる妹は、絵を見ている俺たちを置いて、光り輝く先に歩んで行こうとしているようだった。
昨日のように月明かりの中で見るよりも、こうして明るいところで見た方が絵は綺麗だった。
「……あの子に頼んで良かった。成長して、こんなにも幸せそうに笑う娘の絵を描いて貰えるだなんて」
父の言葉に筆がこの場に居ないことに気が付く。
「あの人は何処に行ったのですか」
「荷物をまとめて来ると言っていたから部屋にいるんじゃないかな」
父さんは目尻に溜まった涙を拭きながら穏やかな表情を浮かべていた。それは、ただの絵を見るだけの表情ではないように思えた。
妹の誕生日の日の筆は絵を渡し終えた後、暫く両親と話していた。それなのに今回はいない。
嫌な予感がした。
俺は駆け出すように談話室を出て筆のいる部屋に向かう。
閉じられた扉は、もう、重たくなかった。
ノックもせず部屋に飛び込むように入れば、すっかり片づけ終わった部屋にポツンと筆が立っていた。
全ての窓が開放され、レースカーテンは天使の梯子が下ろされたようにはためいていた。
「……もう行っちゃうのか」
無理やり画材道具を押し込めたのかパンパンになった大きなリュックと、これまたパンパンのボストンバックが筆の足元に置かれていた。
開け放たれた窓から入って来た風が部屋を巡回するが、油絵具の臭いは簡単には消えないようだ。
「君は、女だったのか」
俺は想定外の光景を目の当たりにして、瞼を瞬かせる。
筆は、普段着ていた作業服ではなくて、足首まで長さがある美しいシルエットのワンピースを着て、いつもは乱雑に一つ結びをしていた髪を下ろしていた。
風が吹く度に良く櫛を通されたその髪がふわりと揺れ、陽に当たった彼女の黒髪が僅かな栗色に縁取られていた。
「こういう時は、貴女は女性だったのですか、と聞くのですよ」
俺は、ずっと男友達だと思っていた人が女性だったことにショックを受けた。
綺麗な顔立ちだとは思っていたが何年も気づけなかったなんて、自分が情けない。
ってああ、違う。
今はそれよりも、言わなくてはいけないことがあるんだ。
「今はそんなことは良い。君が女性だってことは後々話すとして。……あの絵は、なんだ」
俺の言葉を聞いて筆は小さく息を吐いて瞼を伏せた。話しづらい話をする時の彼女の癖なんだと気づいたのはいつからだっただろうか。
「往生際が悪いですよ」
手のかかる子供を相手にするように、筆は俺を窘める。
「私がこの家に来たのは九年前です。初めてお会いした時、貴方のご両親は酷くやつれてしまっていましたね」
九年。もうそんなに経つのか。
憂うように、当時のことを思い出すような口ぶりで筆は話し始めた。
「お父様と約束したのは妹さんの絵を描くこと。それは妹さんが一四歳になるまで描き続けるというものです。そして、契約終了は妹さんが一四歳の誕生日を迎える日。……即ち、今日です」
妹が死んだのは四つのころ。
俺は当時、七歳だった。
筆は、妹が死んだ翌年にこの屋敷にやってきた。
「何故一四歳なのだろう」
「彼女は婚約をして家を出るのです。優しくて大らかな婚約者と共に彼女たちを導く光の向こうで幸せに暮らす。彼女は喜んで見送る家族を何度も振り返り、漸く、巣立って行くのです」
彼女がこの家に留まる理由がもう無いのだと落胆し、元気をなくした視線が床にたどり着く。
俺は、唇をギュッと噛んだ後、小さく深呼吸をし、意を決して口を開く。
「あの日のケーキは”いつも通り”四等分だった」
俺の言葉に驚いたのか、筆が僅かに息を飲んだのが分かった。
そして、ふっと空気が揺れた気がして視線を上げると、彼女は寂しそうに笑っていた。
その顔は何度も見たことがあった。
何を考えているのか分からないだなんて、失礼だったね。
君は、何度も、何度も、”俺に”打ち砕かれていたんだ。
「ケーキは四人分に切り分けられた筈なのに、テーブルに一つだけ残っていることを疑問に思わなかった。ただ、余っているな、としか思わなかったんだ」
取り戻した真実がキラキラ輝く川のように瞬いた。
あの子の産声を聞いた時、うんと遊んでやろうと決意したんだ。
沢山優しくしてやろうと、守ってやろうと思ったんだ。
俺はお兄ちゃんだから、それは当たり前なことなんだと、幼いながらも理解したんだ。
きっと、あの気持ちはこれからも、どんなに年齢を重ねても忘れることはないよ。
