きみの黒土に沃ぐ赤

甲姫

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四、予定がない午前

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 一晩かけて心身ともによく休んだ後だと、己が昨夜エランディーク公子にどれほどの醜態を晒したのかを改めて理解できた。
 顔を合せづらい。が、幸いと今日は偉い人からのご指示がない。好きにくつろいでいてくださいとの通達を受けただけで、何の予定も組まされていないのだった。
 結婚式は明日だと言うのにこんなにのんびりしていいのだろうか。そう思いながらも、セリカはバルバティアを連れて気晴らしに庭園の中を散策する。
 小鳥の囀りに耳を傾け、ほのぼのとした気分になる。
 薄っすらと曇った涼しい朝だった。ひんやりとした空気を吸い込む。
 新緑に囲まれた溜め池の傍ら、石造りのベンチに腰を掛けてセリカは軽く目を閉じた。
 日差しが心地良い。祖国の公宮に居た頃も、自然が濃い場所を探すのが好きだった。こうしていると、異国に来たという感覚がいくらか薄れる。
 昨日の盛装と比べて本日の格好は簡易的だ。被り物もベール一枚を頭にかけただけである。
「ところでバルバ」
 セリカは振り返らずに、後ろに控える侍女に呼びかけた。
「なんでしょうか、姫さま」
 彼女はいつも通りに明るく応じた。それを受けて、セリカの心に後ろめたさが過ぎる。昨晩の出来事の数々は、あまりにひどい話だと思ったため、バルバには話せないでいる。今もまだその話題を切り出すつもりはない。
「恋って何? 何をもってすれば、恋愛感情なの」
 首を巡らせて、真剣に問う。
「まあ」バルバは白い手を顎に当てて驚きの表情を浮かべた。「姫さまが恋に興味を持つなんて、珍しいですね。いえ、話題にされるのは初めてではありませんか」
「十九歳にもなって、今更よね」
「いいえ、いいえ。幾つであろうと遅すぎることはありません。そうですね……人並みなことしか言えませんけれど……」
「それでいいのよ。どうせあたしは、年頃の女友達と気になる殿方の話なんてしたことないもの」
 瞬間、バルバの薄茶色の双眸に同情が走った。
 ――しまった、自分を卑下するような発言はほどほどにしないと。
 憐れみが欲しいわけではないのに、気を遣わせてしまうからだ。セリカは笑って続きを促した。
「幼馴染とはどんな感じなの」
「えっと、なんと言いましょうか。近くに居るだけで楽しくて、胸の奥がぽわっとします。触れるとすごく幸せで。もっと触れて欲しいって思うんです。離れている時は、今頃何してるんだろうって考えながら過ごします。わたしの感じるものを見せてあげたいって――次に会ったらこんなことがあったよって、ぜんぶ伝えたくなります。他にも、ふとした匂いなどのきっかけであの人を思い出したりして……」
「…………」
 笑顔を張り付かせたまま、硬直した。
 なんていじらしい娘だろう。国境の向こうに居る男を想って顔を赤らめ、その男の話をしているだけで、口元を緩みに緩ませている。彼女をできるだけ早く故郷に帰してやる為に、セリカも頑張ってヌンディーク公国に順応しなければなるまい。
「幸せそうで何よりだわ」
「ハッ! な、なんてことを言わせるんですか姫さま! 恥ずかしい」
 終いには、小さな悲鳴を上げて、そばかすに彩られた頬に両手を添えている。
(想像できない。あたしにもこんな風になる日が来るの? もっと触れて欲しいって、どゆこと)
 忘れてはいけないが、セリカが恋愛できる相手と言えば――あの男でなければ不義の恋しか選択肢は無いわけだが、後者は絶対にありえない。
 恋はするものではなく落ちるものだとどこかで聞いたことがある。ではあの男と恋に落ちるのかというと、やはり想像が付かないのである。
(まあ恋愛感情を抜きにして、良妻賢母になればいいし)
 早くも人生の方針が決まりかけたところで、この話を畳むことにした。散策を再開する。
 池を一周し、そろそろ朝食に向かおうかなと考えた頃に、庭園に人の気配が増えた。ご挨拶に伺おうと思って身体を向けてみると――
 ぴょこぴょこと小さな人影が視界の下方を横切って行った。見覚えのある子供が、小動物を追いかけている。
 その五歩後ろを、困った顔で追いかける女性がいた。目元以外が布に隠れているからにはおそらく使用人、子供の世話係だろう。
 暫時、彼らの挙動をバルバと共に見守った。
「りすさん、りすさん。まってくださいー」
 男児が可愛らしい声で呼びかけながら小動物を追い回す。しかし追いつくことは叶わず、悲しいかな、道端の石に爪先を引っ掛けて転んでしまった。
 びったーん! と派手な音を立てて、うつ伏せに倒れる。よくあることなのか、世話係は動じていない。これを機にセリカは幼児に接近してみた。
