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佐和田さんと私

佐和田さんと私 その5

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 私の通う大学は一月六日から授業が始まる。年末ぎりぎりまで授業があったことを考えればなんとも短い冬休みだが、それを補ってなお有り余るほど春休みと夏休みが長い。大学生活が〝人生のモラトリアム〟と揶揄されるのも納得である。

 大学に着いたのが九時前だった。がらんとした教室の中頃にある長椅子に座り、教授が来るのを待っていると、私を挟むようにしてふたりの人物が席に腰掛けた。何故だか満面の笑みを浮かべるその人物は、茂川先生と佐和田さんだった。

 何やらただならぬ気配を感じながらも、私は「あけましておめでとうございます」と頭を下げる。茂川先生は「あけましておめでとう」と答え、それに続けて佐和田さんが「今年もよろしく」と言った。ふたりが同時に握手を求めてきたので、私は腕を胸の前で交差させてそれに応じた。

「さて、今日はどんな厄介ごとを持ち込んできたのですか」
「酷い言われようだな。私達が君にそこまで迷惑を掛けたかい?」
「そういうわけでは。ですが、おふたりの顔がなにやら怪しかったもので」

「笑顔には自信があったんだがね」と佐和田さんは少し不服そうな笑みを浮かべる。そんな彼女の代わりに話し始めたのは茂川先生であった。

「安心してよ。僕たちは在原くんにお礼を言いに来ただけだから」
「お礼を言われるようなことなんて何もしていないと思いますが」
「まあ、君の中では些細な事だったろうね。でも、あれが無ければ僕らの目的は間違いなく達成出来ていなかった。感謝しているんだよ。僕も佐和田さんも」

「そうさ。感謝している、心から」と立ち直った佐和田さんが続く。

「待ってください。お礼を言ってくださるのはありがたいですが、せめて何に対しての礼なのか教えてくださいよ」
「残念だが、それはまだ教えることは出来ない。だが、然るべき時がくれば教えることを約束しよう。とにかく今日は、お礼を言いたいんだ」

 正体不明の感謝ほど気味の悪いものはない。出来ることならば「要りません」と突き返したいところである。しかし形として受け取っていない物の受け取り拒否など出来るわけもなく、私はふたりから雨のように浴びせられる「ありがとう」を甘んじて受け入れるしかなかった。





 その日も、その次の日も、さらにその次の日も、アンリは「忙しい」の一言に尽きた。空前絶後のゾウキリンブームは瞬く間に関東を飛び越え、東北と関西を楽々侵略し、北海道と九州、沖縄を席巻した後、ついにはアジア圏に進出した。

 インターネットの力、恐るべしである。

 このままいけば、かつて浮遊当時の新座のように世界中から多くの人がこの地を訪れるのは遠くない出来事であろう。

 その日、ピークの時間を超えて少し暇になった頃合いで、私はマスターに休憩を取るように言われた。店の奥の一番奥の席に落ち着いた私が自分で淹れたコーヒーを飲みつつ、店内のざわめきに耳を傾けていると、青前さんがオムライスの乗せられた白い皿を持ってやってきた。

「はい差し入れ。お代は要らないってお父さんが」
「これはこれは。申し訳ありません」

 オムライスを見た私は「おや」と思った。チキンライスを包む薄い玉子焼きの表面には、デミグラスソースでゾウキリンの絵が描かれている。不器用で、いかにも子どもが描いた絵のようだ。大方、ムーブメントに乗り遅れまいと色気を出したマスターが、試作品として創り出したものを私に試食させようとしているのだろう。

「まったく。普段は商売っ気なんて全然出さないのにさ」と青前さんは唇を尖らせた。

「これ、明日にでもお客さんに出すつもりなんだよ。やるならもっと練習してからにして欲しいよね」
「いいではありませんか。マスターだって浮かれたい時くらいあります」
「お祭りとは違うんだよ、ナリヒラくん」
「これがお祭りでなくて、何がお祭りですか」
「他人事だと思っちゃって。朝から夜までお客さんでいっぱいで、本当に大変なんだからね」

 青前さんは、彼女らしくないピリピリとした雰囲気を纏っていた。忙しさのせいで疲れが溜まっているのもあるだろうが、何より予定していたゾウキリンの出現と新座浮遊の関係性を調べる私達の計画が開始する前に頓挫してしまったことが大きな要因であろう。誰にだって心の休養が必要だ。

 私は彼女に「今度どこかへ行きますか」と提案した。

「今度っていつ? どこかへってどこ?」
「青前さんのお好きなままに。例え世界の果てにだってついて行きます」
「調子のいいことばっかり言っちゃって!」

 怒ったように言いながらも嬉しそうに笑った青前さんは、私の背中を勢いよく叩くと、キッチンの方へと引っ込んでいった。私は背中を擦りながらゾウキリンライスを一口食べた。コクのある甘い香りが鼻の奥まで広がり大変美味である。味は申し分ないが、スプーンを入れたことにより下半身の欠けたゾウキリンがやけに痛々しく見えるのが〝ゾウキリンライス〟の難点であった。
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