筆。もう、君が傷つくことは無いんだ。
俺は大丈夫だよ。
夢の中で頑なにイチジクの葉の仮面を外すことを拒んでいた俺は、もう、いないんだ。
チグハグに乖離してしまった幼い俺はちゃんと元に帰ってきた。
俺は君にそれを伝えないといけないね。
「俺には、三つ下の妹が一人いてね」
そんなことは分かっているだろうに、筆は黙って俺の言葉を待っていた。
声に出すとさ、余計に現実味が帯びてくるんだな。
だけど、俺はちゃんと言葉にしないといけない。
君に伝える共に、俺自身に教えてあげないといけないんだ。
「名前はホーリィっていってね」
未だ隙を見せると微睡みが夢を見せようとするが、俺は頭を振って「それで、」と言葉が途切れてしまわないように必死になる。
暗い部屋だと決めつけていたこの部屋のドアノブを開ける時のような、そんな面持ちだったと思う。
情けないだろう? 唇が震えるんだ。
そんな俺の様子を見て、筆は励ます様に穏やかに頷く。
「妹はとっくに死んでしまっていたんだ」
筆の相槌に背中を押されたのか、言葉はすんなりと零れた。
あの日、勉強をする気にもなれず勉強を投げ出して隠れ場所を探していたのは、妹の始めての命日だった。
俺は妹が死んだことからずっと逃げていたらしい。
折角生まれて来てくれたのに、幼くして死んでしまった妹が可哀そうで、そのことを受け止めきれなくて、その挙句に妹を間違えた形で俺の中で生かし続けてしまった。
だってさ、あの子がお兄ちゃんって言えるようになったのが嬉しかったんだよ。
漸く、言えるようになった頃だったんだよ。
それなのに、もう呼んで貰えないだなんてさ。
悲しすぎたんだ。
「珍しいことでは無いのですよ」
夢の話をした時のように、筆は静かに口を開いた。それは俺を労わるような優しい声だった。
「強い悲しみは脳に強い衝撃を与えるんです。だから自分の精神を守る為に真実を封じてしまう時がある」
俺を真っ直ぐ見つめる彼女のアーモンド色の瞳が光を一週纏い、秋の木枯らしのように俺の視線を掻っ攫った。
「私は、残された人が故人を日々尊び、故人との思い出をいつまでも大切に出来るようにと願いを込めて絵を描くのです。だから私はこの屋敷に招かれ、彼女を描き続けました。期待され、望まれるままに導かれたのです」
筆は俺たち家族の思い出を守る為にこの家に留まり、そして望まれるままにあの絵を描いた。だから、あの絵には何も違和感などない。
絵の中の妹はクリーム色のドレスを着て、共に描かれた青年は灰色の礼装服を着ていた。
あれはこの街に古くから続いている伝統衣装。婚約する際に着る正装だ。
この地域では一四歳になると婚約が結べる。
結婚は一六歳になると出来るが、二年間は姓を名乗る家に居候する習慣があった。
これは誓った愛を裏切った時、愛を司る精霊が怒るからだ。
その精霊を怒らせると執着心を取られてしまうと云われている。
執着とは人や物だけに向くものではない。生きることも執着であり、その一切を奪われることはとても恐ろしいことなのだ。
性格というのはお互いが優しくて良い人であっても、いつ不一致が起こるかは分からない。
だから、俺たちは愛の精霊の名の下に一生を誓うのならば、慎重にならざるを得えないのだ。
昔からの仕来りを守り、一四歳になった妹がこの家を出ていく絵とは、幼いままのあの子をこの屋敷に留め続けることも、一人で逝かせることも可哀想だと思った両親が、あの子が安心して飛び立てるようにと望んだ絵だったのかもしれない。
両親はこの九年間どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。
出来ることならいつまでも傍に留めさせて、自分たちが老いて死んだあと、一緒に光に導かれたいと思った時もあったのだろうか。
どうして、両親があの絵を頼んだのかは、結局のところ俺には分からない。それもそうだろう。俺は筆どころか、両親ともロクに妹の話をしてこなかったのだから。
俺は結婚が幸せの形だと言われてもピンと来ないし、ハシゴで天に登っていく絵でも良かったと思う。
一人が寂しいというのなら、月の光を集める人々に途中まで着いて来て貰えば良いのだ。
どの道、俺が色々考えたところであの絵は、両親がよく考えて出した答えだということには変わりない。