「アダレム公子?」
「わっ! おひめのおねえさま!」
 ――斬新な呼び方である。
(かわいい)
 セリカは顔を緩ませないよう、努めて平静を装った。
「おはようございます、アダレム公子」
「おは、よ、ございましゅ」
 五、六歳くらいの男児はごにょごにょと挨拶をする。続けてこちらの腹までしか届かない小さな身体を折り曲げて、正式な礼を繰り出した。つむじが見れるかなとセリカはよくわからない期待をしたが、頭頂部はターバンに隠されていてそれは叶わなかった。
「ほんじつは……いかが、おすご――おすごしで」
「いいのよ、かしこまらなくて。ここはくつろぐ為の場所だし。もっと楽にしてください、アダレム公子」
 お辞儀を返した後、セリカはそう提案した。一応世話係の顔色を伺うも、彼女は五歩後ろの距離から微動だにしない。その人が介入してこないのなら好きに接しても良いのだろう。
「らくに?」
「うん。えっと、さっきはリスさんと追いかけっこをしてたのかな」
 目線を合せるようにしゃがんで、優しく問いかける。より親身に感じてもらえるように、言葉を崩して微笑んだ。
 自分が興味あるものに別の誰かが興味を抱いてくれたのが嬉しいのだろう、アダレムは「あい」と言ってみるみる内に顔を輝かせた。
「りすさんに、さわりたいのです。もふもふです!」
 幼児は大きな黒目を限界まで開いて、両手を振り回して力説する。
 内心ではセリカは「ぐはあ、可愛い……!」と悶絶したが、表向きは微笑みを維持した。小さい子供も小動物も愛らしいが、組み合わさればますます可愛いに違いない。これは協力せねばと思った。
「そうなの。じゃあもっと近付かないとね」
「でもエサをあげようとしても、にげちゃうのですー」
 アダレムは小さな手の中の落花生を指して、ぷっくりと頬を膨らませる。
「走ったらリスさんびっくりしちゃうから、ゆっくり近付くのはどうかしら」
「ゆっくり」
「そうよ、ゆっくり。静かに。一歩ずつね」
 セリカは口元に人差し指を立てた。それから二人揃って首を巡らせ、目標の現在地を確認した。
 歩道の数ヤード先でリスがこちらの様子を見張っている。時折背を向けて数歩跳び進めては振り返るさまを見るに、落花生が気になっているのは確からしい。
「ゆっくり……しずかーに……」
 幼き公子は囁き通りに実行に移す。忍び足で、背を低くして。
(そう! そんな感じ)
 小さな背中を追いたい衝動を全力で堪えながら、セリカは無言で応援した。近付く気配が増えても小動物は怖がるだけだ。
 長い時――実際には三分くらいだろうか――をかけてアダレム公子はリスに接近した。
 子供にしては驚異的な集中力と根気である。それだけ、哺乳類の毛並に触れたいという欲求が強かったのだろう。
 ついに我慢ならなくなってセリカも四つん這いになる。アダレムのかなり後ろからでいいから、自分も追跡してみたくなったのだ。
 ガサリ。
 歩道の脇の並木から、唐突に足音がした。
 瞬時にリスが頭をもたげた。もふもふの尻尾を二、三度鞭打ってから、駆ける。
「まって! りすさん!」
 アダレムの引き留める声も空しく、リスは颯爽と逃げ去る――
 ――かと思いきや、新たに現れた人影を木とでも勘違いしたのか、その足を素早くよじ上ったのである。黒い長靴から紺色のズボンへ、腰の帯を飛び越えて肩の上まで、我が物顔で上るリス。
 ちょこまかとした動きを目で追う。
「あ。エラン」
 愛らしい小動物が停まったのは、ヌンディーク公国第五公子エランディーク・ユオンの肩の上であった。食べ物ではないというのに、青い涙型の耳飾にちょいちょい齧りついているさまが可笑しい。
「……何をしている?」
 彼は忍び足のアダレムと四つん這いのセリカを見比べて、たちまち呆れ顔になった。
「そっちこそ、野生動物に尋常じゃなく懐かれてるのは何事よ」
 かしこまった挨拶をすべきか迷ったが、結局いつも通りの遠慮のない口調で返した。
「私の質問が先だ」
「えっとね」
 答えようと膝立ちになる。同時に視界の中で動きがあった。
 腰に何か暖かいものが当たった感触で、その正体を知る。アダレム公子がセリカの背後に隠れたのである。これではまるで、自身の兄の前から逃げたかのようだ。不審に思うも、セリカはひとまず質問に答えることにした。
「餌をあげようと思ったのよ。でも全然近付かせてくれなくて」
「餌か。既にこんなに恰幅がいいのにか」
 青年は肩の上にのっている小動物の腹を、ぷにっと人差し指で押した。柔らかそうで羨ましい限りである。
「というのはついでで、アダレム公子が毛並みに触ってみたいって……」後ろ背に引っ付いている幼児がびくりと身じろぎしたのを感じる。「あんたそんなに懐かれてるんなら取り持ってくれない」
「ああ、それは構わないが」
