クローバー

上野たすく

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84(神薙視点)

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 インターホンが鳴り、神薙はパソコンのキーボードから手をどけ、立ち上がった。
 セキュリティー装置の画面に、絢斗が映る。
 彼は無言だ。
 月見里一心からの連絡はない。
 青年が約束を破るとは思えず、何かがあったのだと察した。
 セキュリティーを解除する。
 通路には、絢斗とF班の富嶽晃がいた。
 なるほど、富嶽が案内役を買って出てくれたのか。
 神薙は富嶽に笑んだ。
「ありがとう」
「いえ。俺はこれで」
 青年は頭を下げ、去って行った。
 絢斗は弁当を持っている。
 食べてこなかったのか。
 時刻は午後四時前。
 夕飯にはまだ早いが、月見里達と一緒に食べると思っていた。
 下を向いている絢斗を部屋へ通す。
「おかえり」
 絢斗は無言で、キッチンへと歩いて行く。
 神薙は感情を宥めようと息をつき、デスクに座った。
 飯島から言いつけられた書類を作成しなければいけない。
 絢斗は引き戸を開け、何か金属製のものを取り出し、蛇口をひねるとIHヒーターのスイッチを押した。
 神薙は作業に集中した。
 実際は、集中しようとし、心の片隅で、絢斗の動作をとらえていた。
 今まで、異性であれ、同性であれ、こんな状態になったことはない。
 本当は仕事を放り出して、絢斗を見つめていたかった。
 そんなこと、できるはずもないのに。
 思いを隠すように、キーボードで文字を叩き込んだ。
「あのさ」
 声をかけられ、心が鷲づかみにされたように甘く痛む。
 振り返ると、絢斗はバツが悪そうに俯いた。
「一息、ついたら?」
「ああ。これが終わったら」
 言いかけ、絢斗が真顔になるのを目にし、やめた。
「いや。そうだな。少し休むよ」
 文章を保存し、パソコンをスリープ状態にして、絢斗の元へ行った。
 カップが二つ、キッチンのワークトップに並べられている。
「白湯だけど」
 カップから湯気が立っている。
「体にいいってテレビが言っていた」
「ありがとう。もらうよ」
 キッチンにもたれ、カップを口にした。
 絢斗が自分のために淹れてくれたことが、とても嬉しかった。
 神薙が白湯を喉に通すと、絢斗もカップを口元で傾けた。
 温かいものが体を流れていき、ほっと肩の力が抜けた。
「学生の頃を思い出す。食費がつきたとき、水ばかり飲んでいた。空腹が過ぎたら、夏でも湯を作っていた。少しずつ飲むと、腹が満たされたから」
 絢斗は驚いたようだった。
 神薙は唇を伸ばし、白湯を啜った。
「お湯はたくさん飲んできたけど、人に淹れてもらった方が美味しいな」
 絢斗は両手でカップを持ち、目を伏せた。
「てっきり、良いところのぼんぼんかと思っていた」
 絢斗が抱いたイメージに、神薙は吹き出した。
「なんだよ! 笑うことないだろ」
「悪い。意表を突かれて」
 絢斗はムスッとしながら、白湯を飲んだ。
 その綺麗な横顔を見ていたら、勝手に口が動いた。
「僕は生まれてから高校まで、施設にいた」
 絢斗が目を見開く。
「良いところのぼんぼんどころか、親の顔も知らない」
「…………」
「金がないのに進学を選んだのは、自分を取り囲んでいた環境から抜け出したかったからだ。どんなに綺麗事を言っても、いまだ日本は学歴社会だ。大学を卒業していないと、受けられない会社が多くある。表に出さないだけで、大学名でふるいにかける会社だって、ざらだ。多くの人間が通るだろう道へ行かなければ、その先の選択肢が狭まる」
 絢斗は黙って聞いてくれている。
「頭がずば抜けて良ければ、苦労しなかったんだろうけど、僕は違ったから、授業料が免除にならなくて、奨学金を受けた。奨学金は単位を落としたら打ち消される契約だったし、そもそも勉強をするために入学したんだ。授業に専念したかった。現実は生活に追われてバイト三昧だったよ。施設を出たら支援はない。生活費は自分で稼がなくちゃいけなかった。成績はお世辞にもいいとは言えなかったな」
 神薙は自分を揶揄するように笑った。
「やっとの思いで卒業したら、今度は奨学金の支払いに追われてる。時折、思いしらされる。僕のスタート地点は多くの人間より、何十歩も後ろなんだって」
 最後は、ほとんど独り言だった。
 前を見ながら白湯を啜る。
 絢斗はカップをワークトップに置き、神薙に寄りそってきた。
 心臓が跳ね、鼓動が大きくなる。
「絢斗?」
 袖を掴まれ、赤らんだ顔を向けられる。
 神薙は喉を鳴らし、震える手でカップをワークトップに戻した。
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