どんな形であれ、もし魂が生を繰り返すというのなら、魂を手放してやることも愛情なのだろう。
「私は故人とこれからを生きる人の未来を描く画家です。写真を見せて貰い、骨格からどのように年老いていくのか。その人の思い出を抱いている人たちに話を聞き集め、趣味趣向によってどの様な髪型をするのだろうかなど、その人が生きていただろう未来を拾い描くのです」
この屋敷に来た頃と姿変わって筆はすっかりと成長していた。
目の前の女性が筆だってことは理解しているが、半分は知らない人のように見える。
「私ね、ここに来てすぐに屋敷の傍を流れる川にナンテンの実を投げている貴方を見たんですよ」
そんなところを見られていたのか、俺はと恥ずかしくなる。
まあ、誰もが知っている場所なんだ、見られていても仕方ない。
「貴方がいない時に私も真似してその実を投げてみたんです。そうしたらね、流されていく小さな赤い実が切なくて、あぁ、貴方がその実を投げる横に座って、手で堤防を作って邪魔してやりたいって思っていたんですよ」
流れていくナンテンを見ていると心を引きちぎっているような感覚になった。何度もちぎっては投げて、赤い実が流されていくのを見ている内に心が軽くなったんだ。
「でも、邪魔はできなかった」
子供のその無意味な行動は俺にとっては必要なものだったのだと、理解してくれていたのだろう。
筆は困ったように笑った。
「息子さん。此処は彼女の部屋だったのですよね」
筆から漸く答え合わせが聞けた気分になった。
そうだよ。
この部屋は扉が重苦しく入りづらい部屋なんかじゃない。
よく太陽の陽ざしが入る妹の部屋だった。この部屋で、ミルクの匂いに包まれたあの子と一緒に昼寝すると気持ち良くてね、ついつい入り浸っていたんだ。
あのレースカーテンもティーカップもお喋りが出来るようになってきたあの子が気に入って選んだのだ。あの子は、白鳥が好きだったんだよ。
この部屋に来たら、俺は果たされない約束を思い出してしまうとでも思っていたのだろうか。
「今日、私は彼女にこの部屋を返します。といっても彼女は巣立ってしまうのですけどね」
筆は部屋を見渡して「あと画材の臭いは暫く取れないかもしれない」と笑った。部屋には汚れたら困ると言って筆が別の部屋に移動させていた小さなドレッサーやイスとテーブルのセットが元の場所に置いてあり、白く塗られた木のベッドにはあの子が気に入っていた白鳥のぬいぐるみが置いていた。
元通りになったのに、もう持ち主がいないと分かっているからか部屋は殺風景に感じられた。
すっかり彼女の痕跡を消し去った部屋を見て、堪らなくなり目の前にいる筆を強く抱きしめる。
「ぐぇ。お別れの熱い抱擁ですか?」
「まだ此処に居れば良いじゃないか」
「遠い場所で私を待っている人がいるので」
グズっと鼻が鳴る。
薄情者め。
抱きしめた筆からは花の香りと僅かな油絵具の臭いがした。
やっぱり今の筆は半分だけ知らない人だ。
「結婚式の絵だって描かなきゃ駄目だろ」
結婚をする時、ドレスは純白に、男性の礼装は真紅になる。二年後、あの二人は無事に結婚をするのだろう。ならば、俺たち家族はその姿も見届けたい。
「結婚式の絵は描きますが、この屋敷にいないと描けないってことでもないんですよ」
迷う素振りもないが、俺たち家族が筆の絵に依存していると思っているのだろうか。
気の病は薬では治らない。
彼女は、この屋敷にいる内は両親が望む絵を描き続けてくれるだろう。それがいけないと言うのだろうか。
「妹の絵を描いて欲しいと言わなければ此処に居てくれるのか? 他に絵の仕事が欲しいと言うなら此処を拠点にすればいいじゃないか」
両親は筆の絵に救われ、俺は筆の存在に救われた。辛くとも俺の心は本来の姿を取り戻そうとした。それは沢山話をしてくれた友達がいたからだ。
「俺は君に、いつまでも此処にいて欲しい」
困ったなあ、と呟く筆に、困れ困れ、と彼女の肩口で自分の涙を拭う。
「何も一生の別れって訳じゃないんですから。気が向いたらお手紙でも下さいよ。返事はちゃんと出します。絵の依頼だってあれば受けます」
「……手紙」
以前、彼女が友人から詩が書かれた手紙を貰ったと話していたのを思い出す。
俺が書いた手紙もあんな嬉しそうな顔で読んでくれるんだろうか?