 言うが早く、彼は慣れた手つきでリスの眼前に掌を差し出した。リスもまた当然のようにその手に跳び移る。
 リスをのせた掌が、幼児の顔に寄せられた。
 アダレムは一瞬の逡巡を見せたが、すぐに毛並への欲求に屈して手を伸ばした。おそるおそる、頭から撫でている。彼が「ふわあ! ほんとにもふもふです!」などと感心している間、セリカは小声で問う。
「何をしたらそんなに仲良くなれたの」
「別に何もしていない。数日前だったか、私がベンチに横になって昼寝をしている間に、そいつに足蹴に……景色の一部と認識したかはわからんが、乗っかられた。驚かさないように動かないでやったんだが、その日以来、慣れられた」
「へえ」
 セリカは詳細にその時の光景を思い描いてみた。人気のない庭園で無造作にベンチの上に横たわる若き公子。昼寝を邪魔する小さな生き物。
 せっかくの仮眠を邪魔されていながらも、青年は黙って微動だにせず、小動物の為に我慢する。
 するとセリカは自分の想像を通してあることを発見する。それは、現在の状況と合致するように思われた。
(あら……優しい、のね)
 つい昨夜、魔物から救われた顛末を思えば、驚くほどのことでもないはずだ。驚きはしないが、ではこの感情が何なのかと訊かれても、答えを持ち合わせていない。
「あっ! おひめのおねえさまも、さわってみますか!」
 と、濃い茶色の双眸をキラキラさせるアダレム公子。そうね、とセリカは手を伸ばす。
 当たり前ながら、かくして指先が触れたものの手触りは毛皮製品と似て非なるものだった。血の通った生き物を覆う毛は――暖かい。
 こちらが何やら得した気分になってしまっている間、当のリスは頬袋を落花生で一杯にする。つぶらな瞳がチラチラと見上げてきた。破壊的な可愛さである。
「そうだわ、エラン。朝食まだなら一緒に食べる?」
 微笑ましい光景に目線を落としたまま、なんとなくセリカはそう切り出していた。
「せっかく誘ってもらっておいて悪いが。先約がある」
「あ、そうなの。ならいいわ」
 間を置かずに戻ってきた返事に更に返事をする。一拍後、意識せず落胆が声に滲み出ていたことに気付いた。
 気まずさを覚えて、そっと目を伏せる。こんな思いをするくらいなら訊かなければよかった――
「昼も予定がある。夕食でよければ、空けておくが」
「へ? あ、うん。夕食ね、わかったわ」
 断られた後の続きがあるなんて思ってもいなかったので、面食らう。とりあえず目を合わせずに承諾した。
(……あれ、あたしってば今、わざわざ何の約束を取り付けたの)
 しかしその時、庭園にまたしても新しい来訪者が現れたため、思考は遮られた。リスが今度こそどこぞへと逃げ去ったが、代わりに文官らしき男性が歩み寄ってくる。
 セリカは反射的に一礼して顔を伏せた。それを受けて、文官は短い挨拶を口にした後、エラン公子に話しかけた。どうやら用はそちらにあるらしい。
「エランディーク公子、お時間よろしいでしょうか。所領について幾つかお聞きしたい事柄がございます」
「ああ、歩きながらでいいか。待ち合わせに遅れるとアレがうるさい」
「承知いたしました」
 二人分の足音が響く。その間、顔を上げずに大人しく待った、が。
「セリカ」
 急に呼ばれて、心臓がドキリと大きく跳ねる。
「はい」
 動揺を押し隠して応答した。
「また後で」
「……はい」
 足音が完全に遠ざかるのを待ってから、止めていた息を吐き出す。
 ――むずがゆい。
 別になんてことはないのに。誰かと食事をするのも、その約束を前もってするのも、当たり前の日常だ。なのに、この奇妙な高鳴りは一体なんだと言うのか。
 考えるのが段々と面倒になり、セリカは別のことに強引に意識を向けた。
「アダレム公子は、エランが苦手なの?」
 傍らの男児に微笑みかける。ところが「苦手」の意味がわからないのか、アダレムは目をぱちくりさせるだけで応えない。
「えっと。怖い、のかしら」
 言い換えると、アダレムはびくりと身じろぎをした。
「こわい……です」
「そうだったのね。具体的には、じゃない、エランのなにが怖いのかしら」
「なにが? なに?」
 幼児が頭を抱えて深刻そうに唸る。数分経っても、 思い当たる節がないようだった。
 これはもしかしたら、理由なんて無いのかしれない。
 ――お前は初対面の人間に叫ばれたことがあるか。顔を見せただけで子供に泣かれたことは?
(まさかね)
 こちらの邪推をよそに、幼児はしばらくして顔を上げる。
「えらんあにうえは、いつもとおくを、みています。いっしょじゃない……かんじが、こわい、です」
 たどたどしい口調で彼はそう答えた。
 セリカはしばしの間、公子の言葉を咀嚼した。
(遠くを見ていて一緒じゃないのが怖い、って家族として足並みが揃わないことへの不信感? それとももっと別の意味が?)
