父の男

上野たすく

文字の大きさ
上 下
43 / 78
クロス・ストリート ~蛍視点~

1

しおりを挟む
 夏の照りつける日差しの中、スーツを汗で濡らしながら法務局へ登記の申請をし終え、事務所に戻ってくると、女性事務員の保坂由美子ほさかゆみこが、次のクライアントの依頼を用紙でよこしてきた。
 彼女は二十代半ばのスレンダーな女性で、蛍が務める事務所の経理を任されている。着飾っているわけでもないのに、彼女がいるとパッと空間が明るくなる。事務所内の男連中から、愛の告白を何度か受けているようだが、成就させたという話は、まだ聞かない。
「渋谷君、ご苦労様。暑かっただろう」
 トイレから出てきた体格の良い男が手をハンカチで拭い、微笑んできた。社長である河原だ。目が細く、いつも笑っているような顔をしている。
「ここは天国ですね」
 冷房が効いた部屋は体から熱を取り除いてくれる。
 そうだね、と社長は声を出して笑った。
 大学一年次に司法書士試験には受かったが、雑用から案件を一任させてもらえるまで、人よりも時間がかかった。 
 研修や大学との兼ね合いで、実務経験を積みにくい存在である自分を、見捨てないでいてくれた社長には感謝をしてもしきれない。
 大学だけでは、昭弘の不在を埋めてくれなかっただろう。
 未来を見据えることができたから、自分は今、ここで生きていられる。
 大学の講義の合間を縫ってのシフトのため、大口の仕事には関われないが、小口でも気を抜けば、クライアントに迷惑がかかる。
 司法書士の行う登記業務は、算数のように、解き方にさまざまな方法はあれど、答えというものが決まっている。 
 間違えば、バッシングを受けるだけではすまないため、毎日、神経を張りつめないといけない。
 その緊張が心地よい。
 昭弘がいなくなってからの三年間、そうやって、自分は司法書士として技術を磨いてきた。
「渋谷さん、それ、登記がクライアントに移っていないみたいです」
「わかりました。ありがとうございます」
 添付されている全部事項証明書と、登記簿に目を通しながらデスクにつく。
 たしかに、建物と土地の所有者は、クライアントではなく、彼の祖父になっている。
 ややこしそうだ、と蛍は胸を躍らせた。
 ノートに相続関係を書き出し、どのような登記方法があるかを考え、クライアントに連絡をとるべく、受話器を手にした。

                  * * *

 仕事を終え、肩掛け鞄をひっかけ、残業をしているスタッフに挨拶をして事務所を出ると、蛍は伸びをした。肩を回し、駅へと歩き出す。
「渋谷さん!」
 背後から保坂が走ってくる。
 よほど急いできたのか、彼女は蛍の前で息を整えた。
「あの、電車で帰られるんですよね?」
「ええ」
「そこまで、ご一緒してもいいですか?」
 今すぐ電車に乗るわけではないが、駅前までなら同行できる。
「もちろんです。今日は早く終わったんですね」
「いえ。もう今日は帰ろう、と思って」
「いつも、残業ですもんね」
「仕事が遅いんです」
 保坂が歩くたび、ハイヒールの踵の音がした。
 野良猫が道路を横切っていく。
 女は一瞬、足を止め、また、歩き出した。
 口数が減った彼女へと目を向ける。
「どうかしました?」
「嫌なニュースを思い出してしまって……」
「猫に関わるニュースですか?」
 保坂が首を左右する。
「幼い男の子が悪戯されたうえに殺されたというニュースです。何年も前から、猫や鳥が被害に遭っていて、しばらく、そういうニュースが流れなくて、ほっとしていたんですけど……」
「犯人は捕まったんですか?」
「いえ。だから、二つの事件を一人の人間が犯したとは限らないんですけど……。繋げて考えてしまうんです。どうしても……」
 テレビに感化され過ぎですね、と女は苦笑した。
「……そう思っているのは、きっと、保坂さんだけじゃないと思いますよ」
 静かに言い、蛍は前を見た。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

