父の男

上野たすく

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クロス・ストリート ~蛍視点~

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 蛍は首を捻った。

「夢遊病って、眠ったときに起こる症状じゃ……?」

 蛍に口づけてきたとき、昭弘は眠ってなどいなかった。

「この人、秒針のある時計を拒むだろう?」

 ぎくりとした。
 加賀島が苦笑する。

「精神的な圧迫と秒針、そして、男。それがこの人のきっかけだ」
「催……眠……?」

 こちらの問いに、加賀島は頭を振った。

「ストレス性睡眠発作だそうだ。その三つが揃ったとき、強いストレスがかかり、直後に眠ってしまう。そして、今度は」
「目前の相手にセックスを迫る? そんなのできすぎだ」
「俺もそう思った。だから、試した。俺でも、自ら寝てくれるのかを」

 蛍は頬を吊り上げた。

「嫌がる先輩を押さえつけて、耳元で腕時計の秒針を聴かせた。だが、一線を超えるストレスを見つけられなくて、何度も失敗した。頭がどうにかなりそうだった。好きな人を罵って、罵って……。疲れて、本心を伝えた。キスをしてくれたよ。初めて」

 顔を上げた男の唇は笑っているのに、目には涙が浮かんでいた。

「この人の、最大のストレスは、愛情だ」

 眉が歪み、唇が震えた。
 息を口から吸って、なんとか脳に酸素を送る。
 加賀島の出した結論に心当たりがあり過ぎて、体の真ん中に空洞ができたような、途方もない悲しみに、本当は泣きたかった。
 そうしなかったのは、男の笑顔が泣いているように見えたからだった。

「俺が試した結果を、先輩にも医師にも言っていない。だから、この事実を知っているのは、俺とお前だけだ。先輩は俺と一緒にいるつもりだったろうけど、俺が無理だ。きっと、知ったことを、悪用してしまう」

 加賀島は深く嘆息した。

「先輩が……、桜井さんが目を覚ましたなら、手を引いてやって欲しい」

 相手は蛍からの応えを待たず、昭弘に一礼し、ドアへと向かった。

「父さんは!」

 ノブに手を伸ばした相手の動きが止まる。

「父さんは今でも昭弘に会うことすらできない」

 加賀島は腕を戻し、蛍へと振り返った。

「あんたは一人の人間の尊厳を踏みにじったんだ」

 握りしめた拳が痛む。

「謝るつもりはない」

 男は視線を逸らそうとしない。

「俺を恨みたいなら恨めばいい。過去を掘り返したいなら掘り返せばいい。真実に辿りつけるとは思えないがな」

 眉を歪ました蛍を見て、加賀島は口角を上げた。

「お前に過去を教えてくれた人間が、たとえ嘘をついていなくとも、それはそいつが考える過去であって、俺が見てきたものじゃない。真実を知りえる人間などいない。自分の都合がいいように、形成しているだけだ」
「じゃあ、あんたが持つ過去も、紛い物だな」
「ああ。だけど、俺には証拠がある」
「証拠?」
「二人が愛し合っていたのなら、お前はここにいないんじゃないのか?」

 肩が震えた。
 よほど、動揺していたのか、加賀島の手が肩に乗るまで、彼が近づいてくることに気づかなかった。

「悲観的に捉えるな。お前の生を非難しているんじゃない。たぶん、渋谷が桜井さんを愛していたと言うのも、一つの真実なんだ。二人が未来を共にすることを、俺が受け入れられなかった。それだけだ。桜井さんを悲しませたことについては」

 男の手が離れる。

「悪かったと、思っている」

 搾り出された声に、奥歯を噛みしめた。

「だったら、昭弘から逃げるんじゃなくて、ちゃんとやってるってところ、見せてやれよ。昭弘は、あんたの人生を壊したのも、自分だと言っていた。だから、傍にいたんだ。昭弘は、あんたも不幸にしたくなかったんだ」

 男の薄い唇が戦慄いた。
 だが、彼は瞬時にそれを押し殺したようだった。

「桜井さんは俺に未来をくれた。今度は俺が与える番だ」

 男は昭弘に一礼して、ドアを開けた。
 そこに、昭弘の父親がいた。
 蛍は皺が刻まれたその顔に、困惑と悲哀の色を見てとった。
 加賀島は老紳士に会釈をし、去って行く。
 蛍は背広を着た男を、中へ通した。
 男の背広の襟に弁護士記章があり、呼吸を止めた。
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