 子供の言うことだ、鋭い洞察眼で深いことを言っているのかもしれないし、的確な表現が出て来なくてこの言葉で代替しているだけかもしれない。
 足並みが揃うかどうかなんて話は、そもそもこの兄弟にとってはあまり意味を持たないような気がする。皆個性の強い者ばかりで、普段は離れて暮らしているのだから。
(この子の感じているものは、あたしが感じた印象とはどう違うのかしら。そりゃ、一日やそこらで人の何がわかるわけでもないけど)
 結婚すれば、一生をかけて知り合う時間がある。考えても仕方ない気がしてきたので、止めた。
「よくわからないわ」
 セリカは諦観じみた感想とため息を漏らした。それを聞いて、アダレムがまた唸り出す。
「ぼくもよくわかりません」
「そ、そうよね、変なこと訊いちゃってごめんなさい」
 子供相手に気まずい空気を作ってしまったことを自省する。
 そこで見計らったかのように、腹の虫が大きく鳴った。セリカは誤魔化すでもなく自然に笑う。
「あたしもそろそろ行かないと。またね、アダレム公子」
「はい! また、ですー」
 アダレムは元気いっぱいに両手を高く振った。会釈して、セリカは溜め池から離れた。
 やがてさりげなく合流したバルバティアが、意味深に口角を吊り上げていた。目の奥の煌めきが、彼女が全てのやり取りにしっかり聞き耳を立てていたことを示唆している。
 ――恋か。恋の話がしたくてたまらないのか。話が膨らむような、大した材料も無いのに。
 侍女の考えに勘付いていながら、セリカは敢えて何も言い出さず、そして彼女にも何も切り出す暇を与えずに足早に朝食に向かった。

_______

 あれから数時間後、過ぎた満腹感をほぐそうと、宮殿の建築物を鑑賞しながら散歩をしていた際に。
 あの男の声が耳に入った。辟易するしかなかった。
(用も無いのにナゼ……! 狭いの? この広々とした宮殿って実は見た目より狭いの!?)
 どう考えてもそれはあり得なかった。ムゥダ=ヴァハナの公宮がいかに贅沢な面積を誇っているのか、昨日から何度か散策しているセリカにはよくわかる。
 それにしても、数秒聴いただけでエランの声だと判別できてしまう己の耳にも驚いた。
 いくらこの地での知り合いがまだ少ないとはいえ――空しくなってくる。
(ともかく、顔を合わせたくないわ)
 つい避けてしまうのは、こう何度も鉢合っていては暇人と思われそうなのが不本意だからだ。そして夜に食事を共にする約束をしている身で今も会ったりすれば、まるで――
(まるで待ちきれないみたいじゃない)
 断じて、そのような浮き立った感情はない。
 セリカは自分が今しがた回るところであった建物の影にて足を止め、一呼吸の後、身を翻そうとする。幸いと今は一人で行動しているので、急な方向転換をしても不審がる供が居ない。
 ふいに風が吹いた。さわり、と優しい音を立てて草花を揺らす。春の暖かさをのせたその風はセリカの被り物のヴェールをも撫でて行った。
 それが通り去るや否や。
 女の子の声がした。抑揚の付け方が音楽的で、可愛らしくも気品のある印象を醸し出す。つい聞き惚れて、聴き入ってしまった。
 共通語ではない。確かこれは、ヌンディーク公国の古くからある言葉だ。初めて聞いた時は喉の奥から絞り出すような音素が多くて粗暴そうな言語だと思ったが、少女が流暢に話すそれは、花の底に秘められた蜜のように甘やかに響いている。
 顔を上げたら、常緑樹のような色合いの双眸と目が合った。すぐさま目を逸らす。足の方は、縫い付けられたように動かない。
 バルコニーに敷かれた絨毯上の卓を、二つの人影が囲んでいた。背を向けている方が会いたくない男のそれで、こちらに身体を向けている方は――目を疑うほどの美少女だった。
 異国の公女を想像しろと言われたならば、こんな姿を思い浮かべたかもしれない。
 明るいレモン色のヴェールの下から覗く陶磁器のようなきめ細かな肌や艶やかな黒髪が、まず目を引いた。垂れ気味の大きな目や長い睫毛にはあどけなさが残っているが、本人から滲み出る品格は、身に着けている耳飾や首飾りなどの煌びやかな装飾品を従えさせているかのような存在感を放っていた。
 また一瞥してしまう。するとふっくらとして桃色の唇が綻んだ。こころなしか茶目っ気を含んでいるような形に見えた。
 少女は卓の縁を滑るようにして身を乗り出した。細い腕を伸ばし、向かいの席の青年にもたれかかる。
「やっとお会いできて嬉しいですわ。わたくし、寂しくて死にそうだったんですのよ! 夜は一睡もできなくて――ずっとずっと、お会いしとうございました。もう絶対に離さないでくださいましね」
 いつの間にか北の共通語に切り替わったらしい。一言一句、漏れることなくその言葉はセリカの脳に届いた。