壁穴奴隷No.19 麻袋の男

猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。 麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は? シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。 前編・後編+後日談の全3話 SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。 ※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。 ※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。

僕が玩具になった理由

Me-ya
BL
🈲R指定🈯 「俺のペットにしてやるよ」 眞司は僕を見下ろしながらそう言った。 🈲R指定🔞 ※この作品はフィクションです。 実在の人物、団体等とは一切関係ありません。 ※この小説は他の場所で書いていましたが、携帯が壊れてスマホに替えた時、小説を書いていた場所が分からなくなってしまいました😨 ので、ここで新しく書き直します…。 (他の場所でも、1カ所書いていますが…)

出産は一番の快楽

及川雨音
BL
出産するのが快感の出産フェチな両性具有総受け話。 とにかく出産が好きすぎて出産出産言いまくってます。出産がゲシュタルト崩壊気味。 【注意事項】 *受けは出産したいだけなので、相手や産まれた子どもに興味はないです。 *寝取られ(NTR)属性持ち攻め有りの複数ヤンデレ攻め *倫理観・道徳観・貞操観が皆無、不謹慎注意 *軽く出産シーン有り *ボテ腹、母乳、アクメ、授乳、女性器、おっぱい描写有り 続編) *近親相姦・母子相姦要素有り *奇形発言注意 *カニバリズム発言有り

元寵姫、淫乱だけど降嫁する

深山恐竜
BL
「かわいらしい子だ。お前のすべては余のものだ」  初めて会ったときに、王さまはこう言った。王さまは強く、賢明で、それでいて性豪だった。麗しい城、呆れるほどの金銀財宝に、傅く奴婢たち。僕はあっという間に身も心も王さまのものになった。  しかし王さまの寵愛はあっという間に移ろい、僕は後宮の片隅で暮らすようになった。僕は王さまの寵愛を取り戻そうとして、王さまの近衛である秀鴈さまに近づいたのだが、秀鴈さまはあやしく笑って僕の乳首をひねりあげた。 「うずいているんでしょう?」秀鴈さまの言葉に、王さまに躾けられた僕の尻穴がうずきだす——。

【BL・R18】可愛い弟に拘束されているのは何ででしょうか…?

梅花
BL
伯爵家長男の俺は、弟が大好き。プラチナブロンドの髪や青色の瞳。見た目もさることながら、性格も良くて俺を『にーに』なんて呼んだりしてさ。 ても、そんな弟が成人を迎えたある日…俺は… 基本、R18のため、描写ありと思ってください。 特に告知はしません。 短編になる予定です。地雷にはお気をつけください!

キミと2回目の恋をしよう

なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。 彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。 彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。 「どこかに旅行だったの?」 傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。 彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。 彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが… 彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?

僕の宿命の人は黒耳のもふもふ尻尾の狛犬でした!【完結】

華周夏
BL
かつての恋を彼は忘れている。運命は、あるのか。繋がった赤い糸。ほどけてしまった赤い糸。繋ぎ直した赤い糸。切れてしまった赤い糸──。その先は?糸ごと君を抱きしめればいい。宿命に翻弄される神の子と、眷属の恋物語【*マークはちょっとHです】

【完結】君の声しか聴こえない

二久アカミ
BL
伊山理央(24)はネット配信などを主にしている音楽配信コンポーザー。 引きこもりがちな理央だが、ある日、頼まれたライブにギタリストとして出演した後、トラブルに巻き込まれ、気づけばラブホテルで男と二人で眠っていた。 一緒にいた男は人気バンドAVのボーカル安達朋也。二人はとあることからその後も交流を持ち、お互いの音楽性と人間性、そしてDom/subという第二の性で惹かれ合い、次第に距離を詰めていく……。 引きこもりコンプレックス持ちで人に接するのが苦手な天才が、自分とは全く別の光のような存在とともに自分を認めていくBLです。 ※2022年6月 Kindleに移行しました。

処理中です...