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クロス・ストリート ~蛍視点~
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夏の照りつける日差しの中、スーツを汗で濡らしながら法務局へ登記の申請をし終え、事務所に戻ってくると、女性事務員の保坂由美子が、次のクライアントの依頼を用紙でよこしてきた。
彼女は二十代半ばのスレンダーな女性で、蛍が務める事務所の経理を任されている。着飾っているわけでもないのに、彼女がいるとパッと空間が明るくなる。事務所内の男連中から、愛の告白を何度か受けているようだが、成就させたという話は、まだ聞かない。
「渋谷君、ご苦労様。暑かっただろう」
トイレから出てきた体格の良い男が手をハンカチで拭い、微笑んできた。社長である河原だ。目が細く、いつも笑っているような顔をしている。
「ここは天国ですね」
冷房が効いた部屋は体から熱を取り除いてくれる。
そうだね、と社長は声を出して笑った。
大学一年次に司法書士試験には受かったが、雑用から案件を一任させてもらえるまで、人よりも時間がかかった。
研修や大学との兼ね合いで、実務経験を積みにくい存在である自分を、見捨てないでいてくれた社長には感謝をしてもしきれない。
大学だけでは、昭弘の不在を埋めてくれなかっただろう。
未来を見据えることができたから、自分は今、ここで生きていられる。
大学の講義の合間を縫ってのシフトのため、大口の仕事には関われないが、小口でも気を抜けば、クライアントに迷惑がかかる。
司法書士の行う登記業務は、算数のように、解き方にさまざまな方法はあれど、答えというものが決まっている。
間違えば、バッシングを受けるだけではすまないため、毎日、神経を張りつめないといけない。
その緊張が心地よい。
昭弘がいなくなってからの三年間、そうやって、自分は司法書士として技術を磨いてきた。
「渋谷さん、それ、登記がクライアントに移っていないみたいです」
「わかりました。ありがとうございます」
添付されている全部事項証明書と、登記簿に目を通しながらデスクにつく。
たしかに、建物と土地の所有者は、クライアントではなく、彼の祖父になっている。
ややこしそうだ、と蛍は胸を躍らせた。
ノートに相続関係を書き出し、どのような登記方法があるかを考え、クライアントに連絡をとるべく、受話器を手にした。
* * *
仕事を終え、肩掛け鞄をひっかけ、残業をしているスタッフに挨拶をして事務所を出ると、蛍は伸びをした。肩を回し、駅へと歩き出す。
「渋谷さん!」
背後から保坂が走ってくる。
よほど急いできたのか、彼女は蛍の前で息を整えた。
「あの、電車で帰られるんですよね?」
「ええ」
「そこまで、ご一緒してもいいですか?」
今すぐ電車に乗るわけではないが、駅前までなら同行できる。
「もちろんです。今日は早く終わったんですね」
「いえ。もう今日は帰ろう、と思って」
「いつも、残業ですもんね」
「仕事が遅いんです」
保坂が歩くたび、ハイヒールの踵の音がした。
野良猫が道路を横切っていく。
女は一瞬、足を止め、また、歩き出した。
口数が減った彼女へと目を向ける。
「どうかしました?」
「嫌なニュースを思い出してしまって……」
「猫に関わるニュースですか?」
保坂が首を左右する。
「幼い男の子が悪戯されたうえに殺されたというニュースです。何年も前から、猫や鳥が被害に遭っていて、しばらく、そういうニュースが流れなくて、ほっとしていたんですけど……」
「犯人は捕まったんですか?」
「いえ。だから、二つの事件を一人の人間が犯したとは限らないんですけど……。繋げて考えてしまうんです。どうしても……」
テレビに感化され過ぎですね、と女は苦笑した。
「……そう思っているのは、きっと、保坂さんだけじゃないと思いますよ」
静かに言い、蛍は前を見た。
彼女は二十代半ばのスレンダーな女性で、蛍が務める事務所の経理を任されている。着飾っているわけでもないのに、彼女がいるとパッと空間が明るくなる。事務所内の男連中から、愛の告白を何度か受けているようだが、成就させたという話は、まだ聞かない。
「渋谷君、ご苦労様。暑かっただろう」
トイレから出てきた体格の良い男が手をハンカチで拭い、微笑んできた。社長である河原だ。目が細く、いつも笑っているような顔をしている。
「ここは天国ですね」
冷房が効いた部屋は体から熱を取り除いてくれる。
そうだね、と社長は声を出して笑った。
大学一年次に司法書士試験には受かったが、雑用から案件を一任させてもらえるまで、人よりも時間がかかった。
研修や大学との兼ね合いで、実務経験を積みにくい存在である自分を、見捨てないでいてくれた社長には感謝をしてもしきれない。
大学だけでは、昭弘の不在を埋めてくれなかっただろう。
未来を見据えることができたから、自分は今、ここで生きていられる。
大学の講義の合間を縫ってのシフトのため、大口の仕事には関われないが、小口でも気を抜けば、クライアントに迷惑がかかる。
司法書士の行う登記業務は、算数のように、解き方にさまざまな方法はあれど、答えというものが決まっている。
間違えば、バッシングを受けるだけではすまないため、毎日、神経を張りつめないといけない。
その緊張が心地よい。
昭弘がいなくなってからの三年間、そうやって、自分は司法書士として技術を磨いてきた。
「渋谷さん、それ、登記がクライアントに移っていないみたいです」
「わかりました。ありがとうございます」
添付されている全部事項証明書と、登記簿に目を通しながらデスクにつく。
たしかに、建物と土地の所有者は、クライアントではなく、彼の祖父になっている。
ややこしそうだ、と蛍は胸を躍らせた。
ノートに相続関係を書き出し、どのような登記方法があるかを考え、クライアントに連絡をとるべく、受話器を手にした。
* * *
仕事を終え、肩掛け鞄をひっかけ、残業をしているスタッフに挨拶をして事務所を出ると、蛍は伸びをした。肩を回し、駅へと歩き出す。
「渋谷さん!」
背後から保坂が走ってくる。
よほど急いできたのか、彼女は蛍の前で息を整えた。
「あの、電車で帰られるんですよね?」
「ええ」
「そこまで、ご一緒してもいいですか?」
今すぐ電車に乗るわけではないが、駅前までなら同行できる。
「もちろんです。今日は早く終わったんですね」
「いえ。もう今日は帰ろう、と思って」
「いつも、残業ですもんね」
「仕事が遅いんです」
保坂が歩くたび、ハイヒールの踵の音がした。
野良猫が道路を横切っていく。
女は一瞬、足を止め、また、歩き出した。
口数が減った彼女へと目を向ける。
「どうかしました?」
「嫌なニュースを思い出してしまって……」
「猫に関わるニュースですか?」
保坂が首を左右する。
「幼い男の子が悪戯されたうえに殺されたというニュースです。何年も前から、猫や鳥が被害に遭っていて、しばらく、そういうニュースが流れなくて、ほっとしていたんですけど……」
「犯人は捕まったんですか?」
「いえ。だから、二つの事件を一人の人間が犯したとは限らないんですけど……。繋げて考えてしまうんです。どうしても……」
テレビに感化され過ぎですね、と女は苦笑した。
「……そう思っているのは、きっと、保坂さんだけじゃないと思いますよ」
静かに言い、蛍は前を見た。
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