 考える余裕は無かった。ただ、どこか冷めた心持ちになってゆく自分を自覚した。
「リューキネ……」
 少女の熱烈な求愛行為に対して、青年はそっと華奢な肩に触れ――
「どうした。急に気持ち悪いことを言うな」
 次いで少女の頬を思い切りつねった。「山羊の乳か? ヨーグルトか? 腐ったものを飲み込んだなら、早く吐き出せ」
「んまあ、ひどい! ちょっとしたお戯れではありませんか」
 リューキネと呼ばれた少女は眉根に皴を刻み、唇を震わせた。怒り方までさまになっているというか、可愛らしい。たとえセリカが真似したかったとしても、到底できそうにない。
「そうか。私はてっきり、急に体調を崩したのかと」
「ご心配ありがとうございます。今日は気分がいいんですのよ」
 彼女は得意そうに鼻を鳴らし、頬をつねる手を優しく握った。
「ならいいが、無理するなよ」
 存外、エランの態度が柔らかい。客観的に分析して、セリカへの対応よりもずっと優しい気がする。
「大丈夫ですわ。せっかくお忙しい中、わたくしに時間を割いてくださったのですもの。頑張って起きてますわ」
 これに対する青年の返答は、セリカにはよく聴こえなかった。ただ、握り合っていない方の手で少女の頭を撫でるのだけが見えた。
(ふうん……孤立してるかと思ったのに。親しい人、居るんじゃないの)
 しかも自分は何を見せつけられているのだろう。親し気な二人に感じる、この違和感は何なのか。
(ああ、そうか。距離感に厳しいこの公宮で、妙齢の男女があんなに積極的に触れ合ってるのが意外なんだ)
 思えば、昨夜セリカに気安く触れてきたのにはどういう意図があったのか。
 あの男にとって「妃」の枠は特別でも何でも無く、誰に対してもああなのだろうか。
 或いは、リューキネという少女こそが特別枠に収まっているという可能性もある。
 ――釈然としない。が、他人は他人でしかなく、心の内を知ることなんて、永遠にできないかもしれない。
 セリカは今度こそ踵を返してその場を去ろうとした。
「そういえばリュー、お前何で共通語」
「あら、あちらにいらっしゃる方はあなたのお妃さまではなくて?」
 突然張り上げられた少女の声。
 逃げ道を塞がれた。
「お前、セリカに会ったこともないくせに。適当なことを言うのもそのくらいに……」
 言葉が繋がれるごとに、声が迫ってくるような錯覚を覚えた。おそらく――彼が振り向いたことによって、音の投げ出される方向や角度が変化したからだ。
 居心地の悪い沈黙があった。背中に、視線が注がれているのがわかる。
 ここで聴こえない振りをして逃げ出せたならよかった。けれど、できるわけがなかった。
 ゆっくりと二人の方を向き直る。姿勢を正し、作り笑いも整えて、少女に向かって「ごきげんよう」と一礼する。
「ごきげんよう! どうぞお上がりくださいな」
 座ったままでお辞儀を返してから少女は破顔した。自分の隣に来いとでも言いたげに、絨毯を軽く叩いている。予想だにしていなかった歓迎っぷりだ。
 貴重な二人の時間を邪魔したくないとか、単に通り過ぎるところだったとか、使いうる断り文句が幾つか超速で脳裏を駆け巡った。本当は彼女がどういう心で誘っているのかを確かめたい気持ちが強いが、己を抑制して黙り込んだ。
「わたくし、あなたにお会いしてみたかったのですもの」
 少女が更に呼ばわる。すかさず「何で?」と訊ね返したい衝動を、セリカは生唾と一緒に飲み込む。
 途方に暮れてエランの方を見やると、彼は卓に頬杖をついて大袈裟なため息をついた。
「上がってくれ、セリカ。こいつの我がままに付き合わせて悪いな」
 あくまで少女の味方をするつもりらしい。完全に断り辛い空気になってしまった。
 ――もうどうとでもなれ。
 従順な公女の仮面を被って、バルコニーまで静かに足を運んだ。階段から廊下に上がったところでタバンヌスとすれ違っても、彼は一切の反応を示さない。相変わらず好かれていなさそうだ。
 招かれた場所は、正確にはパティオバルコニーであった。柱に支えられていて二階からしか行き着けない点ではバルコニーだが、ゆうに八人は座ってくつろげそうな広さである。屋外で団欒する為の場所ならば、パティオでもある。
「ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクスです。初めまして」
 踏み入れて、まずは頭を下げて挨拶をする。限られた視界の中で、少女が青年の腕を支えにして立ち上がるのが見えた。
「リューキネですわ。エランディーク公子の、愛妾です」
 あの音楽的な声で、少女はさらりと自己紹介をした。
「アイショウの方でしたか。よろしくお願いいたします」
 顔を上げずに、セリカは平淡な相槌を打った。