詩を書けば歌ってくれるのだろうか。
「そうですねぇ。近くを通ることがあれば、此処を訪れても良いです」
もう一押し必要か? と彼女は思ったのか、良い提案を出しただろうって自信ありげな声だった。その浅はかさが珍しくて、なんだか可愛かった。
抱きしめていた腕を緩めて筆の顔を見下ろす。
相変わらずまつ毛が長い。
きっと、彼女を可愛いって思っていたのも、この時が初めてじゃないんだろうな。
「友人の家に遊びに来るのは別に悪いことじゃないでしょう?」
彼女の意志は変えられないだろうし、これ以上足止めをして困らせるのも悪いかと、そろそろ話してやろうと思い始めた時、俺は筆の言葉に小石が頭にぶつかった様な、小さな衝撃をくらった。
「友達、って思ってくれるのか?」
「勿論です。違うだなんて言われたら寂しいですよ」
柔らかな化粧をした筆がニコリと笑う。
その様子はいつも以上に愛らしかった。
彼女を美しいと思ったあの時の俺の直感は間違えてなどいなかったらしい。ただ、男友達だと思っていた人が惜しみない程に女性らしくなってしまったことには内心穏やかではいられなかった。
いや、元々男とか女とか関係なく、俺は筆が好きなんだけど。……その、友達として。
「良い奴だよって言ってくれたことも、苺をくれたことも嬉しかったです」
これからはもっと寄り添えるような言葉を言えるように勉強するし、苺なら沢山やる。だから、絶対に遊びに来いよって言おうとしたが、彼女のことだ。そんなことは言わなくても、俺の心境は分かっているか、と口を閉じる。
あぁ、本当だな。
伝えれば良いと分かっているのに中々伝えられないことってあるんだな。
寂しい、だなんてさ。簡単な言葉だった筈なのに。
「さて、汽車の時間が迫っていますから。じゃ、風邪引かないように、お元気で」
筆は薄情な奴で、最後までしんみりとした空気は許さなかった。
余韻も残さないようにする為か、高速にお辞儀を一つし、サッサと大きな荷物を持って、扉を開け放って走っていった。ワンテンポ遅れたが慌てて後を追う。
はやい、早すぎる。
あの人、あんな機敏に動けたのか。
だってあのパンパンの鞄は重たいだろう? それなのに追いつけないなんて。
「あら、やっと見つけたの?」
俺が遅れて玄関に辿り着く頃には、両親とお手伝いさんが揃っていて、息切れをしながら来た俺に母さんが驚いたような顔をしていた。
違うんだよ、さっきまで話をしていたんだ。
それよりも、あの人はどこに行ったんだ。
俺を置いてさっさと出て行った筆を探せば、彼女は既に父さんが手配した馬車に乗っていた。
両親には挨拶を済ませたのか、近くにいたシンシアさんに「ご飯、美味しかったです」と伝えていた。
「筆さん。青い果実のことは申し訳ないが、君の助けになるような文献を見つけられなかったよ。……銀の蛹も同じだ。良くしてくれたのに、すまないね」
閉められたドアの窓を開け、顔を出した筆に父が申し訳なさそうに謝った。
俺は初めて聞くその単語に首を傾げる。
筆も少しだけ息が上がっていた。あんなに走ったんだから当たり前か。
「そんな顔をしないでください。それについては二百年、三百年掛かろうが分からないままなのです。仕方ありません」
今度は筆の言葉に父も母も、傍にいたお手伝いさんも小さく首を傾げていた。二百年って、御伽噺の話か何かだろうか? 俺は漸く整い始めた息でひとつ深呼吸する。
「息子さん」
名前を呼ばれて俺は父と代わるように窓の傍に寄る。
「イチジクの食べ頃に遊びに来ますね」
庭の木には取り残されたイチジクの実がなっていたが、あれはもう食べ頃が過ぎてしまっただろう。
「出来れば来年にでも来てくれよ」
今度は冗談で言ったのだと伝わったのか、筆は可笑しそうに笑った。そして窓から手を伸ばしてひとつ俺の額を撫でた。
それは、よく頑張ったねと言いたげであり、治り切らない傷を労わるようでもあった。
「お手紙、待っていますね」
そう言って、筆は俺の胸ポケットに半分に折ったメモを差し込んだ。
紙を取り出してその中身を一緒に確認したかったが、彼女との別れの時間は待ってくれないようで「それでは、皆様お元気で」と手を振る筆を乗せて馬車は走り出した。
その馬車が見えなくなるまで、俺たちはずっと見送った。
枝を離れた落ち葉が別れを惜しむように青臭く自己主張していたが、木々はそんなことを気にもせずに、すっかり冬の身支度を進めていた。
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