 不可抗力だ。咄嗟にどう思えばいいのかわからなくなって、声音から感情を省いてしまったのである。
 セリカとて大公家の人間だ、上流階級の習慣は知っている。たまたま自分の親は相性が良くて子宝にも恵まれ、浮気などせずに一夫一妻で長年良好な関係が続いているが、それは少数派の事情であろう。
 咎める気は全く起きない。
(妾かぁ……事実だとすると一気にややこしくなってきたな。子供が生まれたら、序列とかどうなるんだろ)
 ほとんど他人事のように受け止め、億劫な気分で顔を上げた。
 ぶわっと紺色の布がなびく。エランが素早く首を巡らせたのである。
 青灰色の瞳が、激しい怒りに燃えていた。冷たく燃えるという現象が可能なら、こう見えるだろう。
 思わずセリカは立ち竦んだ。
「おい、気色悪い冗談は止せ。この口は戯言たわごとしか吐けないようだな、リュー?」
 あろうことか青年は少女の愛らしい口の両端に親指を突っ込んで――先ほど頬をつねった時とは比べものにならないほどの勢いで左右に引っ張った。
「いひゃい! いひゃいでふぁ、いいひゃー」
 少女がバタバタと手を振り回して抗う。
「な、に、が、愛妾だ! おぞましい。私に朝食を戻させたいのかお前は!」
 容赦ない怒号を浴びせかけてから、ようやっと彼は彼女を放してやった。
 非常に話しかけ辛い。それでもセリカは頑張って小声で訊ねた。
「えっと……愛妾じゃないのね」
 青年の心底げんなりした顔がこちらを向く。
「頼むからその単語は二度と口にしないでくれ。コレは妹だ。イモウト」
「あんた妹が居たの」
 驚愕してセリカは僅かに仰け反った。言ってから、昨夜の晩餐会で「公女」の母であると名乗り出た大公妃が居たと思い出す。
(大公の子が揃って男ばっかりなわけないか)
 それならば何故、昨晩は晩餐会に来なかったのだろうか。
「んもう、兄さまったら! 公女の顔を弄り過ぎではありません? それと女性の前で何度も嘔吐を話題にしないでくださいな」
 リューキネは乱れたヴェールと髪を手で直しつつ、不平を並べた。
「うるさい。誰の所為だ」そんな彼女にエランはにべもなく言う。「反省したなら、セリカへの挨拶をやり直せ」
「ええそうですわね。改めまして、リューキネ・ヤジャットですわ。嘘を吐いたこと……お許しくださいましね。エラン兄さまがいたく気に入ったという姫君にお会いできたのが嬉しくて、少しからかってみたくなったのですわ」
 美少女は優雅に一礼した。腕も伸ばせば触れられるこの距離からだと、はためいた衣装の裾から微香が漂う。石鹸の名残か、それとも香油か。柑橘類の香りが少女の明るい色の服装とよく合っていた。
 セリカは返答に窮する。いたく気に入ったとは、またどういった冗談なのか。
 許すも何も、怒っているわけではなく驚いていただけであって――
「ん……ヤジャット? どこかで聞いた名だわ」
「ええ、ええ。あの豚の眷属ことウドゥアル・ヤジャットとは、残念ながら母を同じくしています」
 今度はリューキネが嫌そうな顔をした。長くて広がりのある袖で口元を覆い、吐き気を抑える素振りを見せている。
「ぶ、豚の眷属って」
 言い得て妙だが、自分の兄に対してひどい言い様である。
「否定できまして? ああ、あのような醜い男と出所が同じだなんて、信じられませんわ」
「…………」
 改めて相対すると、リューキネの人形のような愛らしい美貌は目に入れただけで二の句も告げなくなるほど見事だった。造形の美しさはもちろんのこと、装飾品や化粧も狂いなく整えられている。
(鼻ピアスから耳飾が細いチェーンで繋がってるのも、綺麗。エキゾチックというか、色っぽいというか)
 やはり真似できそうにない。
 あのだらしない第四公子とは柔らかい輪郭――丸顔ともいうが、リューキネの方は小顔だ――や垂れた目が似ているが、それだけだ。
「あの男はともかく。せっかく兄さまたちが戻ってらしたのに、なんだかつまんないですわー」
「つまらないって、どういうこと?」
「大した意味じゃない。こいつはアスト兄上に相手にしてもらえなくて拗ねているだけだ」
 傍らのエランが先に答えた。
「どうしてアスト兄さまは構ってくださらないのでしょう?」
「諦めろ。いくら軽薄なアスト兄上でも守備範囲というものがある」
「まあ! わたくしこれでも十四歳ですわよ」
「だが血縁者だ。どう可愛がられたところで兄妹の域を出ない」
「わたくしは、それでもよかったですわ。アスト兄さまは息をしてくださるだけで尊いんですもの。わたくしの兄は、アスト兄さまだけで十分です」
 脚本で組まれたみたいな会話である。
 慣れた様子で展開される掛け合いを前に、セリカは顔を引きつらせた。自分も家族とはこうだっただろうか。今となっては、思い出せない。
「と、この通り、リューは見てくれはいいが中身は単なるアストファン・ザハイルの崇拝者だ。いや、兄上の顔の崇拝者か。お前も気を遣わずに適当に接すればいい」
 ぽすん、とエランは自分より頭一個分は小さい少女の肩に肘をのせた。
「仲が良いのね」
「あぶれ者同士、仕方なく一緒にいるだけですわ。あ、エラン兄さま、髪結ってくださいまし」
「三つ編み四本でいいか」
「お願いしますわ。セリカ姉さまはそこに座って、お茶とお菓子でもどうぞ……姉さまと呼んでもよろしくて?」
 彼女の上目遣いでの問いに内心では「気が早いのでは」と思いながらも、構わないわ、と頷いておいた。
 それにしても、まだ昼食を消化し切っていないというのに菓子を勧められるとは思わなかった。茶だけでもいただこうと、セリカは座布団を引き寄せ、絨毯の上に腰を掛ける。
 四角い卓の向かい側にリューキネが座る。ヴェールを脱いだ彼女の後ろにエランが膝立ちになった。
 少女の、絹の如く細やかな黒髪が露わになる。腰に届く長さのそれは束ねてもあまり厚みが無いように見えるが、その分クセもなくて手触りが良さそうだ。こまめに梳かないと何かと暴走しがちなセリカの髪とは、勝手が違うのだろう。
(あぶれ者ってどういう意味か、訊いてもいいのかしら)
 どこからともなく現れた使用人が小振りのティーカップに茶を注ぐ間、しばしセリカは考え込んだ。
 さすがに踏み込みすぎだ、より無難な角度から攻めた方がいいだろう。たとえばどうして昨夜の晩餐会にリューキネ公女は来なかったのか。けれども答えが「呼ばれなかったから」である場合を想定して、やはり何も言えなくなる。
 こちらが悶々と思考する間にも、三つ編みは着々と出来上がっていく。口では何と言っていても、よほど仲が良いらしい。髪を触らせるのは信頼の証であり、エランの手際の良さも、幾度となく頼まれたからだと推測できる。
 手持ち無沙汰なセリカは、茶と菓子をゆっくりと堪能した。
 三つ編みも残りあと一本となった。途端に、リューキネがニヤリと笑う。
「あなたも大変ですわね。こんな、焦土のような男と添い遂げなければならないなんて」
 ぐいっと彼女の頭が後ろに引っ張られた。
「誰が焦土だ。大概にしないと、この髪、とぐろを巻かせるぞ」
「いやー! 下品ですわ兄さま! そんなモノをうら若き娘の頭の上で象ろうだなんて!」
「いい気味だ」
 またおかしな方向性の掛け合いが始まった。正直ついていけない。
 そんなことよりもセリカは「焦土」というキーワードに気を取られていた。焦土の別名は黒土。くろつちくり色、泥の色――。
「ねえ、川底の泥みたいだって言ったのってもしかして」
 ふと思い当たり、訊ねてみる。主語を抜いたのは一応配慮したつもりである。それだけで、彼には十分に伝わった。
「それはアスト兄上だった」
「アスト兄さまが仰ることなら、わたくしも同意見ですわ。何の話かわかりませんけれど」
「話がわからないのに何故入り込もうとする」
「わたくしがいながら夫婦で内緒話なんてするからです」
「それって、あたしが悪いってこと」
 苦笑い交じりにセリカは自分を指差した。
「そうなりますわねー」
「リュー……お前の相手をしていると疲れるな。この宮殿にいながら、人を振り回す稀有な女だ」
 妹の後頭部に向けて、エランがまた大袈裟に嘆息する。
「疲れるだなんて。病弱美少女の世話を、楽しんでらっしゃるくせに」
「病弱美少女らしさがあれば、或いは楽しめたかもしれないが」
「身体が弱いからって気も弱くなければならないなんて誰が決めたんですの? わたくしは生まれ付いての貧血持ちで、今後もきっと子供を産めません。嫁ぐことなく一生を此処でしか過ごせないのですもの。窮屈な人生、せいぜい人で遊んで楽しませていただきますわ」
「ああ。お前はそれでいい」
 そう肯定した青年は、微かに笑ったようだった。
 瞬間、セリカは冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
 強い語気で言い切ったリューキネ公女を見つめる。こんな風に強気に笑えるようになるまでに、彼女はどれほど苦悩しただろうか。
 生まれた境遇を悲観してばかりの己を恥じた。
 少なくともセリカは健康な身体を持っている。公女としての役割を与えられ、異国の地を踏む機会も与えられた。だからと言って現状に盲目に満足していいわけではないが、もう少し感謝の念を抱いて生きよう、と決意を新たにする。
「あなたの言う通りね、リューキネ公女。静かに儚げに過ごすことないわ」
「まあ、話のわかる方ですのね。嬉しいですわ、セリカ姉さま」
 少女は嬉しそうに両手を叩き合わせた。
 その時――バルコニーの入り口に大きな人影が現れた。失礼いたします、と彼は跪いて声をかける。
「どうした、タバンヌス」
 リューキネの髪を結い終えたらしいエランが、振り返った。
「ベネフォーリ公子殿下がお呼びです。エラン公子、セリカラーサ公女ご両名にお伝えしたいことがあるそうで」
「わかった。すぐに向かう」
 目配せされた。その意図を汲み取り、セリカはカップに残る茶をひと思いに飲み切る。食器をなるべく静かにまとめて、使用人に手渡した。
「ごちそうさまでした。リューキネ公女殿下、席を立ってもよろしいでしょうか」
「ええ。いってらっしゃいませ、セリカ姉さま。エラン兄さまも。髪、ありがとうございました」
「リュー、あまり風に当たりすぎるなよ。無理は禁物だ」
「わかってますわ。でも今日は本当に気分がいいんですのよ」
「そうだな。いつもより食欲もあったようだな」
 エランは妹姫の被り物を丁寧に直した。それから別れの挨拶を済ませてその場から立ち去る。
 セリカも後に続こうとして、しかし服を引っ張られてたたらを踏んだ。振り返ると、神妙な顔でリューキネが見上げてくる。
「ひとつ忠告させてくださいませ」
「忠告?」
「――殿方の事情に、姫君が興味を持つべきではありません」
 眼光を鋭くして、リューキネは声を潜めた。
「わたくしたちは非力です。想いのままに口を挟んで大事おおごとに巻き込まれても、誰も助けてはくれませんのよ。女が出しゃばったのがいけないのだと、笑われるだけですわ」
「なんであたしにそんな話を……」
 問い質してもリューキネは「さあなんででしょう」と曖昧に笑うだけである。そのまま彼女は手を放して、こちらに背を向けた。
 追及するべきではないと悟り、セリカは会釈をして踵を返す。

_______

 鞍上のベネフォーリ公子は深刻そうな表情を浮かべていた。
 彼はこれからムゥダ=ヴァハナを発たねばならないと言う。簡易的な旅装に身を包み、最低限の荷物を馬の背に積んで、護衛も僅か数人を従えている。
「困ったことになった。私が統治する州にて暴動が起こったらしい。発端はまだ突き止められていないが、戻って様子を確かめに行かねばならない。すまない、エラン。結婚式には出席できなさそうだ」
「お気遣いなく。事態が速やかに解決しますように、兄上のご幸運を祈ります」
「ありがとう。それと困ったことはまだある。父上の容態が悪化したそうだ。もしも明日の朝までに良くならないようなら、式は延期されるだろう」
 ――式が延期に?
 花嫁でありながら今日、何の予定も入れられなかった点を思い返す。準備が滞っているように感じられたのは気のせいではなかったらしい。きっとこうなることを見越して誰かが進行を遅らせたのだろう。
 結婚が先延ばしにされる可能性が、セリカを複雑な気分にさせる。
 エランの三歩後ろで頭を下げたままとにかく静聴を続けた。
「それもお気遣いなく。場合によっては、ベネ兄上が戻って来れるほどの猶予を得られるかもしれませんね」
 と、エランは殊勝な返事をした。きっと今頃は長兄に向けて例の作り笑いを見せているのだろうとセリカは予想する。
「そうだといいな。……公女殿下、少しよろしいですか」
 ぶふん、と馬が鼻を鳴らす音が聴こえた。ベネフォーリを乗せた馬が近付いてくるのがわかる。
「何でしょうか」
「すみません。度々、ご迷惑をおかけしています。それに、この国に着いたばかりで不安もあるでしょう。希望があれば何でも気軽にエランに相談してみてください。人には淡白な印象を持たれがちですが、責任感が強い者です。きっと公女殿下が過ごしやすいよう、尽くしてくれるでしょう」
 ――第一公子はヌンディーク大公と似たようなことを言う。
 この時セリカは、もしかしたらまたエランが嫌そうな顔をしているのではないかと気になった。現状、確認する術は無いが。
 それらしい礼の言葉や挨拶で応じてから、二人でベネフォーリ公子の少数の一行を見送った。
(責任感、か)
 件の青年の横顔を盗み見る。
(こいつがあたしに構うのは「責任感」からなのかしらね)
 考えてみれば、会ったばかりの人間に特別な感情を抱いたりはしない。間を埋めるのは礼節や気遣い――ちゃんとした礼節さえあるのかどうか、両者ともに怪しいところだが。
「それならそうと……無理、しなくてもいいのに」
 無意識に呟いていた。
「何か言ったか」
「なんでもないわ」
 セリカは頭を振る。
 面白くないのだろうか、自分は。何か不満なのだろうか。
 森で出会ったのは迎えに来てくれたからではなかったのだと知った時と同様の、気持ちの沈みを自覚する。
 ――これはあてがわれた相手、形式上の関係だ。期待をするような要素は何処にも無い。
 心の中の確たる一線を、セリカは再度認識する。
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